司馬遼太郎
【ワイド版】
『街道をゆく 36 本所深川散歩、神田界隈』★★★
http://publications.asahi.com/kaidou/36/index.shtml
元我が住まい、既になつかしく思う。
5年の間だったけど都内で一番ながく住んだ場所
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神田神保町の古本屋さんの棚の前で本に見入っている中年の男の横顔がじつにいい、活字が視線に吸いこまれて脳細胞がうごき、その脳神経のうごきがふたたび光にともなわれて活字に吸いこまれている。人間というのはすばらしいですね。……
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下町という言葉を、この頃は「下層の町」という意味に使ったり、そのように解釈している人があるが、下町は山の手の対する呼び名で、東京の地形から出ている。
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江戸でも神田は火事が多かった。
その神田でも神田佐久間町が火元の場合がとくに多かったといわれている。
――佐久間町じゃなくて、悪魔町だ。
などと、いわれた。このことは、神田花岡町(明治初年は、秋葉の原)の火伏の神である秋葉神社のくだりで、わずかにふれた。
佐久間町というのは神田の東の端で、地下鉄秋葉原駅の東側にある小地域である。
駿河台の東麓にあたるため、冬の西北風がはげしく吹くと、低い佐久間町で気流が渦巻き、わずかな火でも大きくなり、遠くへひろがりという説がある。げんに、江戸時代、佐久間町から出た火が佃島まで飛火したという例が二度ばかりあった、
“火もとは佐久間町っだ”というと、江戸じゅうがふるえあがったらしい。佐久間町のひとたちにとって、たまったものではなかった。
それほど火事に縁がありながら、佐久間町には材木商や薪商が軒をならべていて、火が出るたびに火勢を大きくした。そんな商売が多かったのは、この町が神田川の北岸にあって、筏を入れるのに便利がよかったためである。
明治二年(1869)の神田大火は、またしても佐久間町にちかい相生町から出火して、十ヵ町をひとなめにしてしまった。新政府はちょうどさいわいとおもったのか、火災のあと、九千坪の町屋をとりはらって火除地をつくった。
ところが、世にもふしぎなことがある。
東京じゅうを火の海にした関東大震災(大正12・1923年)のとき、神田はおろか東京の下町(低地)のほとんどが焼けてしまったのに、神田佐久間町だけは、二丁目から四丁目まで涼やかに焼けのこったのである。
奇跡でもなんでもなく、地震から四時間後に発生した東京大火のなかで、佐久間町のひとびとが、町内を一歩もしりぞくことなく、中世の籠城軍のように火という火を叩きふせて消してしまったのである。むかしからの不評判に、全員が腹をたてていたにちがいなく、こんな話は日本都市史上、稀有なのではないか。むろん、官の指導でもなく、また玄人の消防がやってきてくれたわけでもなかった。
佐久間町を襲った火は、まず神田駅方面からやってきて神田川の南岸を舐めつくした。佐久間町は北岸である。火は南岸から町にむかってさかんに火の粉を降らせた。
この間、佐久間町のひとびとは逃げるよりもいっせいに踏みとどまり、さまざまな手段で消してまわった。その当時、豆腐屋、魚屋、八百屋には専用の井戸があったから、ひとびとはそれをつかい、ほとんど、バケツリレーだった。
なかでも危険な建物は、木造二階建の佐久間小学校で、その二階天井裏に火が入ったときばかりは、ひとびとはこれまでかとおもったらしい。なかでも勇敢なひとたちが教室にとびこんで学童用の机を天井裏まで積みあげ、それにのぼり、下からバケツリレーを受けては天井裏に水をかけ、しまいには豆腐をぶっつけて火を消した、という。その話が、千代田区編纂の『おはなし千代田』に出ている。
これが、九月一日のことであった。
夕方には消しとめたのだが、その夜の八時ごろになって火はこんどは国鉄(JR)秋葉原駅のほうからやってきた。それを四時間かかって食いとめた。
翌二日の朝八時ごろ、三度目の大火が蔵前方面から延びてきて、佐久間町を、その東と北からはさみうちするように襲いかかった。町内のひとびとは十数時間、消火に駆けまわって消しとめた。
この九月二日の消火段階になるとひとびとは馴れてきて、和泉町にあった東京市の下水道ポンプ場の水を利用した。
また佐久間町に「帝国ポンプ」というポンプ屋さんがあって、たまたまガソリンポンプが置かれていた。ひとびとはそれを操作し、まず井戸水を汲みあつめ、右のポンプでもって放水した。
足かけ二日、消火に駆けまわった時間は三十一時間で、世界防火史上、類のない奮闘で、見返してやるんだという意気ごみでいえば、いかにも下町っ子らしい働きだったといえる。
いま、
「町内協力防火守護之地」
と刻まれた碑が佐久間小学校の校庭にあるというが、私は見ぞこねている。
明治三十七年うまれの神田っ子である故永井龍男氏は、神田について「東京のうちでも火事の多いことで知られていた」ち、『落葉の上を』(朝日新聞社)に書いている。
……北風が吹きすさんで、横丁の裏店のトタン屋根までガタピシ突っ込んでくる冬の夜は、お袋は位牌と火災保険の証書を枕もとに置き、シャツ・モモヒキ類は、火急の際にも身につけられるように命令を下した。
そのお袋は、生命保険のことなどこれっぱかりも知らないが、火災保険だけは無理に無理をして再契約した。
なんだか火の上で暮らしているような覚悟のよさで、このあたりはさすが火事が名物のまちだけに、さきにふれた奈良、京、金沢という火の用心が徹底したまちとは、気分がちがっている。
近火が発生した町には、警察の手で非常線が敷かれる。警官たちは口に呼び笛をふくみ、手に六尺棒をもっている。火事場のまわりに非常線を張るのは全国共通であるにしても、火事を背にして警官が変に勇んでいるようにもおもえる。当時は、東京の警察は茨城県出身が多かったが、
もっとも、警官が排除すべき弥次馬のほうも、多かったろう。
永井さんは、末っ子である。「長兄は十二歳の頃、小学校を中退して印刷工場の徒弟(『東京の横丁』)になったが、その火事のときにはすでに若者になっていた。永井さんの一家が手当たり次第に家財をかついでは、市電の線路道まで運び、線路上で夜あかししていると、思わぬとこに長兄がそこを見つけてやってきた。
長兄は、勤めを終えて神田小川町で友達と呑んでいると、猿楽町が火事だときいた。人力車を飛ばして火事場をめざしていると、駿河台下で非常線に引っかかった。友達が、とっさに永井さんの長兄を華族の若様に仕立て、
――若様、お邸が燃えています。お早く。
といった。おかげで、警官が目をつぶってくれたという。神田は下町とはいえ、一部お屋敷町もあって、古風な洋館の小松宮家や西園寺公望の邸があった。“若様“には現実感はあったのである。
幼い永井さんがそのときの長兄の姿を見ると、「着ていた羽織を一つかみにふところへねじ込んだ威勢のいい姿」だったという。火事場に駆けつける若者の心得もうかがえる。
永井さんの小学校の錦華小学校も、このひとが四年生のときに焼けてしまい、六年生の卒業まで二部授業で、卒業式もよその学校を借りておこなわれたらしい。
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長文抜粋してしまった。
わたしの中の神保町界隈は、上京してから何度となく通っている街
お気に入りのカレー屋さんもそう、
なつかしのゴルフスクールもそう、
先日ふらっと喫茶店開拓☆