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1日1冊108円・・・・・・最近そうでもない。

偽善入門 浮世をサバイバルする善悪マニュアル 小池龍之介 2008年9月25日 サンガ

2015-05-24 10:41:17 | 心理
<善悪使用上の注意>
◎「悪」は副作用が強いので、お子様は保護者の指導のもと、用量・用法をよく守って服用してください。
欲や怒りの「悪」を一度に多量に服用すると、不眠、頭痛、目まい、胸焼け等を発症する恐れがあります。ないし、長期的な視野で見ると、嫌な人や嫌な出来事を呼び寄せる恐れがあります。
◎「善」は、食前食後を問わず、何錠服用して頂いても結構ですが、偽物にご注意下さい。
近頃は比較的良心的な偽物「偽」から、悪質な偽物「善」まで出回っていますから、僧侶と相談の上、より害の少ない偽物を服用するのが賢明です。
前袖より。
どこかで聞いたことある・・・と思ったら、ちょろちょろテレビ出てた(る?)坊さんなのね。


Ⅰ 道徳の猥褻さ
1 タダ乗り偽善

綺麗な嘘

 このような台詞は世の中に満ち溢れております。どうしてこんなにも道徳を売り物にしたがるのでしょうか。それは、「他人や社会が道徳的に振る舞ってくれたほうが、自分にとって得」という打算がはたらいているからでしょう。これが世間的な生き方であります。
このような台詞→子供に道徳をちゃんと教えなければならない
 従って、他人に対しては「人に親切にしましょう」「見返りを求めぬ愛が大切」などと説く御方に限って、自分自身は心が狭かったり、身近な家族に対して親切でなかったりするものなのです。
ええ、知ってる
 道徳とは一般に「自分が得をするために他人に守らせたいもの」という特徴を帯びるのではないかと推測されます。自分が労力を払うことなく周りの人間に労力を払わせるために、道徳に「タダ乗り」しようとしているのです。結果として、世の中の道徳は「他人に押し付けるもの」「命令的なもの」という特徴を帯びて参ります。
最近有名な道徳の問題というと、「イルカの追い込み漁」の件かな。

そもそも「人間の都合で他の生物を無理矢理生息域から連れて来て管理している水族館(動物園)」そのものがそこにいる生物に「残酷」な施設なのは明らか。
よって「追い込み漁は残酷だから止めるべき」という主張は詭弁でしかない。生物に対して残酷であることを問題であるとするなら、世界中の水族館(動物園)を爆破する方向になるはずなのである。(きりっ)
追い込み漁を批判するなら、「追い込み漁のイルカ」と「他の捕獲法のイルカ」を比較して、「寿命が短い」とか「病気になりやすい」とか、そういう「事実」を持ってくるべき。

ところで、日本はこの先他の方法でイルカを手に入れないとだよねぇ?
でも1番効率良いからこその追い込み漁だったんだろうから、他の方法にしたら当然手に入るイルカの数は減るよねぇ?
そして日本での繁殖が難しいなら、イルカの数を維持するには他国から買うしかないよねぇ?
・・・そういうことなんだろうね、しねばいいのに。



「他人/自分」の優先順位
「他人を変えようとしても無駄である」という定型文はよく耳にされるでしょう。
 これを「タダ乗り欲望に対する怒りの反発」という観点から解釈し直すことができるように思います。
 すなわち、「変えようとしても無駄」と申しますより、「変えようとするとかえって悪化させる」と申したほうがより正確でしょう。
 もしも相手に直してほしいところがありますなら、それを指摘して相手を責めるより、「ここを直してほしくて仕様がない!」と思ってしまう自分の反応パターンが、自らを操っている様子をチェックして、自分の反応パターンを組み替えてみたほうがよろしいのです。
うーん・・・
自身の『イライラしていた不快感』を取り除いたところで、根本的な解決にはなりませんよね?

 自らが穏やかになることができますと、己から発散される心のオーラが気品のある明るいものに変わりますから、相手も今までのようなぞんざいな態度でこちらに接することができなくなるのです。このようにして初めて相手は変わってくれます。
 ただしそれは、こちらが先に心を変化させた後の「おまけ的な副作用」であることを忘れてはなりませんでしょう。
これは親しい人間の「悪い癖を直す」程度の話、だよねぇ・・・。
「気品のある明るい心のオーラ」なんかで「会社の方針」は動かねーからナ。



Ⅱ 偽善を使いこなす
1 偽善グラデーション
偽善果汁パーセント
 第一章では、世の中で知らず知らずのうちにこっそり使われている道徳に関しまして、いかにそれがインチキで悪臭を放ったものであるかということを、さまざまな側面から検討して参りました。
確かに既成概念をぶち壊していくパターンでございました。
 しかしながら、道徳を「インチキなものです」とか「良い子トリックに過ぎない」といったように、「偽善である」と切り捨ててしまうわけには参りません。何故なら、この世の中にはほぼ九九・九九九パーセント、偽善しか存在しないからです。
な、なんd
な・・・ッ、なんだってーッ!
あんたが言うんかいぃぃぃ!!!



「綺麗ごと」は一応綺麗

 なるほど確かに、偽善は「偽」の点にウエイトを置いて「善」と考えてしまいますと、間違ったもの、良くないもの、破壊すべきもの、といったニュアンスを帯びて参ります。しかしながら、ウエイトを置く点を移動させ、偽善の「偽」にアクセントを置くといたしますなら、それはあくまでも善なのです。
※太字は文字の横に点。付け方がわからないので太字で代用。
「一応善だから掲げるだけでも少しは良い影響がある」と続くんだけどさ・・・
偽りありになるくらいなら掲げない方がいいと思ってしまいます・・・ボクの悪い癖。



2 アウトロー気取り

スペシャル感偽造ツール

「自分は社会不適応者だから、皆と上手くやっていくことなんてできない」といったような態度を取りますこと一つ取っても、自ら社会全体とは異なった、適応できない特別な人間として、斜に構えているのです。あるいはもっと積極的に社会や自分が所属してる集団のルールを馬鹿にして、「このかけがえのない僕はルールなんかに縛られないもんね」といったポーズを取るといった方向性もあるでしょう。どちらの方向性であるにせよ、このお手軽な特別感の手に入れ方には人気があります。流行っているのです。そしてまさにそれゆえに、誰もが斜に構えてルールを破る社会になってしまい、ルール破りは残念ながらもはや「特別」ではなくなってしまいました。
/(^o^)\

だがちょっと待ってほしい・・・(参考:小池龍之介-Wikipedia
『破門処分を受け僧籍削除となる』
『自身でお経を唱えず、葬儀・法要にかかわらない異色の僧侶とコメントしている』
あえて言おう、自己紹介乙であると!



脳内ストーリーからのイエデ

 そういった地道な努力を続けて、自分がようやく人並みの真人間になれてきたなあというころに、一人の非常に尊敬すべき仏道の師に出会うことができました。それからようやく生まれて初めて仏道を歩み始めたと申すことができましょう。
 それまで私が抱え、変革しようと自力で悪戦苦闘してきた問題は、仏道の考え方や座禅によってあらかた解決できてしまうことに気づき、大きな感銘を受けたのを覚えています。
「友よ、今こそあのAAを使う時!」
「応ッ!」
( ´_ゝ`)フーン

この本の時点で著者は29歳。『真人間になれてきたなあというころ』って20代ですよね?
ウヌボレンナ、ウヌボレンナ!(ピコピコ)
その後『仏道を歩み始めた』て、当時の嫁に酷いことしてた時期も『ペーパー僧侶でありまして』だし、略歴見る限り仏道に関わる仕事しかしてないですよね?
・・・仏道って、その、楽勝なんスね!

 その道を長らく歩んで参りました結果、昔の自分を知っている人と久しぶりに会いましたなら、「同一人物とはまったく思えない」と皆が驚くほどに穏やかになることができ、味の薄い繊細な幸福感の味わいに満足できる人間になることができました。前に述べましたような最低最悪の状態に陥っておりました私ですら、自分自身のカルマや自分が引き寄せる出来事の流れを完全に変えることができたのですから、こんな最低の人間でも、がんばれば変われるんだという参考資料になるのではないでしょうか。つまり、誰でも、変われます。
・・・
『こんな最低の人間でも』、ね。
『そのような何の役にもたたない振る舞いからはできるだけ早く脱出するのが正しい』って述べた本があったなぁ・・・著者の名前は小池・・・誰だったかなぁ?

『味の薄い繊細な幸福感の味わいに満足できる人間』の主張、なんだか薄くねぇ?
『味の薄い』と『繊細な』を並べるところに違和感を覚えるんだよなー・・・本心では物足りなさを感じてるから『味の薄い』って表現になるんじゃねぇの、これ。



Ⅲ 善悪の威力

1 善/悪/偽善/偽悪の勢力地図を描き直す

フィクションであり実在いたしません

 大きな疑問が生じます。そんな人はこの地球の歴史上、いったいどこに実在したというのでしょう。少なくとも私の二十九年の人生におきましては、そのような「お人好しの鈴木さん」には一度たりとも出会ったためしがありません。もっと申しますなら、四分の一程度にお人好しの鈴木さんにも出会ったことがありません。
「連帯保証人になった挙句殺されても文句を言わない人」は流石に知らないけど、「連帯保証人になったせいで土地を数百坪失い親戚に泣きついて土地を分けてもらった後、こりずにまた連帯保証人になってさらに数百坪失った人」は知ってるよ!

こいつ(土地を失った人のことではない)は何を言ってるんだ状態。
狭い・・・狭すぎる(土地のことではない)。

(著者はフィクションと断じてる)『お人好しのお馬鹿さん』と、『本物の善人』は違うという意見にははげどう。
『揺るがず動じず、品格を伴ってその場その場の事柄に冷静に対処できる人』って素敵やん?
でも『お人好しのお馬鹿さん』はノンフィクションでアリ実在いたします



なるほどなーと思えるところは少なくない、けど・・・
狭い(土地のことではない)。
なんかもう悟っちゃってるぽい雰囲気だけど、早い、早いよ!
その割にブーメランポイントがちらほらだし、ネ。
それから、著者自身が『なんだってー』しすぎ。それは読者がやるんですー!

読んでてイラッとくるのは同族嫌悪かもしれないと読み返しながら思った。
俺がこういうお題で好きなだけ喋る機会があったら、こういう感じで吐き出しそうな気がするんだよな・・・あ、もうここがそうなて・・・
かゆい
うま


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