江國香織
『号泣する準備はできていた』★★★★
「あなたのことがわからないわ」
「なぜすべてわかろうとする?」
穏やかとも言える口調で、夫はそう言った。
前進、もしくは前進と思われるもの。
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「歩きながらうたうのも好きだけど、歩きながらお酒をのむのも好きなの」
「両方する?」
「するっ」
私たちは手をつなぎ、小さい声でうたいながら歩いた。ときどきそれぞれビールをのんだ。むし暑い夜で、ビールはぬるく、濃くやさしい味がした。
「熱帯夜だね」
「うん。熱帯夜だ」
一度、立ちどまって深いキスをした。ビールはぬるいのに、唇はつめたく新鮮な味がした。
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鮮やかなオレンジ色の、ミモレットチーズ
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「~知ってた?私たち、一緒に暮らしてはいても、全然別の物語を生きてるのよ。知ってた、そのこと」
「私たち一度は愛しあってたのに、不思議ねぇ。もう全然なんにも感じない」
「ねぇ、どう思う?そのこと」
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なにもかも、上手くいかなくなってる。そのことに気づきたくはなかったが、気づいてしまった。
注意深くしていたのに。
私は思うのだけど、注意深くするのは愚かなことだ。当然だ。誰かを好きになったら注意など怠り、浮かれて、永遠とか運命とか、その他ありとあらゆるこの世のないものを信じて、さっさと同居でも結婚でも妊娠でもしてしまう方がいいのだろう。
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「私たち、もうじき墜落するわ」
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雨がまだ降り続いている。窓はすべて閉きってあるのに、さわさわという細かい音が、まるで耳元で囁くみたいにふいに近くにきこえる。