われわれがわれわれの人生をどちらの車に乗せるか、つまり、自分の人生に最大の要求を課すか、あるいは、最小の要求を課すかである。このことはわたしに、正統仏教により厳格で深遠な教法とより安易で浅薄な教法があることを思い出させる。つまり、大乗の車あるいは「大道」を選ぶか、小乗の車あるいは「小道」を選ぶかの選択。
わたしは、これまでの数章において、今日の世界を支配している新しいタイプの人間の実相を明らかにしようと試みてきた。わたしはその人間を大衆人と呼び、その主な特徴は、彼は自分自身凡庸であることを自覚しつつ、凡庸たることの権利を主張し、自分より高い次元からの示唆に耳を貸すことを拒否していることである点を指摘した。もしこうした
人間としての態度が各民族の中で支配的であるならば、諸国民の総体のなかにも同じ現象が現れてくるのは当然である。歴史を形成してきた人類のエリートである偉大な創造的民族に対して断乎として反抗しようとする「大衆民族」も存在するのである。これあるいはあれといった小さな共和国が、世界の片隅から爪先立ってヨーロッパを譴責し、その世界史上の職を免職にすると宣言している姿は、まったく滑稽そのものである。
わたしは歴史の絶対的な予定説を信じない。
進歩主義者は立派な未来主義の仮面をかぶりながら、そのじつ未来には無関心なのである。
慢心しきったお坊ちゃんの時代。
真摯な態度で自己の存在に立ち向かい、自己の存在に全責任を持つ者はすべて、自分を常に警戒態勢を、とるように仕向けるようなある種の不安感を、感ずるはずである。この姿勢は悪くない。それはあたかも、ひそやかな未来の胎動を聞き分けんがため、夜の静寂にいっそうの静寂を命じてる姿ともとれるからである。
生が衰退の危機に瀕している根本的な問題は、「慢心したお坊ちゃん」という、そうしたタイプの人間が時代の支配的人間像になった時には警鐘をならし、つまりは死の一歩手前にあることを知らしめなければならないということである。
アメリカは若さゆえに強力なのであり、その若さのゆえに時代の、掟である「技術」を奉じたわけである。もしも時代の掟が仏教であったとしたら、同じように仏教を奉じたことであろう。しかし、アメリカの歴史は今始まったばかりである。アメリカの苦悩、難問、葛藤が始まるのはこれからである。
空中にはびこった没落論、特に西洋の没落に関する労作が根なし草であることを明らかにするために必要だったからである。没落を云々するのは意味がないのである。
時代の高さは何で計るか。
革命というのは既存の秩序に対する単なる反逆ではなく、新しい秩序を樹立することなのである。
オルテガ.イ.ガゼット(1883年5月9日スペイン生まれ)の言葉

