MORI@今日このごろ

島津亜矢さんを応援しています。亜矢姫のことや日々の出来事を気が向いた時に・・・

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島津亜矢の世界 その2

2012-03-31 09:05:32 | 亜矢姫
昨日、宅急便が届きました。ユーキャンから・・・え!もう届いたのか。発送は4月1日以降順次と書いてあったはずなのに。



そんなに安い買物ではないのでちょっと躊躇していたのですが、後援会から案内が届いた時にたまたま姉が里帰りしており、さりげなく例の大判チラシを見せて「今度こんなのが発売されるんだけど安くないんだよねえ」と言ったところ「半分出してやるよ」というありがたいお言葉を頂いたので速攻申し込みハガキを投函してしまいました。



壱:オリジナル名曲選1 愛染かつらをもう一度(17曲)
弐:オリジナル名曲選2 帰らんちゃよか(16曲)
参:股旅・任侠演歌 無法松の一生~度胸千両入り~(20曲)
四:男援歌 風雪ながれ旅(18曲)
伍:女艶歌 悲しい酒(16曲)
六:永遠の名曲集 船頭小唄(17曲)
七:名作歌謡劇場1 旅笠道中(13曲)
八:名作歌謡劇場2 切られ与三(13曲)
九:歌謡浪曲 瞼の母(11曲)
拾:白熱のステージ2009 リサイタル「熱情」(19曲)

恐らく過去に発売されたシングルやアルバムCD等のどこかに収録されているものばかりだとは思いますが、私などはその全てを持っているわけではありませんから初めての曲もあります。A4版131ページの立派な歌詞集も付いています。



そしてお薦めはA4版32ページの「鑑賞アルバム」です。今回のアルバム集発売に関して感謝を込めた亜矢姫直筆のメッセージ、北島三郎さんから寄せられた特別メッセージ、弦哲也さんと亜矢姫の対談、亜矢姫への30の質問など充実した内容が満載です。北島さんの亜矢姫に対する心からの思いやり、弦さんと亜矢姫の出会いのこと、そして私が知らないことなども沢山知ることができました。この「鑑賞アルバム」だけでもお宝です。



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島津亜矢の世界

2012-03-25 10:42:47 | 亜矢姫


昨日、亜矢姫後援会からA4版の緑の封筒が届きました。「亜矢だより」はつい先日届いたばかりだし・・・何だろうと思いながら開けてみると、「島津亜矢の世界」というタイトルでオリジナル曲、カバー曲合わせて全156曲がCD10巻に収められた亜矢姫26年間の集大成が発売されるというお知らせでした。何といってもそのチラシポスターの大きさにビックリ!70cm×50cmくらいですがカレンダーよりふた周りくらい大きい感じです。

今回のアルバム集は通信教育でお馴染みの「ユーキャン」からの発売ですが、キャッチコピーがすごいです。「当代演歌界の至宝島津亜矢、ここに極まる!」ですから。これまでユーキャンから「○○の世界」というタイトルで個人名が付けられたものとしては11人の歌手の方(演歌・歌謡曲系)のアルバム集が発売されていますが、ちあきなおみさん、北島三郎さん、五木ひろしさん、天童よしみさん、森進一さん、加山雄三さん、美空ひばりさん、石原裕次郎さん、テレサ・テンさん、さだまさしさん、というすごい方々ばかりです。

このようなすごい方々の仲間入りさせてもらえるわけですからファンとしても誇らしく思います。今回のお知らせは後援会員向けの先行予約の受付でもありましたが、一般販売は3月28日(亜矢姫誕生日)のようです。もしかしたら新聞の一面を使った宣伝広告がどーんと掲載されるかもしれません。また、ユーキャンの通販サイトにも掲載されると思いますから収録曲などの詳細はそちらをご覧下さい

先行予約するとこんなおまけも付いてくるようです。クリアファイルの大きい写真は最近撮影したらしいのですが、なんか感じが違いますね。音羽しのぶさん(ご存知?)に似ているような(^^;)。



ちなみに購入するかどうか・・・結構なお値段なんですよね(^^;)。


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春の準備

2012-03-22 18:16:07 | ガーデニング
我が家の周りの雪も全て消え、やっと今年の越冬生活も終わりました。そして季節は本格的な春を迎えようとしています。そんな今日この頃なのですが、花壇の改修と花木の植え替えを行いました。



通路側の畑の一部をガーデニングブロックで囲んで花壇っぽくしてみました。新しく植えた花はサフィニアとミリオンベルですが、この花を選んだのは花の色が多彩だったからです。サフィニア2色8本、ミリオンベル3色12本をホームセンターで買ってきました。少し間隔が狭く窮屈になってしまったのですが5色の花が満開になったら見応えがありそうです。



ガーデニングブロックで囲んだ場所には水仙、アネモネ、チューリップが適当に生えていたのですが、特に手入れをしていたわけでもないのに、毎年春になるとちゃんと芽を出し花を付けてくれます。これらの花はそのまま残したのですが、植え替えていないのできちんと並んでいません(^^;)。



プランターにはバーベナを植えました。この花は見た目も綺麗で一株78円と安かったのでつい買ってしまいました(^^;)。プランターの両側に置いてあるのはシンピジュウムですが、冬が寒かったせいか葉の色が悪く少し枯れ気味になってしまいました。一応花芽は出ているのですが、昨年東広島で育てていた時に比べて芽数も少なく成長も遅いです。昨年のこの頃は既に花が咲いていたのですが、今年は咲くかどうか怪しい状態です。



桜の苗木も2本植えました。植えたのは楊貴妃桜(八重桜)と吉野桜なのですが、既につぼみは膨らんでいるのでちゃんと根付けば今年も咲いてくれそうです。左隣には昨年植えた「花かいどう」があります。こちらも綺麗な花を付けてくれるので3本の揃い咲きが楽しみです。5年後くらいには庭で花見が出来るかもしれません(^^)v。

月末くらいに寒の戻りがあるようなので少し冷え込みそうですが、四月の声を聞けばいよいよ春本番、いい季節です。
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懐かしの池袋で

2012-03-15 08:52:56 | 出来事


私は平成4年11月に埼玉県大宮市(現さいたま市大宮区)に転勤になり久喜市に住んでいました。そして約1年後には東京神田にあったCAD部門と大宮のシステム開発部門が統合されて東京池袋に新しい事務所ができました。その関係で住まいも埼玉県与野市に移り住みました。

当時、私はシステム部門の責任者として30人くらいの部下を抱えて営業活動や管理業務を担っていたのですが、バブル崩壊の時期とも重なり業績は芳しくありませんでした。私も、少しでも売上に貢献しようと一人のSEとして開発現場に入りプログラミング業務等も行ったのですが、結局平成8年3月末を以って東京事務所は閉鎖して全員広島本社への転勤という決定が下されました。

私を含めた広島からの転勤者は本社に戻ることに大きな問題は無かったのですが、30人のうち20人くらいは現地採用者ですから、簡単に広島転勤というわけにはいきませんでした。事務所閉鎖が決まったのは6ヶ月くらい前だったのですが、それからの日々は取引先への事情説明と今後の対応、事務所や借り上げ社宅の解約手続き等あちこち動き回りました。しかし、なんと言っても転勤できない社員の就職をどうするかということが一番大きな問題でした。

当時は取引先の会社に入り込んでの開発業務が殆どだったので、先方の方は社員のことを性格的なことも含めてよく知ってもらっていました。そういうこともあって、まずは現在お世話になっている社員をそのまま採用して頂けないかという、ある意味図々しいお願いをさせて頂きました。また、現在は仕事はしていなくても過去にお世話になった会社にも同様のお願いをしました。そして、社内外の色々な知り合いにもお願いして採用して頂けそうな会社を紹介してもらい、社員と一緒に面接にも行ったりしていました。

そういうことに奔走しながら新しい年に入り、社員の何人かは今後のことも決まってきました。そして、自分のことも決めなければならない時期になってきました。勿論、広島本社に戻るという選択をすれば何も考えなくてもいいのですが・・・それは出来ませんでした。最終的には退職という道を選択することにしました。

あれから16年経ちました。その間、私が上京した時に何度か会ってはいたのですが、今回も7名の元社員が集まってくれました。前のブログで書いた自衛隊の集まりがあった前夜、懐かしい池袋で会いました。あの頃の思い出話や今の近況を聞かせてもらったりして3時間があっという間に過ぎてしまいました。再就職した会社でずっと頑張っている人もいれば、別の会社に転職した人もいます。どういう道に進もうともこうして元気な顔を見せてくれるのが何よりです。また、会いましょう。
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同期の桜

2012-03-13 12:00:23 | 出来事
・・・貴様と俺とは同期の桜、同じ航空隊の庭に咲く、咲いた花なら散るのは覚悟、見事散りましょう、国のため・・・

昭和42年3月24日、航空自衛隊第四術科学校生徒隊(少年自衛官)に入校するため、私達13期生102名は埼玉県熊谷基地の衛門をくぐりました。その時は中学校を卒業してまだ二週間くらいしか経っていませんでした。それから4年間の教育を経て昭和46年に卒業を迎えました。卒業後、同期は全国各地の自衛隊基地に散らばっていったわけですが、私は北海道奥尻島勤務を希望して島内のレーダー基地に赴任しました。



あれから40年(どこかで聞いたようなフレーズですが)・・・3月10日に東京の明治記念館で生徒隊出身者(碧会『あおいかい』)による謝恩会及び団結会が行われました。現役・OBと来賓の方々を併せて1000名弱の出席者で盛大に催されたわけですが、実は本来であれば昨年の3月19日に開催されるはずでした。しかし、ご存知の通りあの悲惨な大震災が発生したため当然のことながら中止となりました。そして現役隊員の多くは被災地に派遣されて救援活動を行いました。私達OBは直接的な活動はできなかったのですが、既に納入済みだった会費は全て義援金として寄附させて頂くことになりました。

何故、昨年このような大規模な行事を行うことになっていたかというと、私達の母校とも言えるこの「少年自衛官制度」が昨年3月に卒業した53期生を以って終了することになっていたからです。正式な自衛隊用語でいうと「部隊整理」というのですが、私達OBもその最後の卒業式に参列して後輩達の門出を祝い、私達が過ごした思い出の宿舎や新しく作られた「生徒隊記念館」の見学などをして、その後、謝恩会や団結会が行われる予定でした。

「少年自衛官制度」が始まったのは1955年なのですが、自衛隊における技術自衛官の育成が大きな目的でした。航空自衛隊では電子計算機過程、レーダー追尾機器過程、通信機器過程、火器管制過程など10数コースくらいあったように記憶していますが、私はレーダー追尾機器過程に行きました。勿論、航空自衛隊だけではなくて海上、陸上にも同様の制度がありました。それが制度終了となったのは自衛隊の定員削減の煽りを受けたことも一因だと聞いて非常に残念に思いましたが、一般の学校でも統廃合は行われていますから、これも時代の流れと思うしかありません。



14時過ぎに会場の「明治記念館」に到着して受付をを済ませて広い会場内に入ると既に多くの人が集まってそれぞれのテーブルで談笑していました。テーブルは各期ごとに分けられていたので、同期のテーブルに行くと10人くらいの同期がテーブルを囲んでいました。年はとっても顔を見ればすぐに思い出しました。本当に懐かしい同期の面々です。

一つ屋根の下で暮らし、同じ釜の飯を食べ、同じ風呂に入り、同じ苦しみや同じ楽しみを味わいました。苦楽を共にするという言葉がありますが、私達の場合はそんな言葉ではおさまりません。体力向上運動という名の「しごき」は日常茶飯事でした。うさぎ跳びで400mトラック一周、腕立て伏せ100回は当たり前でした。ケツバットも受けました。同期で向き合ってお互いをビンタしたこともあります。

真冬でも朝6時の起床は上半身裸でした。熊谷の冬をご存知の方はおわかりだと思いますが、赤城下ろしの寒さは半端ではありません。そして全て連帯責任です。一人でも集合時間に遅れたりすれば全員が体力向上運動を受けなければなりません。「何でこんなところに来てしまったんだろう」と悩み、辞めて親元に帰りたいと思ったことも一度や二度ではありません。でも、同期で励ましあいながら何とか卒業することができました。これで団結心や根性がつかないはずがありません。



昨年は卒業式参列など基地内での公式行事も予定されていたのですが、今年は謝恩会と団結会だけでした。謝恩会は私達がお世話になった教官方や上司の方々などへの感謝を表し、団結会は制度は無くなってもOB・現役を含めてこれからも絆を深めていこうというものでした。達磨の目入れ式は大先輩の1期生代表、最後の卒業生である53期生代表、そして22期生の碧会会長で行われました。出席者全員で肩を組んで「生徒隊数え歌」も歌ったのですが、40年以上経っても忘れないものです。当時は日々の辛さをこの歌にぶつけて歌っていました。

一つとせ、人に知られた空幕の、航空生徒の数え歌
二つとせ、文を書くのはまだ早い、くりくり坊主の青二才
三つとせ、見れば見るほどいい男、女は誰でも寄ってくる
四つとせ、寄るとさわるとエロ話し、いつまで経っても尽きやせぬ
五つとせ、いつも駆け足前支え、教官だんだんバテてくる
六つとせ、娘16花盛り、俺たちゃそろってバカ盛り
七つとせ、泣けどわめけど出らりゃせぬ、俺たちゃそろって籠の鳥
八つとせ、やはり子供だ争えぬ、かあちゃんおっぱい恋しいな
九つとせ、これで立派な自衛官、どこへ出しても恥やせぬ
十とせ、とけて流れりゃ皆同じ、三等空士にゃ銭は無い
終わりとせ、尾張名古屋は城で持つ、天下の生徒隊は俺で持つ



昭和42年の入校時、誓約書に署名捺印をしたわけですが、その中に「有事の際は身を以ってわが国の防衛に当たることを誓います」というような文言がありました。15歳ながら自衛官になるということはそういうことなのだと初めて認識したわけですが、少し戸惑いがあったことも確かです。しかし、私の勤務していた奥尻島はある意味国防の最前線のようなところですから、常に緊張感を持っていました。そして、微力ながら自分も国防の一翼を担っているということも自覚していました。

53期生は昨年20歳になったばかりですからこれから40年くらいは現役で勤務するはずですが、もう碧会のメンバーが増えることはありません。そしていつかは「碧会」という名前だけが残ることになりますが、少年自衛官制度が存在した証として、生徒隊史が編さんされ記念館が創設されました。生徒隊史はおって届けられると思いますが、記念館は熊谷基地内にあるので一度は足を運んでみたいと思っています。

~負けじ魂は永遠に~
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