ソニー・ロリンズの思い出を語ってみよう。
■1)油井正一様との出会い
これを語るには、先ず、油井正一様を紹介しなくてはならない。
1970年代後半に、アスペクトジャズというFM番組を毎週聴いていました。私は関西ですので、火曜の夜だったと記憶しています。
司会は、油井正一さんと言う方で、ジャズの評論家であり、大学で先生もしておられたと思います。
この方の講談調のお喋りが印象的で、軽妙洒脱な語り口もあり、自然にジャズの世界に誘ってくださった。油井先生にも感謝!
■2)ロリンズをアスペクトインジャズで聴いてノックアウトされた
いろんなジャズメンを紹介して頂いたが、ある時、ソニー・ロリンズの回(2回あった)になって、数曲聴いたところで、そのアドリブの凄さに圧倒された。(1回目が、S51年1月6日で、”アイ・ウォンツービーハピー””テナー・マッドネス””イッツ オーライト ウィズミー”等を紹介してくれた。)
なんて凄いアドリブ!正にコペルニクス的転回である。
その時に紹介されたのは、”モンク&ロリンズ”から、”ザ・ウェー・ユー・ルック・トナイト”と”アイ・ウォンツービーハピー”で、これがご機嫌なアドリブを聴かせてくれる。とにかく、世の中に困ったことは何も起きませんよ!とでも言いたげなそんな気持ちにさせてくれる天衣無縫のアドリブです。
その他に、”ワークタイム”、(売り出し始めた頃に、豪快なブロウでスタンダードを題材にアドリブを演りまくった痛快なアルバム)からは、”ゼア ラー サッチ シングス”これも心に滲みるバラードです。それに”イッツ オーライト ウィズミー”を紹介していたが、これを聴けば、高速アドリブに心酔できます。
その他には、名盤サキソフォン・コロッサスからモリタートや、テナーマッドネスを紹介してくれた。
■3)テナー・マッドネス
そのテナーマッドネスには、脳天を勝ち割られた。当時といっても56年であるが、まず、マイルスのクインテットが有名な「マラソン・セッション」を行い、1日で10曲以上録音したわずか13日後で、且つキサソフォン・コロッサスの録音の1ヶ月前で、且つリズム・セクションの3人は総て第1期マイルス・クインテットのマラソンセッションのメンバーという歴史的な状況だった。
プレイも、まずソロのスタートを切るのはコルトレーン。ここでの初々しい彼のサックスは既に後のコルトレーンを髣髴とさせる。マラソンセッションで時々ミスリードしていた人とは別人。ロリンズにインスパーヤーされたことは間違いない。続いてロリンズが8コーラスのソロを展開するが、さすがにロリンズのサックスの太く豪快な音色はコルトレーンの鋭角的なサックスをも温かく包み込んでいく。ピアノのガーランド、ベースのチェンバースの粋なソロの後、コルトレーン、ロリンズの順でドラムスとの4バースチェインジがあり、曲はクライマックスの12コーラスに及ぶロリンズとコルトレーンの掛け合いを経て最初のテーマに戻る。もうこの頃、トレーンは、完全にロリンズと互角だったとこれを聴くと判る。尚、原曲は「ローヤル・ロースト」という曲で、簡単な12小節のブルースです。
■4)ロリンズとトレーンの運命
テナー同士ということもあるが、ロリンズとコルトレーンが競演したのは、後にも先にもこれ1回と言う意味で、テナーマッドネスは貴重。ロリンズと、コルトレーンの運命も皮肉で、マイルス・デイヴィスが自身のクインテットを結成するにあたって、サックス奏者としはまずロリンズに声をかけますが、ロリンズは”まだその時期ではない”と、この申し出を断ります。そこでマイルスが白羽の矢を立てたのが、ジョニー・ホッジスのグループでサックスを吹いていたジョン・コルトレーンでした。コルトレーンのデビュー当初の評価は”アングリーヤングテナー”という風評で決して高いものではありませんでした。しかし彼は命を削るような精進ー努力を費やし、ついにジャズ界を席巻するサックス奏者へと大成していきます。
■5)ロリンズのライブの思い出~サインを貰った~
それからは、ソニーロリンズのLPはほとんど買って、日本公演のコンサートにも何度も足を運びました。
コンサートが終了したら、当時は楽屋に10人位は押しかけて、LPジャケットにサインをしてもらっていました。
当時、関西ではごく普通にやっていましたが、3、4回は、ロリンズや、サイドメンのサインをもらいました。
下の写真の左がサキソフォン・コロッサスで、77年と79年のロリンズのサインがあります。左が、フュージョンに挑戦して議論を呼んだ、ザ・ウェー・アイ・フィールの裏面で、ロリンズの80年代(ロリンズが書き直して良く判りませんが)の彼のサインと、下でエピソードを紹介する、マイクとサミーのサインもあります。
サキソフォン・コロッサスの左下に、86年6月5日京都会館のチケットを珍しく残していました。曲を書いていますが、1曲目から、アイム・オールドファッション、2曲目は?、モリタート、マイワン、ドントストップザカーニバル、ソロインプロ、テナーマッドネス~アイルビーシーイングユー、アンコールでアルフィーのテーマでした。クソー、2曲目が判らなかった!ファンの恥だな。
下の右が、サキソフォン・コロッサスの裏面で、ロリンズの86年のサイン(サインする時、サミーらの以前のサインを見て、”にやっ”と笑ってました。)とマイクとサミーの77年と79年のサイン、左は、ウエー・アウト・ウエスト裏面のマイクのサイン。
今は、テロとかが出てきて、セキュリティがうるさいので、きっとできないのでしょうね。
20年ほど前にも、妻と一緒に、大阪公演に行ったのですが、妻は妊娠中で、お腹の中で娘が、ロリンズのセントトーマスのアドリブに合わせてお腹を蹴っていたそうです。
その娘も、今は大学生ですが、ロリンズのセントトーマスを聞くと、直ぐに覚えたということで、妻は”お腹の中で聞いたセントトーマスを覚えているんやね!”などと言っています。
■6)サイドメンとの出会い ~サミーとマイク~
確か、77年か、79年の京都公演でも、やはり京都会館の楽屋突撃を挙行したのですが、若いサイドメン2人と仲良くなりました。
ピアノの白人のマイク・ウォルフさんと、コンガ・パーカッションのサミー・フィガロアさんです。
2人は、京都を案内して欲しいと言うことを私に言ってきたので、大学生で暇ですので、OKしました。
翌日に、大学の友人A君と一緒に、京都三条にあるロイヤルホテルで彼らと待ち合わせて、京都に繰り出しました。
すると、彼らは、バンブーフルート(尺八)と、ジャパニーズハープ(琴)が買いたいと言い出しました。A君の友人の女の子Bさんがそれには詳しいということで、Bさんも呼んで、店を回りました。
この手の楽器屋さんは、普通の京都の町屋を店としているようでした。尺八は、安いものでも、20万円以上したので、駆け出しの彼らには手が出ません。琴も同様彼らには無理でした。彼らの顔は、”ソー・サッド”という感じでした。
別れ際に、敬虔なクリスチャンとパンフに書いていたサミーから思いもよらない質問を受けました。
”雄琴には、どうやって行ったらいいの?”
雄琴は外人の特に男性には有名だったようで、一応、電車での行き方を教えたのですが、まあ、お風呂に行ったのかどうかは?です。尚、ネイティブが雄琴を発音する時は、日本人と違って”GO”にアクセントが付きます。
サミーは、その後、リーダーアルバムを数枚出しているのを確認しました。
マイクは、その後は消息はよく判りません。ご存知の方居られたら、お教え頂いたら嬉しいです。
ソニーロリンズは、サイドメンに売れない若手や親戚を引き上げてやるやさしい方であり、サミーが言っていましたが、ロリンズは、楽屋でも他のサイドメンからは離れて、”いつもメディテーションをしている”とのことで、ジャズマンには珍しく、精錬な人と思います。(尤も、1回目の'55年の失踪は麻薬根治が目的だと言われておりますが)
■7)最近のロリンズ
数年前に、ラストジャパンとして、最終公演に来たので、行ったのですが、その後、また1回来ました。日本びいきなんです。もう1回くらい来ないかなあ・・と思っていますが、1930年(29年と言う説もあったと記憶)9月7日生まれで、もう86才ですので、無理ですね。
■1)油井正一様との出会い
これを語るには、先ず、油井正一様を紹介しなくてはならない。
1970年代後半に、アスペクトジャズというFM番組を毎週聴いていました。私は関西ですので、火曜の夜だったと記憶しています。
司会は、油井正一さんと言う方で、ジャズの評論家であり、大学で先生もしておられたと思います。
この方の講談調のお喋りが印象的で、軽妙洒脱な語り口もあり、自然にジャズの世界に誘ってくださった。油井先生にも感謝!
■2)ロリンズをアスペクトインジャズで聴いてノックアウトされた
いろんなジャズメンを紹介して頂いたが、ある時、ソニー・ロリンズの回(2回あった)になって、数曲聴いたところで、そのアドリブの凄さに圧倒された。(1回目が、S51年1月6日で、”アイ・ウォンツービーハピー””テナー・マッドネス””イッツ オーライト ウィズミー”等を紹介してくれた。)
なんて凄いアドリブ!正にコペルニクス的転回である。
その時に紹介されたのは、”モンク&ロリンズ”から、”ザ・ウェー・ユー・ルック・トナイト”と”アイ・ウォンツービーハピー”で、これがご機嫌なアドリブを聴かせてくれる。とにかく、世の中に困ったことは何も起きませんよ!とでも言いたげなそんな気持ちにさせてくれる天衣無縫のアドリブです。
その他に、”ワークタイム”、(売り出し始めた頃に、豪快なブロウでスタンダードを題材にアドリブを演りまくった痛快なアルバム)からは、”ゼア ラー サッチ シングス”これも心に滲みるバラードです。それに”イッツ オーライト ウィズミー”を紹介していたが、これを聴けば、高速アドリブに心酔できます。
その他には、名盤サキソフォン・コロッサスからモリタートや、テナーマッドネスを紹介してくれた。
■3)テナー・マッドネス
そのテナーマッドネスには、脳天を勝ち割られた。当時といっても56年であるが、まず、マイルスのクインテットが有名な「マラソン・セッション」を行い、1日で10曲以上録音したわずか13日後で、且つキサソフォン・コロッサスの録音の1ヶ月前で、且つリズム・セクションの3人は総て第1期マイルス・クインテットのマラソンセッションのメンバーという歴史的な状況だった。
プレイも、まずソロのスタートを切るのはコルトレーン。ここでの初々しい彼のサックスは既に後のコルトレーンを髣髴とさせる。マラソンセッションで時々ミスリードしていた人とは別人。ロリンズにインスパーヤーされたことは間違いない。続いてロリンズが8コーラスのソロを展開するが、さすがにロリンズのサックスの太く豪快な音色はコルトレーンの鋭角的なサックスをも温かく包み込んでいく。ピアノのガーランド、ベースのチェンバースの粋なソロの後、コルトレーン、ロリンズの順でドラムスとの4バースチェインジがあり、曲はクライマックスの12コーラスに及ぶロリンズとコルトレーンの掛け合いを経て最初のテーマに戻る。もうこの頃、トレーンは、完全にロリンズと互角だったとこれを聴くと判る。尚、原曲は「ローヤル・ロースト」という曲で、簡単な12小節のブルースです。
■4)ロリンズとトレーンの運命
テナー同士ということもあるが、ロリンズとコルトレーンが競演したのは、後にも先にもこれ1回と言う意味で、テナーマッドネスは貴重。ロリンズと、コルトレーンの運命も皮肉で、マイルス・デイヴィスが自身のクインテットを結成するにあたって、サックス奏者としはまずロリンズに声をかけますが、ロリンズは”まだその時期ではない”と、この申し出を断ります。そこでマイルスが白羽の矢を立てたのが、ジョニー・ホッジスのグループでサックスを吹いていたジョン・コルトレーンでした。コルトレーンのデビュー当初の評価は”アングリーヤングテナー”という風評で決して高いものではありませんでした。しかし彼は命を削るような精進ー努力を費やし、ついにジャズ界を席巻するサックス奏者へと大成していきます。
■5)ロリンズのライブの思い出~サインを貰った~
それからは、ソニーロリンズのLPはほとんど買って、日本公演のコンサートにも何度も足を運びました。
コンサートが終了したら、当時は楽屋に10人位は押しかけて、LPジャケットにサインをしてもらっていました。
当時、関西ではごく普通にやっていましたが、3、4回は、ロリンズや、サイドメンのサインをもらいました。
下の写真の左がサキソフォン・コロッサスで、77年と79年のロリンズのサインがあります。左が、フュージョンに挑戦して議論を呼んだ、ザ・ウェー・アイ・フィールの裏面で、ロリンズの80年代(ロリンズが書き直して良く判りませんが)の彼のサインと、下でエピソードを紹介する、マイクとサミーのサインもあります。
サキソフォン・コロッサスの左下に、86年6月5日京都会館のチケットを珍しく残していました。曲を書いていますが、1曲目から、アイム・オールドファッション、2曲目は?、モリタート、マイワン、ドントストップザカーニバル、ソロインプロ、テナーマッドネス~アイルビーシーイングユー、アンコールでアルフィーのテーマでした。クソー、2曲目が判らなかった!ファンの恥だな。
下の右が、サキソフォン・コロッサスの裏面で、ロリンズの86年のサイン(サインする時、サミーらの以前のサインを見て、”にやっ”と笑ってました。)とマイクとサミーの77年と79年のサイン、左は、ウエー・アウト・ウエスト裏面のマイクのサイン。
今は、テロとかが出てきて、セキュリティがうるさいので、きっとできないのでしょうね。
20年ほど前にも、妻と一緒に、大阪公演に行ったのですが、妻は妊娠中で、お腹の中で娘が、ロリンズのセントトーマスのアドリブに合わせてお腹を蹴っていたそうです。
その娘も、今は大学生ですが、ロリンズのセントトーマスを聞くと、直ぐに覚えたということで、妻は”お腹の中で聞いたセントトーマスを覚えているんやね!”などと言っています。
■6)サイドメンとの出会い ~サミーとマイク~
確か、77年か、79年の京都公演でも、やはり京都会館の楽屋突撃を挙行したのですが、若いサイドメン2人と仲良くなりました。
ピアノの白人のマイク・ウォルフさんと、コンガ・パーカッションのサミー・フィガロアさんです。
2人は、京都を案内して欲しいと言うことを私に言ってきたので、大学生で暇ですので、OKしました。
翌日に、大学の友人A君と一緒に、京都三条にあるロイヤルホテルで彼らと待ち合わせて、京都に繰り出しました。
すると、彼らは、バンブーフルート(尺八)と、ジャパニーズハープ(琴)が買いたいと言い出しました。A君の友人の女の子Bさんがそれには詳しいということで、Bさんも呼んで、店を回りました。
この手の楽器屋さんは、普通の京都の町屋を店としているようでした。尺八は、安いものでも、20万円以上したので、駆け出しの彼らには手が出ません。琴も同様彼らには無理でした。彼らの顔は、”ソー・サッド”という感じでした。
別れ際に、敬虔なクリスチャンとパンフに書いていたサミーから思いもよらない質問を受けました。
”雄琴には、どうやって行ったらいいの?”
雄琴は外人の特に男性には有名だったようで、一応、電車での行き方を教えたのですが、まあ、お風呂に行ったのかどうかは?です。尚、ネイティブが雄琴を発音する時は、日本人と違って”GO”にアクセントが付きます。
サミーは、その後、リーダーアルバムを数枚出しているのを確認しました。
マイクは、その後は消息はよく判りません。ご存知の方居られたら、お教え頂いたら嬉しいです。
ソニーロリンズは、サイドメンに売れない若手や親戚を引き上げてやるやさしい方であり、サミーが言っていましたが、ロリンズは、楽屋でも他のサイドメンからは離れて、”いつもメディテーションをしている”とのことで、ジャズマンには珍しく、精錬な人と思います。(尤も、1回目の'55年の失踪は麻薬根治が目的だと言われておりますが)
■7)最近のロリンズ
数年前に、ラストジャパンとして、最終公演に来たので、行ったのですが、その後、また1回来ました。日本びいきなんです。もう1回くらい来ないかなあ・・と思っていますが、1930年(29年と言う説もあったと記憶)9月7日生まれで、もう86才ですので、無理ですね。