◆BookBookBook◆

📚読書備忘録📚
(自己評価★★★★★)+泣ける物語
たまに山ブログ
         

『大江健三郎全小説6』

2023-05-17 | 大江健三郎

 

 

ノーベル文学賞作家ついにその全貌をあらわす!「大江健三郎 全小説 全15巻」講談社創業110周年記念企画


かなり立派なハードカバーです。
読書会課題本(以下課題作)
持ち歩きが重く、時間がなく電車で読んでて浮いてました・・

 

 

 

・身がわり山羊の反撃

「プロフェソール、」

 

「はい…プロフェソール
 難解キャンディーズ」!!(笑)

 

--------(抜粋)

 

四国の山中にある小さな村をでて、メキシコで暮らす偽医者のモノローグ。プロフェソールというメキシコ・シティの大学で教えに来ている日本人に対し一方的な語りをする。「わし」という一人称で話をする関西のなまりのある男の語りだけで物語るという大江にはめずらしい構成。新たな文体での挑戦的作品。

 10歳のとき(終戦の前年)に大水があり、不安定な岩盤の上に築かれた五軒の家がすべて流された。その五軒の家は実はよそ者として地元で差別を受けていたのである。大水のなか助かったのは「わし」ひとりであった。助かった自分は村長によって厚遇されながら育てられることになった。その理由は大水に流されるなか親たちが乗っていた藁屋根からただひとり馬小屋の屋根に乗り移ったという勇気、さらに村の神社の前を流されているにも関わらず神社に向かってオジギをしたという村への忠誠心、ということで英雄と考えられたからである。が実は村人たちが五軒の家を差別扱いしていたということに対する贖罪のあらわれでもあった。
 13歳の頃にあるできごとがあった。中学3年生が修学旅行から戻ってみたら、集団で赤痢にかかり隔離されるという事件である。赤痢で苦しむ子ども達は飲み水を求めて川に飛び込むということをしたのだ。自分はその様子を何もしないでじっとみていた。しかし後日そのことでとがめられることはなかった。だがそのことがあってからは、自分の置かれている立場は陽の寵児から陰の寵児に変わっていった。
 高校二年生のとき自殺未遂をした。それまではやったこともなかった風呂を沸かすということをして、湯に浸かりながら小刀で腕頸を切りつけるということを。
 高校を出たあと、村人たちの寄付などで大学の医学部にまで進学することができた。しかし五回も医師国家試験に落ちてしまった。村人は自分が村に帰るのをいやがって、わざと試験に落ちているのではないかと疑った。
 その後、村は全体が没落をすることとなり、多くのひとがコロンビアに移住することになり、自分も付き添いの医者として船に乗ることとなった。
 主人公「わし」はいつの時代もずっと集団からの疎外を感じながら生きてきた。
 大江作品としてはちょっと異色ではあるが、面白さは保証付き。入手が難しいがぜひ読んで欲しい作品


--------

 

 

 

・揚げソーセージの食べ方

 

「ソーセージがまたまともで驚き」


「揚げソーセージを食べてる場面出ました(笑)
 やっぱりおかしみがありますね」
「ソーセージ、兵衛伯父さん、まともじゃないでしょ~www」
「まぁそうですが許容範囲(笑)」

 

 

・グルート島のレントゲン画法

 

「グルート島 エッセイっぽいですね」

 

---

 

ファーストクラスにシャンペンか、

 

---

 

--------(抜粋)

 

大江作品には題名に凝ったものが多く、読後にも印象深く残る。この作品もそのひとつである。しかり”グルート島””レントゲン画法”、といわれても全くわからないのが一般的であろう。
グルート島はオーストラリア北部カーペンタリア湾にある小さな島。レントゲン画法とはレントゲンでものの中を透視したように描く手法のこと。走っているバスを外観として画いているのに、中の人物までがえがかれているような手法。
高校生の娘との話をきっかけに「僕」は20年前に一箇月ほど滞在したオーストラリアでの出来事を思い出した。オーストラリアの文化関係当局からアデレイド芸術祭に招待されたとき、分科会で詩人達の集まりに参加した。そのときは通訳をしてくれたグラノフスキー君の語学力不足と自分の聴き取り能力不足で満足な答えができなかったのだ。芸術祭のあと関心のあった現地先住民(アボリジニー)の生活・信仰・芸術にふれてみたいと思った。グラノフスキー君はそれを実現すべくグルート島へ行く計画をたててくれた。その旅に同行することになったのがナオミという娘である。ナオミは蓮実大使の末娘で問題があるといわれていた。そしてグルート島に向かった、、、。
先住民の描く絵にはレントゲン画法がよく使われるのだが、彼らの眼はわれわれの胸のうちから腹腔まで、なみもかも見てしまうことになるだろう。

オーストラリアを舞台にしたちょっと雰囲気の異なる作品である。
 

 

--------

 

 

 

・見せるだけの拷問

 

・・・睡魔
「酔って、笑いながら・昂奮して」

 

--------(抜粋)

 

カリフォルニア大学、バークレイ校にいたとき、ある若い男が尋ねてきた。髭が特長である。彼はアメリカで日本文学の教師となるため博士号をとろうとしていた。名前を中根という。
 中根君は博士号をとるために特別の方策を考えていた。すでに国際作家となっているMとAを中心に論文を準備しているが、そこに10年後の世代の作家「僕」を加えるというのだ。そして自分に新しい中篇小説を書いて貰い、それを草稿の段階から分析をし、定稿となったら英訳をする。タイトルは「酔って、笑いながら・昂奮して」。これは二十年も前にマーサンに話したタイトルそのものだった。マーサンは女子大の大学院英文科に籍を置きながら米軍基地に勤めていた。年齢は30前。「僕」は20代の始めの頃だった。
 そのマーサンとの関わりについて物語は進む。
 「みせるだけの拷問」(テルティシオ・レアリス)というタイトル。またしてもなんとも奇抜な題名である。「そいつを見るだけで、あんたがガタガタになるもの」という言葉から引き出されている。

 

--------

 

 

 

・メヒコの大抜け穴

 

メヒコ!?🦀🦀🦀

 

「メヒコに壊す人が出てきた~(笑)
 それもまた太字だし。 ウケる。 デジャヴってます」
「炭焼き・・(笑)
 大江健三郎おもしろ過ぎる」

 

「メヒコに大島渚監督がサンフランシスコに来た話がありました」

 

「部屋の下で炭焼きしてたって話」

 

 

 

・もうひとり和泉式部が生まれた日

 

「なんか読んでるけど、イマイチ頭に入ってこず…
 苦戦してます」

「シキブサーン また変な世界ですね」

「式部さんが!
 四国は語尾が『が!』ですね。
 女先生、まともだと思ったのに…何で途中からそんな展開になるのか…」
「そうですね「が」!
 和泉式部読み終わりましたが、難解過ぎて理解不能…」
「最後二度読みしてもよく分からず…」

 

 

--------(抜粋)

 

戦争が終わろうとしていた頃、主人公「僕」の生まれ育った谷間の村に都会から多く女たちが帰ってきた。そのひとりに花伯母さんがいた。五十年輩の花伯母さんは本家の倉屋敷にひとりで住んでいた。
 夏のはじめ放課後に学校に残って遊んでいるときに、高等科の国語授業があり、和泉式部の歌を黒板に女先生が書いて教えていた。歌は十数首書かれていて、「僕」はそのすべてを花伯母さんから教えられて知っていたが、黒板に書かれていたのは歌のすべてであり、自分が知っているシキブサンの歌ではなかった。「僕」は花伯母さんに教えられた部分以外はすべてチョークで抹消するということをした。それは例えば「花咲かぬ谷の底にも住まなくに深くもののを思ふ春かな」を「谷の底にも住まなくに!」と、まるで祝詞のようにして声にして憶えて行くものであった。
 「僕」はこのいたずらで校長室につれてゆかれ殴られることになった。

 その女先生に奇妙な噂が流れだした。先生は神社脇で身もだえしながら舞っている、しかも苦しげな声をたてながらというもの。 それは神事であった。そして「大いなる女たち」についての神話的な伝承が書かれることになった。

 森の伝承と和泉式部の歌との組み合わせという突飛な発想が深い物語を作っている。

 

--------

 

 

 

・その山羊を野に

 

「山羊はちょっと笑える」

「既に大凧に躰を縛りつけて、谷間から森全体を見わたした曾祖母についての言い伝えがあるって苦笑
 伝説とか好きですよね」
「大凧って、んなわけないじゃん…
 これちょい役で兵衛伯父さん出てきます」

「蜜枝アネサマって…ははは」
「トンデモ住人っすね。
 また谷間と『在』とかレギュラー用語が」

「とりめの助長さん」

 

 

--------(抜粋)

 

大江作品は登場人物の名前がユニークでそれだけでも楽しい。よくぞこんな名前を考えるものだと感心するばかりである。この作品では「蜜枝アネサマ」。今であれば「壇蜜」という女優の名前で多少は慣れているかもしれないが、なにしろ1984年の話である。突拍子もない命名である。「蜜枝」もうそうだが「アネサマ」がついてしまえばもう笑うしかない。
 そのアネサマは30そこそこの女性である。戦争末期、疎開して谷間の村にやって来た蜜枝アネサマは魅力的である。小説の冒頭にでてくる贖罪山羊(スケープ・ゴート)としての配役である。日本の風土物語にでてくる女性のように若い男の相手を次々とした。しかし大勢の男を相手にしていてもそこには整然とした秩序がある。
 この蜜枝アネサマがある日豹変する。「元禄花見踊り」と呼ばれるほどの華美な服装に変わった。そこから物語は深くなってゆく。

 

--------

 

 

 

・「罪のゆるし」のあお草

 

「イーヨー、マイペースです」

「罪のゆるし 意外や重めですね」

「罪のゆるし、最後はいい感じでした」

「神隠し」

「ウィリアム・ブレイク…さっぱりわからん」

「大江健三郎を読んでいるといかに自分が凡人かわかります」
「同じくです。次元が違います」
「すっかりハマってますね(笑)」

 

--------(抜粋)

 

昨年の春、家族みなでアラレの降りしきる谷間に帰省した。裏の座敷から川面をへだてた対岸の、いちいち記憶にきざまれている巨木に、落葉した雑木の斜面を、時をおいて白い闇にとざすアラレが降る。風景が再び明るくなった後、天井で音がするのは、瓦の隙間に入りこんでいたアラレがバラバラこぼれ落ちるのだと母親はいった。彼女はさきの秋に大病をした。この冬はしばしばアラレの通過を、そばだてた耳に聞いて夜をすごしたのだろう。

 

--------

 

 

 

・いかに木を殺すか

 

死刑制度

 

--------(抜粋)

 

 How to kill a tree. シカゴで会った日系アメリカ人の歴史学者の、こちらは韓国系アメリカ人である夫人からおくられたハワイの写真集に、このタイトルをつけた切実な物語があった。発行から時をへたその写真集には、日進月歩するカメラと印刷技術の今日でありながら、またハワイの風物という月並な主題をあつかいながら、古典的なといいたいほどの風格があり、引き付けられた。オアフ島のハイスクールで知りあい、苦学の末、アメリカ本土で職をえて結婚した歴史学者夫婦の、写真集への思いのたくし方に共感させるものがあるのでもあった。

 

--------

 

 

 

抜粋はこちらから→ 若い読者のための大江健三郎ワールド

これぞ備忘録📚

 





 🐤♡


この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 天目茶碗再び | トップ | 『アリスの棘』 »
最新の画像もっと見る