あと一日で大晦日ですね。
ご縁をいただき、この一年、お読みくださいまして、ほんとうにありがとうごさいました。
来年も、どうか 引き続き、お読みいただけますよう、お願い申し上げます。
皆様の、幸多き 新年を 祈念 申し上げます。
引き続き、ノーマン・コーン氏の「ノアの大洪水」のご紹介を続けます。
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(引用ここから)
人類は事実、生き残った。
これらの工夫のおかげで、人間は大洪水がもう起こらないと確信できるようになった。
洪水後の世界では、洪水以前の混乱が繰り返されることはなくなり、また誤った対策を繰返されなくなった。
地球には安定したバランスが確立された。
そして神々の側でも、教訓を学んだのである。
聖書の物語が、メソポタミアの物語をモデルとしたものではることに疑いの余地はないとしても、両者の意図は、これ以上に違うものはないほど、違っている。
メソポタミアの物語では、人類をおそった災害は、まったく不当に重いものであった。
それは人間の罪深さによって引き起こされたのではなく、神々の短気と無分別によって引き起こされたのである。
ヤハヴェは、エンリルとはまったく違う。
たしかに彼も同じように無慈悲で、同じように人類を皆殺しにしようと決心した。
しかしヤハヴェは、神の打ち立てた法が守られないことに激怒した審判者として、行動している。
そしてヤハヴェは、神々の首長ではなく、唯一の神である。
「旧約聖書」が、伝説上の素材を集め、それを編集した人々の作品であることは、ずっと以前から認められてきた。
作成にあたったと考えられている収集者・編集者の4つのグループのうち、2つのグループが「大洪水」の部分に貢献したと考えられている。
ヤハヴェ記述者にあたる、ドイツ語から「J」として知られる者と、「祭司」を表す「P」として知られる者の2つである。
「J」と「P」との貢献は、組み合わされている。
「J」も「P」も、メソポタミアのモデルに多くを負っており、両方とも、このモデルを作り替えようとしている。
この物語を貫いている価値観は「P」のものであって、それは特定の歴史的文脈を示している。
というのは、「J」の時期は今なお議論されているところだが、「P」が仕事をしていた時期は分かっているからである。
それは、紀元前550年から450年の間である。
このことは、現在我々が知っている「大洪水物語」は、「バビロニア捕囚」の間か、あるいはこの経験の衝撃の下に作られたということを意味する。
それは絶望的な経験であった。
紀元前597年にバビロニアの王がエルサレムを占領したとき、王とその家族、その他あらゆる住民の大部分は、バビロニアへ移住させられた。
数年後、エルサレムの城壁は破壊され、ソロモンの寺院は焼け落とされた。
4世紀にわたって支配してきたダビデ王朝は、ついに途絶えた。
国家は崩壊し、
ユダ王国は、制度的独立の一かけらまで失った。
この災厄の経験は、〝世界秩序そのものの崩壊”と受け止められた。
予言者エレミアは、エルサレムの廃墟を見つめながら、太初の混とん状態へ戻ったありさまを見ていると感じた。
・・・
わたしは地を見たが
それは形がなく、 またむなしかった
天をあおいだが、 そこには光がなかった
わたしは山を見たが、みな震え もろもろの丘は動いていた
わたしは見たが、人はひとりもおらず
空の鳥は みな飛び去っていた
・・・
こういう文脈のなかで、聖書の「大洪水物語」は解釈されなければならない。
古代近東の文献では、侵略や征服はふつう、神の命による嵐や洪水に象徴化される。
ここでもそうである。
洪水により、荒れ狂う水を抑えるために神が取り付けた「防壁やドア」は破られ、その結果宇宙は混とん状態となる。
ユダとエルサレムと寺院の破壊は、そのことを意味していた。
正義の人ノアとその家族は、その正しさゆえに災害から逃れた、少数のイスラエル人を表しているにちがいない。
それは「旧約聖書」によくあるように、世界にたいする神の意図を実現するために助けられた「残された者」である。
そして「P」の人々は、流浪の人々の共同・・バビロニアにせよ、あるいはユダに帰国して間もなくの頃にせよ・・のために書いているのだから、この「正義の人々」も、その共同体に属しているに違いない。
しかし「正義である」とは、どういう意味なのであろうか?
「P」の人々が書いていた時代は、イスラエルの宗教が変わりつつある時代であった。
ヤハヴェの神は、それまでは単に少数の人々の守護神であったのだが、今や世界、及びそこのすべての被造物の創造主、全人類の審判者、全知全能の唯一の真の神と考えられるようになりつつあった。
このとき以来、「イスラエル人」、あるいはのちの呼び方では「ユダヤ人」の正義とは、なによりも唯一の、真なる神への完全な献身のうちにあることとなったのである。
この新しい種類の宗教は、はじめ流浪の人々の間で栄え、そこからユダへ戻った人々の間で栄え続けた。
祭司の作者たちは、彼らの性質そのものから言って、この宗教の最も情熱的な布教者に含まれていた。
「旧約聖書」の主要部分が、このことを証明している。
そして「大洪水物語」は、そこに含まれているのである。
ヤハヴェの高められた権威を、ノアへの警告ほど高らかに宣言したものは、他にほとんど考え着くことはできない。
・・・
わたしはすべての人を絶やそうと決心した。
彼らは、地を暴虐で満たしたから、わたしは彼らを血と共に滅ぼそう。
・・・
メソポタミアの物語とのコントラストが、これほど決定的な点は、他にはほとんどない。
「創世記」をつくりあげた祭司の作者たちは、彼等の神を、比類のない権威の地位へ高めようとした。
聖書の、洪水を命じた神は、実際に極めて強烈な印象を与える。
疑問も許さず、理解されることさえなく、孤独のうちに、恐ろしいほどの威厳をもって、彼は、世界とその内にあるすべてのものの、破滅か救済を、決するのである。
「ノアの大洪水」の物語は、メソポタミアへ連れ去れらた、あるいはメソポタミアから帰ったばかりの「ユダヤ人」の経験と熱望を反映して、作り直されたのである。
(引用ここまで)
写真(下)は、メソポタミアの王(メソポタミア文明展・カタログより)
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コントラストがある、とは言え、一神教の原型が多神教にある、というのは興味深いことだと思います。
その後のユダヤ教が世界に及ぼした影響を考えると、皮肉なことだと思います。
また、大洪水の記憶は、人類に共通して、深く根差しているのではないだろうかと思っています。
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