司馬遼太郎
『街道をゆく 5モンゴル紀行』★★★
本書は1978年12月に刊行された朝日文庫の新装版
http://publications.asahi.com/kaidou/05/index.shtml
今回は通勤本にはならず、集中して週末読む2
やはりノモンハンのこともあり興味津々
ちょうどNHKで司馬遼太郎の思索紀行をみた。
「日本とは 日本人とは」
「武士の遺伝子」
ハバロフスク~イルクーツク~ウランバートル そしてゴビへ。
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「歴史」というのは了ってしまえば馬鹿のようなものだ。当時の私は、自分が常時もぐりこんでいる中戦車の油くさい鉄の壁を通してしか、自分の運命を考えることができなかった。
ひまつぶしにこまると、人間というのはつい人間を見物してしまうらしい。泳いでいるひとびとを、岸辺でおおぜいの男女が見物している。その男女を私が見物してしまっている。
「モンゴル人民共和国の言葉は、ロシア語ですか」
「いいえ、モンゴル語です」
地上に降りてふりかえると、奈良の若草山のような感じの山が飛行場の一方を、風から防ぐようにして折りかさなっていた。われわれはその稜線越しに降りてきたのだが、ぜんたいとしてひどく物柔かな自然のように感ぜられた。肺がはずむような感じで空気のよさがわかった。このすばらしくいい空気をわずかな人口のモンゴル人が享受しているのかと思うと、幸福というのは一体何なのか。私は、東京で喘息で苦しんでる友人を思いだした。彼を連れてきてやればよかったと思ったが、しかし彼は喘息の発作のために何日か一度は死ぬような気分に襲われながらも、銀座裏の酒場を何軒かまわらなければ一晩も過ごせない男なのである。
コレって吉行さん!?
先日のエッセイの中で苦しんでいた。
私の小さな経験では、海辺という、単調な水平線を見て少年時代を送った人はわりあい故郷を恋しがらず、地形の複雑な山の中育ちの人ほど、年をとると故郷を恋しがるということのように思えるのだが、この法則?からすれば、いわば一望海のような大草原のなかで育ったモンゴル人の故郷感覚はどうなっているのだろう。このことは昔からふしぎに思っていた。
P195~218
飛行機は去ったが、陽はなお、草遥かな西方の野に残っている。空は蒼穹とまではゆかなかったが、幸い風がつよく雲が時間とともに吹き払われつつあるようで、地には小さな例の香草が、花をつけた首を風の中で小きざみに振っている。何億という数の草が、ゆれているのである。
(ひょっとすると、凄い星空が見られるかもしれない)
と、遠ざかってゆく機影を見ながら、期待をもった。この星空への期待は出発前から楽しみにしたもので、あるいは子供のころからのものかもしれない。
唐の詩人は、モンゴルの草原や砂漠のことを沙場といったり、北庭といったりする。
「風は西極に連なりて動き、月は北庭を過ぎし寒し」
という杜甫の詩句を想い出した。
モンゴル人はとびきり客好きだし、とくに旅人が好きである。むかしからモンゴルの風習として、見知らぬ旅人が来れば何はともあれ食事を出してくれるし、泊めてもくれる。家族がぜんぶ包を出払って外出するときは、留守中に旅人がきた場合のことを考えて、ご馳走を台の上にならべておく、旅人はぬっと入ってきてそれらを飲み食いし、そのまま出て行っていい。これらの心遣いというのは草原の掟といってよく、いまも昔もこの遊牧社会をささえてきた精神要素のひとつなのである。血肉まで融けこんだこの習慣が、モンゴルにおいて社会主義を可能にした大きな要素といえるかもしれない。
右目が腫れている。。