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2017-06-27 | 司馬遼太郎



司馬遼太郎
【ワイド版】
『街道をゆく 14 南伊予・西土佐の道』★★★


http://publications.asahi.com/kaidou/14/index.shtml
これはどきどき。
伊予弁?に癒されているから余計に感慨深い「そうなんよ~」







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生温い四国弁というが、讃岐、阿波、土佐にはあてはまりにくい。
伊予弁だけがそうで


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そうそう(笑)
先日の家族とのやさしさあふれるやわらかい会話を聞いてホント泣きそうになった。
(同じこと言っているけどそれだけ印象深かった)

ここまで来るときっかけがない限り捨てるわけにもいかない??








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伊予は愛比売で、文字どおりいい女という意味である。
ずいぶん粋な言葉を県名にしたものだと思うが、おそらく松山の教養人が『古事記』を披いて江木に見せ、その判断資料にしたのではないか。



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松山という地名は、秀吉のころここに城と城下をつくった加藤嘉明が、正木(松前)の城からいまの松山城の丘に城を移したのだが、赤松の美しさを見て松山と命名したといわれている。



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『愛媛面影』

伊予第一の川ということで、伊予川とよばれていた。重信というのは、改修者の名である。日本の河川で人名がついているのは、この川だけではないか。


比志川(註・肱川)の流れを引て、城郭の遠望、殊にめでたし。

とあるが、私も、日本の旧城下町でこれほど美しい一角を持った土地はないと思ったりした。
「大洲はいいですよ」



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伊予人の気風は南にくだるにつれてのびやかになるといわれている。



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うだつは、卯建と書いて、かつてはうだちともいったらしい。



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あきちゃん元気かな・・







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豊臣政権のときには、南伊予は戸田氏、藤堂氏、富田氏がそれぞれみじかい期間、領主になった。
伊達氏が宇和島十万石に封ぜられるのは徳川幕府草創期の慶長十九年(一六一四)で、途中転封されることなく明治四年(一八七一)の廃藩置県にまでいたる。
伊達氏の統治は、農民に対するとりたてなども、二百数十年を均していえば廃藩に比してきびしくはない。藩政はほぼ安定し、宇和島らしい庶民文化を成熟させた点、江戸期の諸藩の政治のなかでも出色といっていい。

伊達氏とは、いうまでもなく奥州の伊達氏である。


奥州人が奥州人だけで一個の行政組織を編成して白河ノ関以西に領地をもつというのは、私の知るかぎりでは史上最初のことで、その後もない。
ましてその封地が南海道(紀伊と淡路それに四国)であり、そのなかでも温暖で物成りもわるくないとされる南伊予なのである。



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なぜか漢字ではなくひらがなのかわいい文字を探せなかった・・
司馬さん♪


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