弁理士の日々

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私の履歴書 IIJ 鈴木幸一氏

2019-10-20 10:54:52 | サイエンス・パソコン
日本経済新聞の「私の履歴書」、現在はIIJ会長の鈴木幸一氏が登場しています。

IIJ(インターネット・イニシャティブ・ジャパン)という会社、私が1995年頃にインターネットサービスプロバイダを選択しようとしたとき、その選択肢の一つとしてすでに知っていました。日本のインターネット界で先頭を走っている、という印象は持っていました。

今回、鈴木幸一さんの私の履歴書を読んでいて、1990年から1995年頃にかけての日本のインターネット界がどのような状況にあったのか、それを知ることができ、非常に興味深く読んでいるところです。

私がインターネットにはじめて接したのは1990年です。その当時のことについて、すでに「インターネット初め」として2006年に記事にしています。

1990年頃、私はパソコン通信のNIFTY-Serveに参加し、NIFTY-Serve会員同士のメールやフォーラムでの議論を楽しんでいました。今と違い、メールのやり取りはNIFTY-Serve会員同士の間に限られていました。
職場の同僚が米国に留学し、BITNETなるネットでメールを始めたことを知りました。世の中には(主に米国ですが)BITNET(Because It's Time NET)の他に、CSNET(Computor Science NET)やJUNET(Japan University NET?)などが存在し、それらのネットが「インターネット」なるものでつながっているらしいこともわかってきました。
私が加入するNIFTY-Serveは、当時まだインターネットとつながっていませんでした。しかし、私が同時に参加していた米国のパソコン通信Compuserveはすでにインターネットとつながっていたのです。私は、xxxxx.xxxx.compuserve.comなるメールアドレスの持ち主でした。
そこで、Compuserveからのインターネットメール送信手順を調べ、米国の大学にいる同僚にメールを送ってみたところ(英語のみ)、見事に送ることができました。ただし、Compuserveのアクセスポイントは米国ですから、日本から米国までの通信回路を確保する必要があります。当時、私はTimeNetにも加入していたので、TimePassで米国につなぐことができましたが、1分70円の高額でした。Compuserveのチャージも1分20~30円だったと記憶しています。
いろいろ工夫して、日本語メールが送受信できる環境を私自身で構築しました。詳しいいきさつは「インターネット初め」をご覧ください。
東北大学にも留学している同僚がおり、JUNETでメール可能であると聞きました。そこで、70円/分かけて米国のCompuserve(20円/分)にアクセスし、ここからJUNET宛にメールを出しました。そこから先は無料で東北大学までメールが届きました。このときの「インターネットは通信費が無料」はどうしても不思議でした。

このとき、扱うのはもっぱら文字情報のメールばかりでしたが、インターネットの本質を私自身が垣間見たことになります。

以上のように、すでに1990年にはインターネットが機能しており、世界中とつながることが可能になっていました。そして、「インターネットの通信費用はただ(無料)」という環境は当時すでにできあがっていたのです。
ただし、インターネットが圧倒的な有用性を獲得するのは、その後のワールドワイドウェブとウェブブラウザの登場によってです。
CERNのバーナーズ=リーは、ハイパーテキストとインターネットを結合してワールドワイドウェブを創出しました。ワールドワイドウェブはクライアントサーバモデルに基づくシステムです。
マーク・アンドリーセンらは文字だけでなく画像なども扱える革新的なブラウザ Mosaic を開発し、ネットスケープに至りました。

しかし私は、1993年に弁理士受験勉強を開始し、その後1995年に合格するまで、世間から隔離された生活を送ることになりました。結果として、インターネットの進歩を全く知らずに1995年に至ったのです。
1996年にWindows95パソコンを購入しました。そのパソコンには、ネット経由でネットスケープをダウンロードすることが可能であり、モデムでネットに接続したパソコンに約30分かけてネットスケープをダウンロードしました。
ネットの世界を覗いてみたら、そこは情報の宝庫となっていることが分かりました。ただし、英語情報限定です。
今でこそ、日本語であらゆる情報がネット検索できますが、当時の日本語ネット情報は極めて貧弱でした。

ということで、1992年から1995年にかけての日本でのインターネットの発展状況を、リアルタイムでは見ていませんでした。

そこで、私の履歴書IIJ会長の鈴木幸一さんです。

1992年、鈴木さんは東京・虎ノ門に借りた小さな個人事務所で、気楽な「よろず屋」稼業をしていました。そこに、慶応大の村井純さんとアスキーの深瀬弘恭さんが訪ねてきました。2人は「一緒に商用ネットの会社をつくろう」と持ちかけてきたのです。「じゃあ会社が立ち上がるまで応援しよう」となって、インターネットシニシャティブ(IIJ)が創設されたのです(私の履歴書第11回)。
しかし、日本の関係者の意識は低かったです。(確か)NECに、「インターネットの根幹となるルーターを開発しよう」と持ちかけましたが、全く興味を示しませんでした。その後、ルーターはアメリカのシスコシステムズに独占されることとなります(第12回)。

IIJは、ネット接続企業として「特別第2種電気通信事業者」の登録を受けようとしますが、郵政省が無理難題をふっかけてきました。「通信は公益事業で、倒産は許されない。当初の計画通り設備投資をし、一方で3年間1件も契約が取れないと仮定しても、会社が潰れないという財務基盤を示せ」というのです(第13回)。
郵政省との堂々巡りは94年まで続きます。その間、金策に尽きて、自己破産まで現実味を帯びました。94年になると郵政省が軟化し、住友銀行、富士銀行、三和銀行から計3億円の融資保証を得ることによって、94年2月に郵政省の登録がおりました。しかし、1年数カ月を浪費してしまいました(第14回)。

1994年3月から日本初の商用インターネット接続サービスを開始すると、注文に供給が追いつかない状況が出現したのです。それにしても、IIJが郵政省と不毛な折衝を続けている1年半足らずの間に、世界の現実はずっと先に進んでしまっていました。
ウェブブラウザを創出したアメリカのモザイク社は1994年に産声を上げましたが、実はその少し前に「モザイク社にIIJも出資して、日米で協力関係をつくらないか」という話が持ち込まれたというのです。当時は郵政省の承認が下りる前で食うや食わずであり、当然出資話もお断りしたと言うことです。
「IIJがこの大切な時期を傍観者として過ごさざるを得なかったのは、我が社にとっても日本全体にとっても大きな損失だったと思う。」(第15回)

私は、上述のように、弁理士受験生として1993~1995年を過ごしたので、その間はインターネット空白期間となりました。

一方、鈴木幸一さんがIIJで苦労した後をたどると、日本にとっても1992~1994年はインターネット空白期間だったのですね。
1995年に私がブラウザを道具に再びインターネットに触れたとき、日本語ネット情報はほとんど蓄積されておらず、英語ネット情報のみが充実していましたが、その理由がわかりました。

それにしても、ベンチャー企業であるIIJ以外に、1992年当時にインターネット接続サービスを開始しようとする大手企業が全く存在しなかった、という点については、日本企業の感覚の鈍さに驚くばかりです。
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