弁理士の日々

特許事務所で働く弁理士が、日常を語ります。

明治天皇荻窪御小休所

2015-07-26 00:20:16 | 杉並世田谷散歩
荻窪界隈の探訪第2弾です。
荻窪駅から東南東方向の道を歩いていたら、不思議な建物を見つけました。杉並区立中央図書館へ行く途中です。

《明治天皇荻窪御小休所》
《武家長屋門》
南の道路側から




 

石柱には以下のように記されています。
「明治天皇荻窪御小休所」
「史蹟名勝天然記念物保存法に依り史蹟トシテ昭和九年十一月文部大臣指定」
「昭和十一年十一月」

場所は、下の地図の中央[+]の位置です。

私は、古地図史料出版株式会社が発行している「東京近傍図(1/2万)七面組 明治二十年作 陸地測量部作」を持っています。この地図から、上の地図と同じ位置を下に記します。


「明治天皇荻窪御小休所」について、ネット上では公式の説明を見つけることができませんでした。唯一、伊藤Pの部屋で、下記書籍に説明があるとの記述を見つけました。そこで、さっそく購入しました。
東京の歴史名所を歩く地図
ロム・インターナショナル
河出書房新社

説明によると、古い建築物としては、「明治天皇荻窪御小休所」そのものと、「武家長屋門」の二つがあるようです。私が最初に見つけたのは、そのうちの「武家長屋門」の方のようです。

この場所のすぐ北の道路は、青梅街道の旧道です。江戸時代、その青梅街道沿いに、この界隈の名主を務める中田家の屋敷があったようです。
ここは、第11代将軍家斉が寛政年間(1789~1801)にたびたび訪れた鷹狩りの際、休憩に立ち寄った場所でした。しかし、名家といえども将軍が農家に立ち寄るのではご威光にかかわると、特別に作らせた武家長屋門だと言われています。

南の道路側から見た長屋門の入口
 

この長屋門、下々の出入りを固く禁ずるようないかめしい作りですが、上の写真のように、入口の左通用門が開いています。そこから人々が自由に出入りしています。そこで私も通用門を通り抜けてみました。
長屋門の北側は、左右に大きなビルが建ち並んでいる区域です。長屋門自体は、北側から見た方がよくわかりますが(下写真)、ビルが邪魔して全体を見ることはできません。

北のビル敷地側から


北側から見ると、長屋門の骨組みがよくわかります。中央は門、そして左右は空きスペースです。左側は現在建築資材が置いてありますが、右側は空っぽでした(右下写真)。上記書籍によると、普段はビルの車を停める駐車スペースとして使われているそうです。

ビル敷地側から見た入口                        右側スペース
 

さて、上の長屋門はあくまで「門」であり、それとは別に「明治天皇荻窪御小休所」があるはずです。長屋門の東側、四周を高い生け垣で囲まれてよく見えないのですが、古い木造の平屋一戸建ての小さな建物があります。この建物が「明治天皇荻窪御小休所」のようです。

御小休所らしき建物(南の武家長屋門側から)


ぐるっと一周しました。東側には、出入り口らしい門がありました(下写真)。
御小休所らしき建物(東側から)


p.s. 7/30 明治天皇荻小休所の由来について書き忘れていたので追記します(上記「東京の歴史名所を歩く地図」から)。
明治天皇小休所は、明治天皇が明治16年(1883)4月16日に埼玉県飯能の近衛師団演習統監に向かう途次と、同年4月23日に小金井の観桜会への途次の二度にわたってご小憩した屋敷の跡ということです。以来、明治末まで侍従らによる小金井観桜遠乗り会は毎年行われ、必ずここにも立ち寄られました。

小休所と長屋門はいずれも、昭和62年(1987)に邸宅跡地にビル建築と同時に現在の場所に移転復元された、とあります。それでは、移転前はどのあたりに建っていたのでしょうか。
上の、明治20年地図の中央当たりが、長屋門と小休所の現在の所在地です。ピンクの印は、現在のJR荻窪駅で、私が記入しました。左上から右下に走る道路が青梅街道で、荻窪駅と交差している部分は旧道であり、すぐ上に(現在は)青梅街道バイパスが通っています。地図の「46.1」と書かれた左上部分、ここが「旧中田家」ではないでしょうか。道路を迂回させている当たり、名家の威光が感じられます。そして、長屋門ですから、やはり旧青梅街道に面する位置に建っていたのでしょうか。そうとすると、現在長屋門が建っている南側道路から一つ北側に走っている道路(旧青梅街道)に沿って、北を向いて建っていたことになります。

ところで、上の明治20年地図に戻ります。青色は私が記入したもので、当時の河川を表します。地図の上端の中央に端を発して東に向かう青色、これは桃園川の源流になります。左下に流れる川は善福寺川です。右下にY字の青が見えます。Yの左上端位置は太田黒公園、Yの右上端位置は、これから向かう「読書の森公園」に該当します。
これからも、「明治20年地図」が活躍することとなります。

さて、区立中央図書館に向けて東南東に進みます。
右側に由緒ありげな建物が見えてきました。

《西郊ロッヂング》


ウィキペディアによると、1938年(昭和13年)建築の洋風建築で、2001年の改修後は賃貸住宅となっているそうです。
正確には、1931年(昭和6年)に建築されたのは本館(下写真)で、1938年(昭和13年)には新館(上写真)を増築し、その後、本館を旅館「西郊」として、新館を高級下宿洋館「西郊ロッヂング」として運営されるようになったそうです。
旅館西郊は、西郊ロッヂングに隣接して東側にあります。

《割烹旅館西郊》



せっかく荻窪に勤務しているのですから、一度は旅館西郊に泊まってみたいものです。

区立中央図書館のすぐ西側に、不思議な公園がありました。

《読書の森公園》

説明書きには、「読書の森公園は、平成14年10月に荻窪在住の中田和夫氏のご厚意により寄贈を受けた土地を、区民がみどりに触れながら読書に親しめる公園として整備したものです。 平成18年3月 杉並区」と書かれています。
中田さん?、明治天皇御小休所となった名主の中田さんとご親戚でしょうか?。







不思議な公園です。公園というと、普通は平地で、子供用の遊具が並んでいるものですが、ここは上の写真にあるようになだらかな丘であり、池も配置されています。
上の明治20年地図と対比すると、ここはY字の川の右上源流部分に該当します。
明治20年地図の上にgoo地図を掲載しています。この地図の左下「地図」ボタンを押すと地図ページに飛びます。ここで「古地図/昭和22年」を選択すると、昭和22年の航空写真に変わります。この航空写真で見ると、Y字の川の右上部分は、読書の森公園とその北の体育館を含め、当時は畑か原野になっていたようです。
また、同じ地図で「航空」を選ぶと、現在の読書の森公園の位置には、まだ大きな建物が建っている写真になっています。

読書の森公園の裏手、区立中央図書館との境界の林の中に、下のガンジー像が建っていました。

《ガンジー像》

「東京都杉並区にこのガンジー翁の銅像を、2008年11月6日にガンジー・シュラム(修養所)再建財団創立者・インド国会議員・故ニルマラ・デシュパンデ女史の遺志により、ガンジー翁の精神に基づいて、世界平和と相互理解が深められることを祈念して、送る。」

《杉並区立中央図書館》
 

私は杉並区在住ですが、自宅の近くには杉並区立図書館が存在せず、仕方がないので、通勤の経路にある図書館(渋谷区立図書館笹塚分室)を利用していました。
今回、上記中央図書館で利用登録しました。今後図書館から本を借りる際には、この図書館を利用することになります。

区立中央図書館のすぐ北側は体育館です。下のような記念碑が建っていました。

記念碑の由来
昭和28年11月に開設した杉並区立公民館
「特筆されるものは、昭和29年3月ビキニ環礁水爆実験をきっかけとして、杉並区議会において水爆禁止の決議が議決されるとともに、同館を拠点として広汎な区民の間で始まった原水爆禁止署名活動であり、世界的な原水爆禁止運動の発祥の地と言われております。
その公民館も老朽化により平成元年3月末日をもって廃館されました・・・。
ここに、公民館の歴史をとどめるとともに、人類普遍の願いである永遠の平和を希求して記念碑を建立したものであります。
平成3年3月」

荻窪駅から東南東方向への探索は、こうして終了しました。
コメント (2)
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