先日、このブログで、書籍「「文藝春秋」にみる昭和史 」を紹介しました。
その中に、「昭和6年:満蒙と我が特殊権益座談会(建川美次、森恪、神川彦松ら)」という座談会記事があります。昭和6年に満州事変が勃発する直前になされた座談会の内容を、満州事変勃発直前か直後に出版された文藝春秋誌に掲載したものです。
この中で、神川彦松氏(東京帝国大学教授法学博士)が、たった一人、以下のような意見を述べるのです。
「帝国主義的の活動というものが、(第一次)世界戦争まで来てあれで形勢が一変したと申さなければなりません。
そうして旗印は民族自決主義、これが支那にも移ってきた。」
「日本が依然として帝国主義的な政策を固守するとしますれば、結局問題は支那が無為にして引き下がるか、それができなければ武力的衝突というものは免れない。」
「従来の権益の上に立って日本があくまでも踏ん張るということは・・・私は公言することははなはだ憚りますけれども、いわば大動乱というものに結果して、救われないということが起こりやしないか。」
「私は支那における共産主義というものを重大視しております。
日支がもし敵愾心に燃えて立つというならば、第三者の術中に陥るもの、結局何方にしても大変だと思うのであります。」
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まさに慧眼であり、直後の満州事変、その後の日華事変、さらには共産中国の成立までをも予言したことになりました。
神川彦松という学者を、私はこの座談会以外には知りません。いったいどのような功績を残した学者なのでしょうか。
ネットで調べた結果、以下の書籍に神川先生が登場することがわかりました。そこで、さっそく読んでみました。
この本がまた変わった本です。
ときは昭和31年3月、その前年に保守合同がなって自由民主党が発足します。自民党の党是は憲法改正です。その自民党は満を持して「憲法調査会法案」を国会に提出します。
憲法調査会を作る目的は、憲法の問題点を改めて調査するという点にあります。当然、社会党は反撥します。そこで衆議院内閣委員会は3月に公聴会を開くことを決めます。3人の公述人を呼び、憲法についての考えを聞き、現在の憲法にはどのような問題点・調書があるのか、それを参考に憲法調査会法案の審議を進めていこうというわけです。
その3人とは、神川彦松、中村哲、戒能通孝の3人で、神川一人が改正に賛成、残りの二人が反対という布陣です。
公聴会は3月16日の午前10時32分に開始され、途中休憩を挟み、午後5時47分まで続いてそこで散会します。
1日かけて行われた公聴会の議事録を、そのまま1冊の本にした、それが上記「50年前の憲法大論争」です。著者の保坂氏は「この白熱の議事録から得られる知見は凡百の解説書より深い。50年の歳月を経ていま昭和史の肉声がよみがえる。」とし、この本を出版するのです。
《神川先生の主張》
神川先生は公聴会で、現行憲法を全面的に書き改めるべきであると主張します。その主張の根拠は、憲法の中身が悪い、とういことではありません。憲法が成立した過程が問題であるというその一点のみです。
日本が連合国によって軍事占領されているときに、連合軍総司令部のマッカーサーから憲法原案(英文)を下げ渡され、その原案にごく一部の修正を加えたのみで成立したのが現行憲法です。
神川先生の主張は以下のような内容です。
その憲法の中身に問題があるかないか、そんなことは関係ない。民主主義国の憲法たるもの、その国の国民が自発的に作成したものに限る。国民主権が存在していないときに成立した憲法は、中身がいかに立派に見えようとも、民主主義憲法と呼ぶわけにはいかない。これはどうしても主権を回復した国民によって作り直すべきである。
民主主義は一つで、どこの国の民主主義も同じだ、と考えるのは間違いとします。民主主義というものは、とにかくどこの民主主義でも、主権的国民が自分でおこない、自分の手で書き、自分の利益のためにやる政治でなければならない、とします。
《中村先生の意見》
「現在の憲法ほど各国の憲法に比べて民主主義的であり、平和主義的であり、しかも基本的人権の保障においてよその国よりも厳重であるという憲法は--私は、比較憲法上はこれが最も優れた憲法だと思います。」
そして、当時自民党を中心に議論されていた憲法改正の方向が、現行憲法のいい所を弱めて旧憲法時代に逆戻りさせる方向であるとして反対しています。
《戒能先生の意見》
憲法調査会法案では、憲法調査会を内閣に置くとの案になっています。戒能先生は、憲法改正を検討するのであれば国会に置くべきであると主張します。内閣というのは憲法を忠実に実行すべき機関であるとの考えです。
公述人の意見陳述が終わった後、自民党から4人、日本社会党から4人の代議士が公述人に対する質問に立ちます。
自民党議員4人の中に、元軍人が2人います。一人は眞崎勝次氏、有名な眞崎甚三郎陸軍大将の実の弟です。
そしてもう一人は有名な辻政信議員です。この本では「ノモンハン事件、シンガポール華僑虐殺事件、バターン死の行進、ポートモレスビー作戦、ガダルカナル作戦、ビルマ戦線・・・。つねに辻の名前がありました。戦後、タイに潜伏後帰国し、その著『潜行三千里』はベストセラーになります。昭和27年衆議院議員に当選、四期目の途中で参議院に転じます。昭和36年に東南アジア視察に出かけ、ラオスで失踪。その最期についてはつまだに不明とされます。」と紹介しています。私も、ノモンハン事件、シンガポール華僑虐殺事件、ガダルカナル作戦については、辻が参謀の職務にありながら越権行為でこれら事件を主導したことを聞いています。それ以外にも、第二次大戦中に日本軍が行った無謀な作戦には必ず顔を出していたということになります。
辻政信議員は、中村公述人に対して質問を行います。
辻議員は、中村公述人が昭和16年に発表した論文で一君万民を賛美し、国体の根本理念のようにたたえたことを確認します。そして昭和27年には逆に、明治憲法下での天皇制は、全くの独裁機構そのものであった、と主張したことを確認します。なぜそのような心境の変化が生まれたかを中村公述人に確認した上で、「もし日本に独裁的な赤の政権ができた場合に、こんどこそはそれに屈しないように」と嫌味を言っています。
戦前・戦中と戦後で、中村公述人のように見解を変更するような学者が、最も普通に見受けられたのではないかと推察します。
それに対して神川先生は、むしろ逆でした。
戦前には、軍国主義が日本を蹂躙しつつあるのに臆されず、まさに日本の将来を予測する卓見を発言していました。逆に戦後は、世の中が「平和憲法」を善とする中で民主主義の根本原則をベースに憲法改正を主張します。
戦前の神川先生の考えを知っているからこそ、戦後の国会公聴会における神川先生の主張も信頼することができるというものです。
その中に、「昭和6年:満蒙と我が特殊権益座談会(建川美次、森恪、神川彦松ら)」という座談会記事があります。昭和6年に満州事変が勃発する直前になされた座談会の内容を、満州事変勃発直前か直後に出版された文藝春秋誌に掲載したものです。
この中で、神川彦松氏(東京帝国大学教授法学博士)が、たった一人、以下のような意見を述べるのです。
「帝国主義的の活動というものが、(第一次)世界戦争まで来てあれで形勢が一変したと申さなければなりません。
そうして旗印は民族自決主義、これが支那にも移ってきた。」
「日本が依然として帝国主義的な政策を固守するとしますれば、結局問題は支那が無為にして引き下がるか、それができなければ武力的衝突というものは免れない。」
「従来の権益の上に立って日本があくまでも踏ん張るということは・・・私は公言することははなはだ憚りますけれども、いわば大動乱というものに結果して、救われないということが起こりやしないか。」
「私は支那における共産主義というものを重大視しております。
日支がもし敵愾心に燃えて立つというならば、第三者の術中に陥るもの、結局何方にしても大変だと思うのであります。」
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まさに慧眼であり、直後の満州事変、その後の日華事変、さらには共産中国の成立までをも予言したことになりました。
神川彦松という学者を、私はこの座談会以外には知りません。いったいどのような功績を残した学者なのでしょうか。
ネットで調べた結果、以下の書籍に神川先生が登場することがわかりました。そこで、さっそく読んでみました。
50年前の憲法大論争 (講談社現代新書)講談社このアイテムの詳細を見る |
この本がまた変わった本です。
ときは昭和31年3月、その前年に保守合同がなって自由民主党が発足します。自民党の党是は憲法改正です。その自民党は満を持して「憲法調査会法案」を国会に提出します。
憲法調査会を作る目的は、憲法の問題点を改めて調査するという点にあります。当然、社会党は反撥します。そこで衆議院内閣委員会は3月に公聴会を開くことを決めます。3人の公述人を呼び、憲法についての考えを聞き、現在の憲法にはどのような問題点・調書があるのか、それを参考に憲法調査会法案の審議を進めていこうというわけです。
その3人とは、神川彦松、中村哲、戒能通孝の3人で、神川一人が改正に賛成、残りの二人が反対という布陣です。
公聴会は3月16日の午前10時32分に開始され、途中休憩を挟み、午後5時47分まで続いてそこで散会します。
1日かけて行われた公聴会の議事録を、そのまま1冊の本にした、それが上記「50年前の憲法大論争」です。著者の保坂氏は「この白熱の議事録から得られる知見は凡百の解説書より深い。50年の歳月を経ていま昭和史の肉声がよみがえる。」とし、この本を出版するのです。
《神川先生の主張》
神川先生は公聴会で、現行憲法を全面的に書き改めるべきであると主張します。その主張の根拠は、憲法の中身が悪い、とういことではありません。憲法が成立した過程が問題であるというその一点のみです。
日本が連合国によって軍事占領されているときに、連合軍総司令部のマッカーサーから憲法原案(英文)を下げ渡され、その原案にごく一部の修正を加えたのみで成立したのが現行憲法です。
神川先生の主張は以下のような内容です。
その憲法の中身に問題があるかないか、そんなことは関係ない。民主主義国の憲法たるもの、その国の国民が自発的に作成したものに限る。国民主権が存在していないときに成立した憲法は、中身がいかに立派に見えようとも、民主主義憲法と呼ぶわけにはいかない。これはどうしても主権を回復した国民によって作り直すべきである。
民主主義は一つで、どこの国の民主主義も同じだ、と考えるのは間違いとします。民主主義というものは、とにかくどこの民主主義でも、主権的国民が自分でおこない、自分の手で書き、自分の利益のためにやる政治でなければならない、とします。
《中村先生の意見》
「現在の憲法ほど各国の憲法に比べて民主主義的であり、平和主義的であり、しかも基本的人権の保障においてよその国よりも厳重であるという憲法は--私は、比較憲法上はこれが最も優れた憲法だと思います。」
そして、当時自民党を中心に議論されていた憲法改正の方向が、現行憲法のいい所を弱めて旧憲法時代に逆戻りさせる方向であるとして反対しています。
《戒能先生の意見》
憲法調査会法案では、憲法調査会を内閣に置くとの案になっています。戒能先生は、憲法改正を検討するのであれば国会に置くべきであると主張します。内閣というのは憲法を忠実に実行すべき機関であるとの考えです。
公述人の意見陳述が終わった後、自民党から4人、日本社会党から4人の代議士が公述人に対する質問に立ちます。
自民党議員4人の中に、元軍人が2人います。一人は眞崎勝次氏、有名な眞崎甚三郎陸軍大将の実の弟です。
そしてもう一人は有名な辻政信議員です。この本では「ノモンハン事件、シンガポール華僑虐殺事件、バターン死の行進、ポートモレスビー作戦、ガダルカナル作戦、ビルマ戦線・・・。つねに辻の名前がありました。戦後、タイに潜伏後帰国し、その著『潜行三千里』はベストセラーになります。昭和27年衆議院議員に当選、四期目の途中で参議院に転じます。昭和36年に東南アジア視察に出かけ、ラオスで失踪。その最期についてはつまだに不明とされます。」と紹介しています。私も、ノモンハン事件、シンガポール華僑虐殺事件、ガダルカナル作戦については、辻が参謀の職務にありながら越権行為でこれら事件を主導したことを聞いています。それ以外にも、第二次大戦中に日本軍が行った無謀な作戦には必ず顔を出していたということになります。
辻政信議員は、中村公述人に対して質問を行います。
辻議員は、中村公述人が昭和16年に発表した論文で一君万民を賛美し、国体の根本理念のようにたたえたことを確認します。そして昭和27年には逆に、明治憲法下での天皇制は、全くの独裁機構そのものであった、と主張したことを確認します。なぜそのような心境の変化が生まれたかを中村公述人に確認した上で、「もし日本に独裁的な赤の政権ができた場合に、こんどこそはそれに屈しないように」と嫌味を言っています。
戦前・戦中と戦後で、中村公述人のように見解を変更するような学者が、最も普通に見受けられたのではないかと推察します。
それに対して神川先生は、むしろ逆でした。
戦前には、軍国主義が日本を蹂躙しつつあるのに臆されず、まさに日本の将来を予測する卓見を発言していました。逆に戦後は、世の中が「平和憲法」を善とする中で民主主義の根本原則をベースに憲法改正を主張します。
戦前の神川先生の考えを知っているからこそ、戦後の国会公聴会における神川先生の主張も信頼することができるというものです。