三笠宮殿下ご逝去の報を聞き、ご冥福をお祈り申し上げ、3年前にご紹介した殿下の研究書のご紹介を続けさせていただきます。
3回記事となります。
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(引用ここから)
「エジプトのオシリス(2)・・大嘗祭との類似」
2013-01-31 | エジプト・イスラム・オリエント
引き続き、三笠宮崇仁殿下の「古代エジプトの神々・・その誕生と発展」を紹介させていただきます。
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(引用ここから)
日本の皇位継承の諸儀式の中で、最も重要なのが「おほにへのまつり(大嘗祭)」である。
一般的には、天皇が、新穀(米と栗)や、新米で造った白酒と黒酒、その他の神饌を天照大神はじめ神々に供え、天皇もそれらを頂く「神人共食儀礼」と言われている。
確かにそれは事実である。
この祭の起源は、日本に稲作が伝来した時までさかのぼるはずであるが、当時の記録はないから、古事記や日本書紀にある神話を媒介としてそれを求めねばならない。
この祭では、神座が二か所に設けられること自体が珍しいが、ことに第一の神座はきわめて特殊である。
まず「八重畳」が敷かれ、その南端に「坂まくら」が置かれ、「おふすま」(御衾)がかけられる。
「ふすま」とは、夜具である。
この夜具に関連する記録としては、日本書紀に天照大神が「真床追衾を以って・・“あまつひこひこほのににぎのみこと”に覆いて、降りまさしむ」というのがある。
神話では「ひこほのににぎ」の親は「おしほみみ」であるし、子は「ひこほほでみ」である。
つまり、これら三代の神名に共通しているのが「ほ=穂」である。
とすると、古典の記事は、「稲魂の入った稲穂」が「ひこほのににぎ」という人格神となって天から下ったことの象徴であろう。
そうなれば、第一の神座は、「ほのににぎのみこと」つまり「穀霊」が天から下るドラマの舞台だったと考えられるが、そのドラマがどんなふうに演じられたかは今では知るよしもない。
以上の仮説においても、そのドラマの主役が「穀霊」だけとは言えない。
神話で「ほのににぎのみこと」の子孫が日本の天皇となっているから、そこには「祖霊」が加わっていると見なすべきであり、それが従来いわれた「天皇霊」であろう。
そして新帝がそれを身に着けることこそ、即位の諸儀礼の中でもっとも重要だったに違いない。
また「第二の神座」というのは、新帝が十柱分の神饌を供するためのものであった。
エジプトの場合も、「穀霊」オシリスの「種」をイシスが受けて、ホルスが生まれ、ホルスは新王となった。
言い換えれば、ホルスは「穀霊」と「祖霊」とを継承して即位したのであり、エジプトも日本も、古代における王位継承のパターンは類似していたと思われる。
(引用ここまで)
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鳥越憲三郎氏著「大嘗祭・新資料で語る秘儀の全容」を読んでみました。
大嘗祭という日本古来の神事を、世界的な視野で考えておられます。
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(引用ここから)
再生の場としての「寝座」
大嘗会の中でも、大嘗宮における儀礼については、厳重に秘事として口外することが禁じられてきた。
「寝座」は、なにを意味するものであったのだろうか。
もと大嘗会は新嘗祭にもとづいてつくられ、天武朝に起源するものと思われるが、大宝令で大祭として制定されて以後、天皇権の宣揚に伴って、幾多の変革をもたらした。
「日本書紀・神代の巻」に載せる神話は、7世紀末から8世紀初頭にかけての政治・社会を反映してつくられたものであろうが、その神話をはじめ、初期天皇紀の中に、重大な事件を「新嘗の日であった」とするものが多く見られる。
上代の新嘗会には、儀礼の中で床に臥すことが必要であった。
床に臥すことは、死の擬態を意味し、死して後、神としてよみがえるためであった。
稲穂が刈られることで「穀霊」は死に、冬至において復活すると考えられたのも、同じ思想に基づくものである。
そのため冬至に行われていた新嘗祭、その後の大嘗祭においても、「穀霊」の復活を促す歌が歌われながら、新穀は臼でつかれた。
「死して後蘇る」思想は、世界に普遍的にみられるもので、古代や未開社会に見られる「首狩り」も、本来は農耕儀礼として行われていたもので、
殺された人間は神として復活し、その一年間、農作物の豊穣と人々の安寧を守ってくれると考えられていたものである。
そうした「首狩り」が、中国の解放時まで、雲南省に住むワ族に伝わっていた。
その起源は古く、紀元前の雲南に栄えた国の王墓から出土した多くの青銅製の神殿や貯貝器などに、殺された人間を神として祀る情景が生々しく表現されている。
その後裔であるワ族も、首を聖杯で神として祀る。
そのワ族をはじめ雲南・四川・貴州に住む多くの少数民族を、日本人と祖先を同じくするものとみる説を提唱している者であるが、彼らは農耕神として復活した神を「蛇神」とみており、それは紀元前から続いている。
我が国でも、「田の神」を「蛇神」とする信仰が伝わっている。
愛知県の国府宮神社では、江戸期の中ごろまで仕事始めの1月11日に、旅人を捕えていけにえにしていた。
このほか長野県の諏訪大社や福岡県太宰府の観世音寺でも、同じく氏子や旅人を殺して神として祀った。
これらは古社古寺であったために伝承されたもので、古くは広く行われていたものと見てよい。
すなわち「人間犠牲」は、村ごとに、部族ごとに行われていたであろうが、王者となる者は「死して後神としてよみがえる」思想に基づいて、物みな復活する「冬至」の「新嘗」の日に「床に臥す」所作により、神性をもって再生したことを、一般民衆に示そうとしたものと考えられる。
王や酋長は、宇宙の至高神である「日の神」の子孫であるという思想、すなわち日子思想は世界のあらゆる民族に見られた。
(引用ここまで)
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wikipedia「首狩り」より
「首狩り」は人間を殺し、首級をあげる事を中心とした古い宗教的な慣行のひとつ。
台湾原住民、インドネシア、オセアニア、インド、アフリカ、南アメリカなどで広く見られた慣習であるが、今日ではほとんど消滅したと言われる。なお、古代のスコットランドでも行なわれていた。
自身の所属する集落以外の(時に敵対関係にある)人間を殺害し、切断した犠牲者の首級を持ち帰る。
頭骨の保存に重点が置かれる場合、頭蓋崇拝と呼ばれることもある。
理念
諸説ある。一説では、基本的な理念として人間の頭部に霊的な力が宿るという信仰が根底にあり、その力を自分のものにし、操作しようとする呪術的、宗教的な行為として生まれた行為である。
他方、豊作や豊漁・豊猟を確保するための首狩、死者に他界で使える者を確保するための殉死的首狩、また戦闘での勲功を証明するために首級を持ち帰る首狩(首取)、勇気を示し一人前の青年として結婚可能である能力を示すための首狩、復讐としての首狩、神意を知るための首狩、など首狩の理念には非常な多様性が見いだされる。
首狩りの風習があった部族
エクアドルアマゾン上流のヒバロ族 首級を乾首 (ツァンツァ) に加工していた
フィリピンルソン島のボントック族、イフガオ族、ティンギアン族 祭りの一環として行われた
ボルネオのダヤク族、イバン族 結婚するための条件として首級を手に入れる事があった
南アメリカエクアドル領のヒバロ族 死者を弔う為の葬式の一部として実施された
台湾のアタヤル族(高山族) 成人式の一部として実施された
インドネシアセレベス島のトラジャ族 多産や豊穣の儀礼として行った
ミャンマー北東部のワ族 春の播種期に豊作祈願の行事として首狩りを行った
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