国鉄があった時代blog版

 国鉄当時を知る方に是非思い出話など教えていただければと思っています。
 国会審議議事録を掲載中です。

幻の和歌山駅改良計画 第1話

2018-04-20 07:45:31 | 国鉄思いで夜話
久々に更新させていただきます、古い資料を見ていますと新しい発見がある物です、特に部内誌に資料などを参照していますと、意外な発見があったりします。
現在、ビッグホエールが建設されている、和歌山市手平地区にはかつて和歌山操駅と呼ばれる、貨物駅がありました。
より正確には、貨物駅と客貨車区【実際には検修は、貨車】が併設されていました。
しかし、この施設も昭和59年の貨物輸送システムチェンジで廃止に追い込まれ、その用地は売却されて現在に至る訳ですが、昭和37年の当初計画では、東和歌山駅(現在の和歌山駅)裏側に貨物輸送の施設を設ける予定に成っていたそうです。

そこで、その計画について当時の資料や古い写真などを参考に見ていきたいと思います。
昭和37年頃、和歌山駅【紀和駅】を縮小して和歌山駅【東和歌山駅】を拡張する計画があった?
和歌山市は、戦時中に疎開などもあって16万人まで人口が減少、その後住友金属【現在の新日鐵住金】の発展も相まって人口も急増していました。
参考にした資料は、国鉄の部内誌交通技術と言う雑誌の昭和37年9月号です。
この記事を見ていますと、現在の和歌山駅【当時の名称は東和歌山駅)の機能を拡張し、和歌山駅【紀和駅】の機能を縮小していくというものでした。
下の図をご覧ください、昭和37年当時の紀勢本線、和歌山市~東和歌山【現・和歌山】駅の構内図です。
和歌山駅【現・紀和駅】からは中之島駅を経て、和歌山機関区まで線路が伸びておりこれは和歌山線として機能していました。
現在の和歌山線となっている、和歌山からの線路は和歌山線の短絡線として、昭和36年に開通したのですが、当初は機関車の回送、団体列車【南紀観光団体】などに利用されるだけで殆ど活用はされておらず、和歌山線の旅客は、紀伊中ノ島経由で和歌山市まで入っていました。
下図の写真は、昭和36年当時の紀和駅付近を写した航空写真です、赤い枠で囲ったのが、和歌山駅【現。紀和駅】となります。左の方に客車が屯しているのが見えるかと思います。


この駅には、駅の裏が客車区になっており、和歌山市寄りに客車の洗浄線がありました。
独身寮・保線区・木工職場があり、簡単な修理などはここで行っていたようです。
と言うのが、私が生まれた場所がちょうどこの和歌山駅の裏手であり、蒸気機関車の煙と汽笛を子守歌にして4歳頃までここに住んでいましたので,少しだけですが記憶があるのです。

更にもう1枚、こちら画像も昭和36年撮影の航空写真ですが、こちらが、東和歌山駅【現在の和歌山駅】付近の写真で、青い色で囲った辺りに貨物の険修施設を設けると共に、和歌山機関区を気動車・客車区にする計画が有ったそうです。

計画概略図は、こちらをご参照ください。

この図によりますと、和歌山機関区に気動車などを配置して客車と気動車を配置し、将来は運転区にすると共に、和歌山駅【現・紀和駅】の施設を撤去するとともに、和歌山駅から紀伊中ノ島を経由する和歌山線の路線を廃止する計画になっています。
こうした計画が生まれた背景には、下記のような理由がありました。
建設の経緯から、和歌山駅(現・紀和駅)が明治31年5月に開業し、南海電車の終点である和歌山市駅は明治36年3月、和歌山駅【当時の名称は東和歌山駅】の開業は遅く、大正13年まで待たねば成りませんでした。
これは、紀ノ川を渡って直接大阪と結ぶ路線が最初に建設され無かったことが原因であり、和歌山市駅【当時は国鉄と私鉄の共同使用駅】が誕生、さらに、紀勢本線が建設され、阪和電鉄から直接接続できることになると、旅客輸送の中心は和歌山市駅並びに、東和歌山駅が受け持つこととなり、和歌山駅【紀和駅】の地位は相対的に下がって行くこととなりました。
そこで、和歌山駅【現・紀和駅】施設を東和歌山に集約すると共に、客車区の機能を和歌山機関区に移設して、DC並びに客車の配置区にしようという計画が立てられたのでした。
当時の交通技術の内容から一部引用したいと思います。

I 現状及び改良の必要性
和歌山地区の現状で、問題になっている点を述べると、つぎのとおりである。

1)貨物集約設備
この地区の貨物取扱駅は、東和歌山・和歌山・田井ノ瀬・布施屋・紀三井寺・紀伊・六十谷の7駅あり、その取扱屯数は約41万トンであるが、東和歌山駅(取扱量約20万トン〕は、都市計画に一部支障しており、貨物集約と合わせて貨物設備の整理統合を必要とするとともに、不用地を整理して、経営の合理化を行なわねばならない
2)和歌山線列車経路の変更
和歌山市の都市計画は、東和歌山駅を表玄関とし、発展の方向を東和歌山駅の東部地域としているι従って和歌山県北部臨港工業地域の完成にともなう、和歌山線・紀勢本線旅客の増加、東和歌山田ノ井瀬間短絡線の亮I成、東和歌山一海南聞の複線化などは、東和歌山駅をこの地区の中心として、客貨の流動を再検討せねばならない時期に達している。


簡単に言えば、東和歌山駅は,今後更に発展するが、和歌山駅は路面電車の乗り入れもなく、バスの本数も少ないなど駅としての機能は低下しているので、この機会に合理化を図ると共に、貨物扱駅も、複数あるが集約したい、しかし現状では、現行の和歌山駅の施設のままでは都市計画にも支障する。【東和歌山駅当時は、貨物は現在のホテルグランビアから駐車場付近が貨物施設でした。

画像は wikipedia参照

そこで、東和歌山の大田地区に貨物の仕分け線並びに貨物の設備を設けることとすると言う計画が立てられました。
なお、和歌山機関区に関しては、その機能をを拡張して、客車と気動車を配置する予定となっていましたが、実際には気動車のみとなったと記憶しています。
余談ですが、和歌山機関区のちょうど上に見える建物が、全国に10カ所しかないうちの一つ、女子刑務所(和歌山刑務所)になります。


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気動車特急日本一周 昭和36年のお話

2018-04-01 23:00:57 | 国鉄思いで夜話
特急気動車 キハ82誕生

特急気動車はキハ81形が昭和35年に誕生し、翌年には、改良形のキハ82を先頭車とする特急用気動車が増備されましたが、昭和36年7月頃から順次落成し、連日試運転が行われたそうです。
手元に、昭和36年11月号の鉄道ファンがあるのですが。この中で、「各地にくりひろげられたディーゼル特急の試運転」という記事が出ています。

落成後の試運転はユニークな編成で

この記事を参照しますと非常に興味深いお話が書かれていました、文章をまるごと引用す訳にはいきませんので概要を書かせていただきますと、キハ82を先頭とする改良型の80系気動車はですが、車両メーカー付近で試運転が繰り返されたそうで、汽車会社【東京地区】は、尾久~日光間、新潟鐵工所【現・新潟トランシス】では新潟~田口、日本車輌【名古屋地区】では、名古屋~中津川付近で試運転が行われたそうです。

試運転ですので、当初は中間車のみが先に落成して、キハ81を先頭にして試運転が行われたそうですが、先頭車が製造される頃になると逆に、キハ82が4両、中間車に食堂車4両繋いだ編成とか営業運転では絶対見られないような編成が中央西線を走ったそうです。

鉄道ファン 昭和36年11月号から引用
他にも、勾配線区での様子を測定すると言うことから、大阪地区では、京都~亀山【おそらく、草津線経由】を走ったと書かれています。

落成後に行われた性能試験

特に改良型のキハ80系は、横型機関を採用し、キハ57で採用されたディスクブレーキを新たに採用した、言わば気動車の総仕上げという意味合いもあったことから、これらの性能確認と将来の設計に供するデータ収集の目的で8月末から全国的な規模に渡る試験が行われたそうです。
8月28日~8月30日早朝 東海道本線 大船~平塚間で各種試験が行われたそうです
基礎性能試験
110km/hからのブレーキ性能試験
全車軸の2/3のブレーキを開放して残りの1・3の車軸だけでブレーキを掛けつつ、10台のエンジンをフル運転
など、勾配線区でのエンジンの調子とディスクブレーキの限界を同時の測定する

等過酷な試験が行われたそうです。

全国行脚の特急試運転
さらに、9月1日からは、「ディーゼル特急試運転」のマークを先頭に掲げて基本の6両編成が試運転を行ったそうです。
順路は下記の通りです。
上野→(東北本線経由)→福島→(奥羽本線経由)→秋田→青森→(奥羽・羽越・信越・北陸本線経由)→大阪→(山陽・鹿児島)→博多→(山陽・鹿児島)→大阪→(北陸)→金沢→直江津→(信越)→長野→上野
全日程9日間の行程でした。
全区間で、走行性のが確認され、問題が無いことを確認したと言われています。
さらに、福島~米沢間の33‰区間ではEF16との協調運転が行われたそうです。

鉄道ファン 昭和36年11月号から引用
これは全国へのお披露目も兼ねていたようで、ディーゼル車両の技術員が連日乗り込み、各種のデータも採取されたと書かれています。

所属区での試運転列車も連日運行

また、この試運転と並行して函館・尾久・向日町(完成までは宮原・梅小路】の各基地から連日練習運転が開始されたそうで、ダイヤも編成も改正後の正規の編成であり、区間も予定通りであり、白鳥のように大阪~上野・青森といったロングラン列車も走ることになりました。

この試運転は9月1日から27日まで連日行われたそうで。その間に発生する初期故障も多々あったようですが、そのおかげで運転開始後は大きなトラブルも無かったと言われています。

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新幹線駅が決定するまで・・・京都駅編

2018-02-16 22:42:11 | 国鉄思いで夜話
古い資料を探していますと、面白い記事を見つけたので少しお話をしてみたいと思います。
それは、京都駅が現在の在来線と併設という選択肢以外に二つの検討案があったそうです。
参照したのは、 交通技術昭和37年6月号の記事です。

これによりますと、現在線並びに他の都市交通機関との連絡や駅の環境・用地取得・工事費などの角度からみて、次の3地点が候補地にあがったと書かれています。

1)現京都駅裏側に併設する(併設案)

2)新幹ルートを現東海道線の約2km南方に移し、新駅を奈良線稲荷駅北方附近に設置する(南案)

3)新幹線ルートを現東海道線の約l.5km北方によせて、市内五条通に通し、新駅を五条烏丸附近に設置する (北案)


が検討されたそうです。


それぞれのいメリットデメリットを上げていきますと、
1)案は国鉄各線、奈良電鉄(当時は近鉄ではなく、奈良電鉄)並びに市電・バスなどの接続に有利であり、京都始発の山陽・九州方面の列車と直接接続できるほか、駅前広場を新たに造成する必要が無い。その反面駅前後の取り付けルートは旧市街地を通るので用地取得は難しいと書かれています。
2)案は、用地取得は比較的容易で、線路延長も短く工事費も安いが、東海道線との接続には奈良線を経由しなくてはならず、他の市内交通機関との連絡に不便であることが一番のデメリット
3)案は、京都の中心部に到達できることが一番魅力であり明治期にも東海道線を乗り入れさせる案がありながら立ち消えになった経路であり国鉄としてもそのメリットを、新駅は都心駅となるのが一番に魅力と語っています。
ただし、連絡は市内交通機関のみとなり当時であれば、バス並びに路面電車だけとなりましょうか。また、地下鉄道となるため工事費がかなり高額になる事が懸念材料とされました。


最終的には併設案に落ちつき、駅構内にあった客車留置施設は向日町に移すことになったそうで、京都駅併設に際して駅構内の一部を改修したと記されています。
なお、
昭和35年当時の航空写真を見ますと客車などを留置している線路の様子がよくわかります。

基本構想では、構内配線は上下各線とも着発線l線・待避線l線とし島式乗降場〔幅員
11mx長さ330m〔将来430m)〕2面とした。
駅用地は奈良線のホーム増設・現在線高架化の際の切替工事の可能性を残して、構内18番線線路敷までを充当し、なお路盤幅の不足(約12m)は裏駅側の道路敷の上空使用で解決した。
支障する機関車留置線などは、構内東部附近に移し、客車留置線は向日町客操に移すことになった。
高倉通の市電軌道は新幹線高架下を地平でくぐるよう在来の跨線橋南橋台よりアプローチの取付替を行なう。



昭和35年頃の航空写真

昭和49年頃の航空写真


当初の予想どおり、駅前後の取り付けルートはに関する用地買収ははかなり困難を極めたと記録に残されています。

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特急はつひ号運転

2018-01-01 05:35:10 | 国鉄思いで夜話
あけましておめでとうございます。
新しい年の始まりでございます。

私は昨日22:00が仕事納め、今日は7:00から仕事始めでございます。
昨年は、職場で新年を迎えましたし、ここ数年は大晦日なり正月という概念がございません。苦笑

まぁ、お正月だからと言っても関係なく働いておられる方も多数おられるわけですからいたずらに頑張っているだろうと言うつもりはありません。
本日は、お正月らしい話題として1本アップさせていただこうと思います。

伊勢神宮に参拝される方も多く、夫婦岩で有名な二見浦に参拝される方も多いのではないでしょうか。
二見浦はJRで行って二見浦駅から歩くのが一般的でしたが、最近は直接バスで乗りいれてしまう場合が多く、駅前商店街なども寂れてしまっています。
しかし、今から50年前、1968年1月1日に実は、特急列車が運転されたのです。
幣サイト、国鉄があった時代を参照していただきますと、「臨時特急はつひ」が運転されたと書かれています。

臨時特急「はつひ」運転される。1/1

臨時特急「はつひ」は岐阜~伊勢市間(上りは二見浦)間に運転された。
「あすか」廃止により、南紀特急「くろしお」が、名古屋停泊になったことによる間合い運用で運転した列車である。

昭和43年前半 鉄道ニュース

ここに書かれていますように、元々「特急くろしお」は名古屋到着後、そのまま「あすか」として運転して当時の所属区であった和歌山に戻す運用が組まれていました。
ただし、和歌山駅、当時は東和歌山7:00発、和歌山到着22:00は余りにも遅すぎるうえ、天王寺駅に入らない。(阪和貨物線経由ですので、阪和線内は堺市に停車)運用でしたので名古屋~大阪間の需要も拾えず、連日回送列車を走らせているようなものでした。
結局、「あすか」は廃止となり、名古屋停泊の運用が組まれたのですが、その停泊中の間合いを使って運転されたそうで、私も手元に時刻表が無いので正確な時間がわからないのですが、終夜運転に近かったような気がします。
ご存じの方おられましたら是非ご教示願います。

国鉄としては、臨時列車としてその後も運転できることを期待したようですが結局この年のみであり、その後は運転されることはありませんでした。

歴史にIFはありませんが、戦前同様に国鉄が参宮線の輸送に力を入れて居たら・・・とか、鳥羽から賢島までの区間が近鉄ではなく国鉄が国有化していたら・・・また違った世界が展開していたような気がします。

余談ですが、元々鳥羽から賢島間は、元々三重交通の区間であり、国鉄買収を意識して狭軌で建設されていました。

50年前のきょう、運転された、臨時特急のお話でした。

画像は、wikipediaから参照した、現在の快速みえ号

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第一回衆議院 運輸及び交通委員会 第4号から転載 1話目 

2017-12-25 14:09:09 | 国鉄関連_国会審議
今回から、昭和22年7月21日運輸及び交通委員会 第4号の議事録からの引用になります。
今回は、国鉄労働組合に関するお話になります。
国労が発足するのが昭和21(1946)年2月ですが、その時は国鉄労働組合総連合会と言う形で誕生します。当時の鉄道省職員の96%が加盟し発足しました。
この時は、神奈川分会が、加盟を拒否されたためと言われています。
その後、下記のような闘争を経て、昭和22年6月には単一組織の国鉄労働組合として改組の上発足しますが、当初から運動を引っ張って来た共産党系に対する、穏健派(社会党支持)が昭和22年11月の臨時大会で分裂、国鉄労組反共連盟を結成します。
その後、反共同盟は発展して、国鉄民主化同盟(民同)へと発展していくことになります。
国鉄民主化同盟(民同)はその後も分裂を繰り返し、昭和32年の新潟闘争を経て、国鉄新潟地方労働組合が国労から脱退して発足、その後同様の動きが全国で起こり、同年の11月27日には、職能毎に新労組を組織化し国鉄職能別労組連合会(国鉄職能労連)が発足しました。
さらに、昭和34(1959)年に社会党極右派が脱退して、民主社会党(民社党)を結成するに及び、以前から関係が深かった、国鉄労組民主化同盟(新生民同・民同右派が所属)も大挙して国労から分裂、昭和36(1961)年には、国鉄新潟して、新国労が誕生することになりました。


ただ、発足当時の国労は、概要として下記のように書かれていますが、戦後初期の労働運動を牽引したところがあり、大原社会問題研究所の日本労働年鑑 戦後特集(第22集)によりますと、下記のような記述がみられます。(記事は当時のママ)


◇五〇萬をこえる大組合であるが闘争の歴史も豊富で、廿一(昭和21)年一月の「省電安全運転」廿一(昭和21)年九月のいわゆる「国鉄ゼネスト」廿二(昭和22)年二月一日ゼネストまでの闘争では全闘(全国労働組合共同闘争委員会)のイニシアをとるなど我が国全体の労働運動に大きな力を常にもつていました。

と書かれているように、共産党が主導して国鉄の中で運動を牽引していたと言われています、そして共産党の運動方針に反発するグループが国労内で分裂して

参考 http://whitecat-kat.hatenablog.com/entry/2015/02/08/113458 国鉄労働組合史詳細解説6

*******************以下は国会審議の本文になります********************



こんにちは、引き続き衆議院、運輸及び交通委員会の議事録を御覧ください。
今回は、主に国鉄労働運動について語られています。

第001回国会 運輸及び交通委員会 第4号
  付託事件
 海運組合法を廢止する法律案(内閣送付)(豫
 第三号)
―――――――――――――――――――――
昭和二十二年七月二十一日(月曜日)
    午前十時四十三分開議
 出席委員
   委員長 正木  清君
   理事 前田  郁君
      井谷 正吉君    佐々木更三君
      島上善五郎君    館  俊三君
      成重 光眞君    矢野 政男君
      山崎 岩男君   小笠原八十美君
      高橋 英吉君    田村 虎一君
      中野 武雄君    前田 正男君
 出席國務大臣
        運 輸 大 臣 苫米地義三君
 出席政府委員
        運輸政務次官  田中源三郎君
        運輸事務官   伊能繁次郎君
        運輸事務官   牛島 辰彌君
        運輸事務官   郷野 基秀君
    ―――――――――――――
七月十一日
 海運組合法を廢止する法律案(内閣送付)(豫
 第三号)
の審査を本委員に付託された。
    ―――――――――――――
本日の會議に付した事件
 國鐵、日通、及び私鐵の各勞働組合に關する説
 明聽取
    ―――――――――――――
○正木委員長 會議を開きます。
 これより國鐵勞働問題に關して、當局より説明を聽取いたします。牛島政府委員。
○牛島政府委員 私、鐵道總局の職員局長の牛島でございます。國鐵の勞働組合運動につきまして、簡單に御説明申し上げたいと思います。お手もとに差上げてございます國鐵勞働組合概況を作成してまいりましたので、この概況書竝びに國鐵勞働協約の解説に從いまして、要點だけを申し上げたいと存じます。
 話の順序といたしまして、第一番目に國鐵勞働組合運動の、本日までの經過の概要を申し上げたいと思います。國鐵勞働組合の運動の經過を大別いたしますと、大體五期にわけ得ると思うのであります。第一期は、昭和二十一年の二月に國鐵總連合が結成されるまでの時期でございまして、第二期は、二十一年の九月の例の馘首絶對反對のストライキ問題が妥結したまでの時期、第三期は、昭和二十二年二月の例の生活權獲得ゼネスト問題が、妥結と申しますか、打切られたまでの時期、第四期は二・一ゼネスト以後、六月に國鐵總連合が單一に結成されたその大會までの時期、第五期は、その單一組合結成後本日に至るまで、こういうふうにわけ得ると思うのであります。ここにも書いておきましたが、終戰後國鐵といたしましては、勞働組合を結成いたす前に、上下の意思疏通の機關といたしまして、昭和二十年十一月一日に鐵道委員會というものをつくりまして、部内で發足いたしたのでありますが、しかし勞働組合法の成立竝びにその後におきます社會、經濟界の情勢の變化によりまして、急速に鐵道委員會は發展的に解消いたしまして、勞働組合が結成されるようになりました。その當時におきましての情勢もそこに書いてございますが、結局この勞働組合を全國的に單一するか、または連合體にするかという點におきまして、いろいろと折衝はあつたようでございますが、結局連合體といたしまして、昭和二十一年の二月に發足いたすように相なりました。この連合體としての總連合が結成されまして以來、一面非常に物價騰貴、生活の不安にかられました從事員一同は、非常に生活不安に襲われたのでございますが、例の七月一日の全官公職員に對するところの給與の改善案によりまして、一時小康を得たように思われました。その後七月末におきまして、國鐵經營の合理化の見地から、人員を整備し、さらに必要な部面に増員をしようというような管理者側からの申出を契機といたしまして、例の馘首絶對反對のストライキが起りました。これも九月十四日に政府側と組合側との妥結によりまして、一應收まつたわけでございます。この結果當局としては、從來の整理案というものはこれを取消すことにいたしました。ただ今後におけるところの、一面において過剰人員があり、一面において不足人員があるというような點につきましては、これを極力配置轉換を行う、また惡質者はこを整理していくことによつて、九月十五日のストライキは一應妥結したのであります。その後さらにインフレーシヨンの進行に伴いまして、生活の困難がようやく極度に達しつつありましたので、二十一年の十一月に國鐵總連合といたしましては、大會をもちまして生活權獲得の要求書を提出いたしました。そうして管理者側と交渉を開始するに至りましたが、この鬪爭は全官公吏の問題に發展いたしまして、例の二十二年二月一日を期してゼネストをする、いわゆる二・一ゼネストの態勢を整えるに至つたのでありますが、その筋からの命令によりまして、その寸前において中止される状態に立ち至りました。この二・一ゼネストの中止後、組合側も一應爭議を打切ることといたしまして、鬪爭態勢を解きまして、交渉によつて問題を解決するというような方向に進んでまいりました。その打切るときにあたりまして、政府側から提出いたしましたところの政府職員の待遇改善委員會の準備會において、兩者協議によつて今後給與、待遇改善の妥結點を見出していこうということに相なつたのであります。他面二月二十一日におきましては、經營參加の問題をも含めたところの廣汎な勞働協約が締結されました。その後五月下旬におきましては、第一囘の臨時の經營協議會が開催せられました。鐵道の財政、給與關係、勤務時間、その他勞働條件に關する問題、業務關係の問題等、國鐵經營の各般にわたりまして、經營協議會において協議が行われました。經營協議會の結果といたしましては、組合側と運賃の値上げ問題に關し若干意見の相違がございましたが、大局的には双方の意見が一致いたしまして、これを專門委員會においてさらに深く檢討することに相なりました。組合側との團體交渉もやうやく軌道に乘つてきたような感がございます。國鐵總連合は結成以來、連合體として出發いたしたのでございますが、本年の六月に相なりますと、さらに大會をもちまして、全國鐵の勞働組合を打つて一丸とするところの單一組合の結成を完了いたしまして、中央の本部が地方の各支部を包括するような組織に改められたのであります。なお大會におきましては、從來未解決であつたところのいろいろの問題、さらに新たな地方提出の要求項目を整理いたしまして、七月九日新たな要求を提出しております。最近におきまする組合側の動向といたしましては、經營協議會等によりまして、協議により解決點を見出そうとするような方向に相なりつつあるように思われます。なお八月中旬には、さらに定期の經營協議會を開催いたすように組合側と話合つておる次第であります。
 今までの組合運動の沿革等につきましては、概略ただいま申し上げた通りでございます。なお組合といたしましての日誌等につきましては、その次に組合運動概要の日誌として掲載いたしてございますから、この點につきましては省略いたしたいと思います。
 次に申し上げますことは、現在の組合の組織の概要でございます。國有鐵道の勞働組合は、從來鐵道局の管轄區域毎に各地方の連合會を結成いたしておりまして、その複合體をもつて總連合會を結成いたしておりましたが、本年の六月五日の大會以降、この複合體を解體いたしまして、全組合員を打つて一丸とするところの單一の組織體に改めたのであります。現在におきましては本部の下に支部が全國に七十五ございます。組合員數は約五十六、七萬に及んでおると思いますが、結成當時におきましては約五十六萬三千になつております。さらにこの支部の組織の上に各地方、すなはち東京、中部、大阪、新潟、仙臺、北海道、九州、四國、廣島というようなふうに、支部の連絡機關といたしまして、地方評議會を設けておる次第でございます。この組合におきましては、後に書いてございますが、支部竝びに地方評議會におきましても若干の團體交渉權というものを認めておるのでございます。さらに組合といたしての届出その他の手續を了しておるのでございまして、法律的に申しますと、あるいは純粹の意味の單一體ではないのかも知れないというふうに私どもは考えておるのであります。
 次に、最近の組合におけるところの問題につきまして申し上げたいと思います。組合より管理者側に向いましていろいろと要求事項が出ておりますが、この要求事項の傾向について申し上げたいと思います。當局に對する要求は、やはり何と申しましても生活を除去せんとするところの要求が一番多いと思います。從いまして生活費を中心とするところの基本給の増額の問題、その他これに附帶するところの勞働條件の改善の問題が主となつておりますが、業務改善の問題につきましても、最近におきましては大分殖えてまいつてきたように思います。
 まず第一の給與改善の問題でありますが、先ほどもちよつと申し上げた官公吏の給與改善というものは、現在におきましては、政府職員の待遇改善委員會準備會においてこれを決定いたしておるのでございまして、生活保障を中核といたしますところの基本賃金竝びに各種手當等につきましては、現状におきましては運輸省限りにおいて解決し得ない全官公吏の問題と相なつてまいつておりますので、漸次この準備委員會において審議せらるるような傾向にあるのであります。ただ組合側と管理者側との交渉によりまして意見の一致を見、さらに委員會においてこれを審議するというような方向に進んでおると思われるのであります。
 次に基本給竝びにそれと直接關係ある金錢給與以外の勞働條件に關する問題といたしましては、たとえば休日であるとか休暇、勞働時間等の直接的な勤務條件、また住居施設あるいは醫療施設、被服の問題、その他の物的の諸給與等の間接的な勤務條件とにわけ得られるのでありますが、この兩者につきましては、本年の二月二十一日に締結いたしました勞働協約によつて基本的な線はきめられております。今後の問題といたしましては、その具體的な實施方法が殘されておるわけでございまして、すでに經營協議會においても協議され、現に專門委員會においてもさらに深く協議が繼續いたしておる次第であります。ただここにおきましてこの物的給與の問題でございますが、この問題も國内資源の供給能力との關係もございまして、運輸省限りにおいては解決し得ないような方向に逐次向いつつあるのであります。經濟安定本部等におきましてこれが委員會もすでにできておりまして、組合側竝びに管理者側もこれを出して、その協議にあたることになつておるのでありますが、遺憾ながらあまり活動をしておらぬような状況にあります。ただこの委員會においても、輸送業務というものについて、産業別の優先順位の決定においても、また實際の勤勞用物資の配分決定の問題においても、なかなか重大な問題が起つております。業務改善に關するところの問題として、組合側においても業務組織の改善あるいは制度の運用等につきましていろいろと協議をいたしております。現に第一囘の經營協議會におきましても、この點の具體的方策についていろいろと審議されたのでありますが、今後の問題といたしまして經營の合理化等、組合側にも協力を求める點が相當多々あると考えておるのであります。さらにここに附け加えて皆様方に申し上げておきたいことは、きわめて最近におきまする政府の施策その他に基きまして、現在の組合側において最も關心をもつておりまする問題の一つは食糧に對する確保の問題を強く取上げておる點であります。あるいは食糧の現物を遲配欠配なく與える、あるいはまた食糧休暇をもらいたいというような面において、問題となつて現われてきておる次第であります。
 次に組合の内部の問題につきまして、簡單に申し上げたいと思います。組合内部の事情を管理者の立場から見ますると、内部はやはり急進的な考え方と、比較的堅實と申しますか、穏健な考え方との抗爭をめぐつて、微妙な動きを示しておるように思われるのであります。これが從來の爭議の過程におきまして、明確な形となつて現われておるように思われるのであります。すでに御承知の、昭和二十一年二月總連合が發足いたす以前におきまして、東鐵管内に發生いたしました例の省電爭議の問題でございますが、これなども急進派のいわゆる直接行動と見られるものとも思われるのであります。これに對しまして比較的穏健な考え方をもつておる組合員といたしましては、組合の團結を亂るものであるとして一旦除名處分に出たのであります。しかして當局側がこれらの省電事件の責任者を懲戒處分といたしました。ところが穏健派はひつくり返りまして、組合自身として除名をいたしましたものを、この除名を取消しまして、當局に對しましては懲戒處分の撤囘を要求するに至つたのであります。このように分裂しながらも當局に對する抗爭におきましては、團結を保持する形がその後の組合の動きを支配いたしておると思われます。また昭和二十一年の九月馘首反對の爭議におきましても、名古屋以西におきまするところの、いわゆる穏健と申しますか、堅實と申しますか、そういう組合が東日本の組合のゼネスト決行に反對をいたしまして、一時は組合の分裂を見るかとも思われたのでありますが、結局大同團結いたしまして、當局に要求を貫徹しようという態度に出ております。また本年の二・一ゼネストの爭議は、國有鐵道のみの問題ではなく、全官公職員の共同鬪爭という形をとりましたために、これまでとは違つた行き方をし、當初におきましては分裂の兆は見られませんでしたが、G・H・Qのその筋の中止勸告が明らかになつてまいりますにつれ、一般組合員は急進派の獨斷的行動を不滿とし、これを排撃しようとする試みなども現われたように思われるのであります。また三月中旬におきまして組合が大會をもちました際におきましても、一部急進分子を組合幹部より取除く動議が提起されたことがございます。組合といたしましては、その大會においては決議をしなかつたようでありますが、こういうふうに組合内部といたしまして、われわれ管理者側として見ておりますと、急進派と穏健派とは相當激しい抗爭を續けてきておるように思われるのであります。しかしながら當局に對しましては、あくまで組合の團結を失うことなく、一致してこれに當ろうとしておるように思われます。現に組合の幹部として苦心しておるところも、またこういうところにあるのではないかと思われるのであります。組合といたしましても、最近におきましては非常に自己批判をいたしておるように思われるのでございまして、先般六月の大會におきまして、新たに中央執行委員等が選出されたのでありますが、そういうのを見ましても、比較的堅實な、建設的な、また穏健な人が大部分を占めておるように思われます。なお組合は總同盟あるいはまた産別會議等に現在の段階においては加入いたしておりません。ただ組合の外部活動といたしましては、例の全國勞働組合連絡協議會、さらに七月上旬結成を見ました全日本交通運輸勞働組合協議會に參加いたして、これらと隨時連絡し、組合運動を展開しつつあるのでありまして、現在の段階におきましては、一應落ちつきのある動向を示しておるのであります。
 次には、勞働組合が結成されまして、組合活動が活溌になりましたことが、鐵道業務にどういう影響を及ぼしたかという點を簡單に申し上げたいと思います。組合員が組合活動の何たるかを明確に自覺して、單に權利だけを主張するような矯激な傾向を改めて、義務をも履行するようになりますれば、業務に對してはむしろ非常によい影響を與える。勞働組合なくして今後の業務の完全な遂行はできないことになると考えております。しかしながら現在までの組合活動は、必ずしも業務に對してよい影響のみを與えたとは考えられない。悪い影響を與えておる點も少くないのであります。第一に業務命令に從わないことが本筋であると誤解をする向きもあつたかと思われるのでありまして、それは長い間の一方的な命令に對する服從の反動として、理解し得る點もないではございませんが、一旦發せられた業務上の命令に對しては、あくまでも服從することが、いかに民主的になつても絶對に必要であると思うのであります。最近は組合員も逐次職場紀律の維持の重大性に目ざめつつあることは喜ばしい傾向にあると思われます。
 第二に組合結成の當初におきましては、組合員は無統制にデモその他に參加する傾向がございまして、爭議問題が發生するたびに、幾度となく何萬という組合員が職場を離れるというようなことになりまして、これらにつきましては、當然業務に悪い影響を及ぼしました。今後これらの觀點からいたしまして、組合事務に專從する者の範圍及び組合活動をなし得る場合等を限定し、協約の規定を組合員に遵守さしてまいらねばならないと考えております。
 次に今後の見透しはどういうふうになるかということにつきまして一言申し上げます。本年の二月に例の劃期的な勞働協約が締結されましてから後の組合運動は、從來とは大分形を異にしてきたように思われます。從來のように鬪爭のみにこだわるというようなことなしに、昨今は勞働協約の規定に從い、經營協議會を中心に當局と事務的に交渉するように相なつてきております。組合内部におきましても、すでに申し上げましたように非常な反省期に入つておるように思われるのでありまして、今後におきましては、非常に軌道に乗つて組合との交渉その他が進められるものと思うのであります。ただ今後の日本の經濟の秩序いかんというものが非常に大きな關係があるのでありまして、さらにインフレーシヨンが悪化し、生活問題が事務的な交渉、あるいは協議のらち内で解決ができなくなるというようなときには、かつて示したような組合活動の態勢に逆轉するところがないとは斷言できないのであります。
 以上申し上げましたところは從來の組合に關することでございますが、以下お手もとに差上げましたパンフレツトにございます點は、組合のきわめて最近の綱領竝びに運動方針でございます。これらをごらん願いますと、考え方といたしましても、非常に建設的なものに相なつておると思われます。國鐵の勞働組合の規則その他はそこにございますが、この規則の説明は一應省略さしていただきまして、別にお手もとに差上げてございます國鐵勞働協約の解説書によりまして、勞働協約のおもな點だけを御説明申し上げたいと思います。この勞働協約を作成するには、組合側竝びに管理者側も誠心誠意努力をいたしまして、さらに中央勞働委員會の御努力もございまして、でき上つたものでございます。全條五十六條よりなつております。この協約の根本というか、特徴をなしておるものを一、二申し上げたいと思いますが、この協約におきましては、鐵道經營の管理權竝びに人事權というものは當局側にあるという點に特徴があると思います。この點は組合といたしましても管理者側に經營權竝びに人事權というものがあることをはつきり認めたことになつております。次に經營協議會の設置を第二條において規定しております。經營協議會につきましては別に經營協議會規則を設けておりますが、すでに第一囘を開き、さらに中旬には第二囘を開いてまいりたいと思つております。このパンフレツトのおしまいの方に經營協議會の規則も掲げてございます。次に申し上げる點は、この協約におきまして組合員の範圍と申しますか、第四條の規定がいろいろと從來も問題になつたのでございます。國有鐵道の從業員はこの勞働組合の組合員とするというふうな書き方になつておりまするので、この點がいろいろと例の職制の問題と關連いたしまして、クローズド・シヨツプではないかというふうに言われたのでございますが、私どもといたしましては、この點につきましては國有鐵道獨自の職制である、こういうふうに考える。強いて申しますればあるいはユニオン・シヨツプに當るのかとも思いますが、本協約を通じまして組合員の脱退を認める、組合員にあらざるところの從業員のあることを認める、また組合より除名されましても、國有鐵道において當然これを解職するということにならない、解職する一つの理由になるというような點、この協約におきましては他の組合の成立をもなお豫想しつつできておる點を考えますと、この第四條においてきめておりますることは決してクローズド・シヨツプではない、國鐵獨自の職制であるというふうに考えておるのであります。なおこの第四條の規定の但書におきまして「職務の性質上甲の立場を代表すると認められるものを除く」というふうに書いてございまして、甲の立場を代表するという立場にあるものは組合員としないというふうに書いてあるのであります。この點につきましては先般の經營協議會におきまして範圍を一應組合側と協定をいたしまして、協定事項として經營協議會においてまとまつたのであります。それの一番の根本は驛長であるとか、あるいはまた現場長、機關區長であるとかいう現場の長を組合員とするかしないかという問題でございます。それも經營協議會におきましては現場の長は組合員としないということで協定が成立したのであります。しかしながら組合といたしましては、經營協議會後の大會におきましてこれをかけましたところが、組合員の同意を得られませんので、これが勞働協約と同じ效果を發生するということに相なりませんために、現在におきましては現場長は組合員であるか、組合員でないか、まだはつきりきまつておらない状態でございます。甲の立場を代表すると認められるもの、これの組合員の範圍ということにつきましてはさらに組合と折衝をし直さなければならない状態にあることを申し上げておきたいと思います。
 次に勞働におきまして特に申し上げることは、勤務時間、その他休日、休暇等のことでございます。勤務時間につきましては一日八時間、一時間以内の休憩時間を含めて勞働時間は一日八時間であるということに取極めてはございます。一時間以内の休憩時間を含んでおりますので、おおむね實働七時間制を採用するということに相なつております。但し勤務時間というものは鐵道の業務の特殊性からいたしまして、いろいろの勤務制度がございますので、それに從いまして別表によるというふうに第十五條の規定において定めておるのでございます。なお休日、休暇につきましては、週休制を採用し慰勞休暇と申しますか、休暇につきましては、勤續一年以上の者につきましては、年二十日を認める。一年未滿三箇月以上の人につきましては、年十日を認めておるのであります。なお勤務時間を超えて勤務いたしました者に對する増務給その他のものを認めておるのであります。女子竝びに年少者の勤務は、勞働基準法が實施になりますのを待つてきめるという勞働協約になつておるのでありまして、現在組合側と女子竝びに年少者の勤務をいかにするかということについては、專門委員會において折衝中でございます。それからこの協約の第五十二條におきまして、この協約は二月二十二日から有效になりまして、八月の二十一日まで有效ということに相なつておりますが、この第五十五条の規定によりまして、この期間中においては人員整理のための解雇をしないということを認めておるのであります。この規定につきましては、先ほど申し上げました九月十五日のゼネストの際交換いたしました覺書を再確認いたしておるのであります。この協約が更新されましても第五十五条は當然には繼續して效力をもつものではないのであります。協約の大體の特徴その他については以上私から申し上げた點に盡きると思つております。はなはだ簡單でございますが、一應國有鐵道勞働組合の概況について申し上げた次第でございます。
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準急列車と急行列車 第2話 気動車の話

2017-12-16 14:14:12 | 国鉄思いで夜話
皆様こんにちは、久々に更新させていただきます。
今回は、気動車のお話と言うことで・・・というか、内燃機関の話ばかり続いていますが、気の迷いですから。苦笑
さて、今回は準急気動車事始めと言うことでお話をしたいと思います。
気動車準急としては、157系を投入する前に日光号がキハ55を使った準急列車として運転されたと言う話は聞かれたことがあるかと思います。

実際、準急用気動車としてキハ55は誕生しましたので、車両的に見れば日光号を準急のルーツとしても良いのですが、実はもう少し前から気動車準急が運転されていました。

今ではローカル列車しか走っていませんが、実は関西線です。
関西線は、大阪~名古屋間に関しては東海道線よりも距離は短いため東海道線の大垣~米原間が非電化だった当時では、関西線も名阪間のバイパス路線として、名古屋~港町間に準急列車が設定されていました。

昭和28年の時刻表、この当時はまだ客車列車であり、愛称等はありません。

そのうちの1往復、湊町13:50発 名古屋17:05着 名古屋17:40発 湊町20:59 3時間15分程で走破していたことになります。
ちなみに、現在のアーバンライナーでは大阪難波を14:00に出発して、名古屋には16:12ですから、約2時間ですので、時代を感じてしまいます。

一往復だけ気動車に置き換えられた準急(当時は無名)列車は、どのようなものだったのでしょうか。
実は10系気動車が使われていました。
将来の準急用気動車の試作として計画された、キハ50形を利用して、昭和30年3月22日2エンジン付きのキハ51を両端に中間車がキロハ18(当時の形式はキロハ47000)とキハ17(キハ45000)を連結した4両編成で運転されたそうです。
ただし、予備車が無く検査時には客車列車に戻された日もあるそうです。

昭和30年の3月からはキハ17系(キハ50を含む)気動車が国鉄最初の準急気動車として運転されました。

キハ44500系気動車による準急が運転されたのは関西線が初

昭和31年7月15日からは量産型のキハ51(キハ44700)形が増備され、残り2往復の客車準急も気動車に置き換えられました。
なお、この改正で30分の大幅時間短縮で2時間50分運転となったそうで、当時の近鉄特急が2時間42分運転だったのでほぼ互角に戦えるようになったと言われています。


なお、その後キハ51はキハ55に置き換えられ軽快な準急塗装(クリームに赤帯)が投入されますが、優等車の増備が間に合わず、キロハ18の塗装を準急塗装にした車両が走った時期もあったようです。
ちなみに、関西線で最初に置き換えられた208・209列車が日本最初の気動車による準急列車となりました。

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準急列車と急行列車 第1話 電車の話

2017-12-12 11:55:50 | 国鉄思いで夜話
準急列車という種別を聞かれたことがあるだろうか?
英語表記では「Semi-Express」と表記されることが多いことからも何となく、格下の列車というイメージがあります。
現在でも私鉄の列車種別で使われる場合が多く、京阪電車であれば、萱島から各駅停車は準急とし、上位の列車として急行列車、さらに停車駅を絞った列車を一般的には特急と言っています。
こうした区分は、国鉄の列車区分を真似たものと思われます。

まぁ、その辺はもう少し検証する必要があると思いますので断言はできませんが。
さて、本日は私鉄の列車種別のお話ではなく、国鉄にも準急列車があったというお話をさせていただこうと思います。

国鉄時代の準急列車というのはその性格というか属性が戦前と戦後で変わります。
戦前の準急と呼ばれる列車は、現在の快速のような扱いで、準急料金は不要の列車であり、庶民向けの長距離列車などが設定されていました。
戦後は、準急料金が設定されることになりました。
ただ、急行料金が距離によって運賃が分けられていたの対して、一律料金でした。
手元に昭和36年3月の時刻表があるのですが、これによりますと、急行料金は、500kmまでで200円、500km以上は、300となっています。
ちなみに、旅客の初乗り運賃が2等で10円です。
ちなみに、2等というのは現在の普通運賃です。
準急料金はというと、距離に関わらず100円でした。

さて、ここで問題となったのが準急と急行の違いでした。
特急は、特急列車として誰が見て明らかに違う特別車両が連結されていましたが、急行列車と準急列車はほぼ同じ車両が使われていました。

電化区間であれば、昭和36年を基準で考えると、153系電車が急行列車にも準急列車にも東海道線で使われていましたし、80系電車も準急電車として活躍していましたが、急行列車の多くは機関車牽引による列車が数多く運転されていました。
そこで、電車が準急列車だけに使われている頃であれば、急行列車は客車列車で食堂車や特別2等車が連結された車両と言えたのですが、
旧形の客車よりも、軽快な内装の準急電車の方が快適ということから、急行列車の電車化が検討されることになりました。
そこで、急行「なにわ」が最初に電車化されることとなり、急行と準急の区別をはっきりさせる必要が出てきました。
そこで、2等車をリクライニング装備の特別2等車仕様にし、さらに151系電車で成功したビュフェで1等車を挟むようにして差別化を図ることにしました。

なお、153系急行のビュフェは寿司を販売したことで有名になりましたが、現在の在来線特急では車内販売もないことを考えると雲泥の差です。
こうして、辛うじて設備面で準急と急行は格差をつけたと言ったのです。

ただ、それだけでは理由付けが苦しいので、急行列車は準急列車よりもさらに停車駅を絞るなどしていましたので、今の特急列車よりも停車駅が少ない急行列車が多数存在しました。

しかし、特急車両同等の157系を使った準急日光もあったため、国鉄部内でも準急行の位置づけは曖昧なものとなっていましたので、その辺を含め、改めてお話をしたいと思います。

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昔の鉄道雑誌の記事から 幻の新線計画

2017-11-28 00:14:25 | 国鉄思いで夜話
皆様こんにちは、久々に投稿させていただきます。
今回は、昭和43年の鉄道ジャーナル10月号の記事から気になったものを拾ってみようと思います。


大阪市交通局がモノレール?
ネットで調べても、こうした記事が出ていないので多分検討段階で消えてしまったのではないかと思うのですが、記事によりますと。
昭和46年以降の地下鉄網を整備するにあたり、第二次5カ年計画を検討中だが、その一部区間にモノレールを採用すると言う記事が出てきます。
モノレール建設の区間は?
記事によりますと、新大阪~南港埋め立て地間30kmの新線東部環状線ルート…と記述されていますが。
実際にはどのような路線だったのでしょうか。
今となっては、この経路がどのようなものかイメージが湧かないのですが、バスやトロリーバスが道路混雑で思うように走れないうえ、地下鉄の建設には1kmあたり60億円かかるため、その1/4で済むモノレールの建設を計画しているとの内容の記事がありました。
ツッコミどころは満載だが?
計画では、複線モノレールを建設し、3~5両編成の電車を50~80㎞/hの速度で走らせようというもので、主要交差点に停留所を設けることとし、ビルの3階から4階を利用すると言う計画と書かれています。
まぁ、素朴な疑問として建設は道路上になりますので、道路の幅などが狭くなりますから円滑な流れは阻害されないのでしょうか?
更に、停留所はビルの3階。4階を利用するとのことですが、こうしたビルは大阪市交通局が建設するのでしょうか。
仮に既存の民間ビルに接続となっても、既にビルを改装するのでしょうか?
また、その費用は当然、大阪市交通局が持つのでしょうか?
工費は450億円程度を見込んでいると書いてますが・・・・。

何とも不可解な記事ではありました。
今後、大阪市交通局にそうした検討した記録があるのか探してみるのも面白いかなぁと思っています。

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EF52とさよなら運転

2017-11-06 12:18:07 | 国鉄思いで夜話
京都鉄道博物館に保存されている、国産初の電気機関車EF52

京都鉄道博物館には、現座EF521が保存されています。

EF52のことを少しだけ簡単に振り返ってみましょう。

EF52は、国産初の電気機関車として昭和3年から製造が開始されました、鉄道省が鉄道車両業界と共同で作り上げた車両で、性能的には満足するものではなかったものの、初の国産用機関車としての安定性は示したようでした。
9両製作されたうち2両は、歯数比が異なり、後にEF53として量産される機関車と同じであったことからEF54に変更されましたが、昭和20年には貨物用機関車の不足と2両しかなかったこともあり歯数比を再び変更してEF14という貨物用機関車に再改造されたのはよくご存じのことと思います。
昭和35年からは、大阪駅構内で荷物車の入換などに従事していたようで、昭和49年に廃車になるまで大阪駅を働き場所にしていたようです。
さて、東海道線で最初に華やかな活躍をしたEF52ですが、新鋭機関車が誕生すると都落ちしてしまうのは止む得ないことで、中央東線や阪和線に転属となり最終的に7両全車が阪和線に集結することになりました。
1号機は、昭和48年に廃車になったそうですが、そのまま奈良機関区で保管され続け、その後昭和53年に大阪弁天町の交通科学館(当時の名称、その後、交通科学博物館に名称変更)に保存されました。
弁天町の交通科学館が京都の鉄道博物館に統合移設されることになり現在に至るのですが。

EF52形は1号機が昭和48年に廃車になったとはいえ、2号機と7号機が最後まで運用に残っていました。
山中渓を越える関係で、ED60+EF52であったり、EF15+EF52と言った重連で、軽い場合はEF52単独で牽引していたものです。
特定の機関車との重連というのはなかったと思います。
外観では、2号機が尾灯を埋め込み式に改造していたのに対し、7号機は最後までオリジナルの行灯式で残っており、個人的にはオリジナルに近い7号機の方が好きでした。

そんな阪和線のEF52ですが、さすがに老朽化から廃車が迫ることとなり2号機が一足早くリタイア、最後まで残ったのが7号機でした。


7号機が昭和50年8月、さよなら運転で天王寺~和歌山駅間を運転

具体的な時間はちょっと覚えていないのですが、8月24日臨時きのくに53号を牽引して和歌山駅に到着、和歌山駅に到着後は、現在は近鉄百貨店が建っている辺りに留置線で展示会を兼ねた撮影会が行われたものでした。
当日は晴天で、機関車にはデッキにヘッドマークが付けられ、車輪などにも白い縁取りが入れられてお召列車仕様とまではいかないまでも地味な貨物機関車にしてみれば精一杯のおめかしをしてもらったそんな感じでした。
昼過ぎにはヘッドマークも付け替えて再び天王寺に向けて走り去っていき、いよいよこれで最後なんだろうなぁと思っていたのですが。

9月一杯は再び貨物の仕事についていたEF527

8月のさよなら運転でいよいよ最後と思っていたEF52でしたが、偶然にも9月頃だったと思いますが、夕刻に和歌山操駅の北側留置線に佇んでいるのを見つけたのでした。


学校から帰り、ふらりとカメラを持って走っていたら偶然発見。
もしかしなくてもEF52だよなぁ・・・そう思って夢中でシャッターを切っていました。
今から40年以上前のお話ですが、鉄道オタクの少年にしてみれば今のようにネットでリアルタイムな情報交換出来ない時代でしたから、発見した時は嬉しかったですね。
撮影時期は記憶だけなので9月だと思うのですが、もしかしたら10月だったかもしれません。
何れにしても、さよなら運転をしながら、その後も地味に貨物の運用についていたのは驚きでした。
廃車後は、製造会社の川崎重工が自社の工場で保存しているのは皆様も良くご存じだと思います。

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東海道新幹線はいつから3時間10分運転?

2017-10-01 23:35:31 | 寝台列車論
東海道新幹線は、開業当初は「超特急ひかり号」が4時間運転、「特急こだま号」が5時間で運転されていて、翌年にはスピードアップされてひかり号は3時間10分運転、こだま号は4時間で運転されることになりましたが、昭和40年10月から運転開始したと思っている方も多いのではないでしょうか。

私も迂闊にもそう思い込んでいたのですが、実は昭和40年11月1日だったのです。
ただし、在来線のダイヤは10月1日に実施されることになりました。)
元々は、在来線のダイヤ改正に合わせて10月からの準備をしていたそうなのですが、6月の梅雨時に集中豪雨で被害を受けたこと、9月の台風シーズンを考慮して、約1ヶ月ずらせることで、より安全な方式を取ることにしたそうです。
東海道新幹線は、その後に作られる山陽新幹線などと異なり盛り土の区間が多いこともその理由とされました。
特に9月の台風などで路盤が緩んでしまうと10月の時刻改正からいきなり徐行、徐行となってダイヤが乱れることになるので、それを嫌って敢えて1か月間猶予を得ることでリスクを避けたと言われています。
実際に9月17日に24号台風が来てこともあり、最終的に後ろにずらせたのは良かったとも回想されています。

その辺の事情は、交通技術に出ていますので少し引用したいと思います。

昭和40年11月号 http://library.transport.or.jp/e-library/%E4%BA%A4%E9%80%9A%E6%8A%80%E8%A1%93/HTML/1965-11_%E4%BA%A4%E9%80%9A%E6%8A%80%E8%A1%93(s40)_17.html財団法人 交通協力会の電子図書館を参照しています。

新幹線の速度向上は、利用者にしてみれば同じ発車時間であれば1本早い列車に乗車することが出来るため、大きな混乱はなかったと言われています。

参考までに、当時の時刻表もご覧くださいませ。
比較のためにまず、開業当初の昭和39年10月の時刻表を見ていただきましょう。

最初は、昭和39年10月の開業時の時刻表になります。東海道新幹線と言う名称はなく、単に新幹線と呼ばれていました。
1時間に1本、それもご丁寧に正午の出発はないと言うダイヤでした。
判りにくいのですが、11時発の後は13時発になっています。



そして、昭和40年10月の改正

表紙が「つばめ号」(151系)になっているのですが、この改正でつばめは481系に置き換わるのですが、行き交う車両はいずれも151系です。
改めて表紙を見て思ったんですけどね。
昭和40年の時刻表では、「特急 第1しおかぜ」が新設されていますが、これは、新幹線とは接続されていません。
こうしてみると。見事に4時間運転となっています。

昭和40年11月の時刻表を持っていませんので、昭和41年1月号の時刻表を改めて参照しますと
東京から大阪間は3時間10分となっており、若干の増発もされているようです。

無事、「特急 第1しおかぜ」が新幹線連絡特急としての機能を果たすことになりました。
ユニークなのは、名古屋駅で「特急あすか」に接続と言うところでしょうか。
「特急あすか」大阪を経由しないため利用者が低迷して特急で戦争による理由以外で最初に廃止になった特急でもありました。
当初は、食堂も営業していたのですが、やがて食堂営業も休止となり車両の有効活用を図った結果が赤字を増やす原因になってしまったと言う結果になりました。


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白浜発京都行き 優等列車

2017-09-05 14:00:43 | 国鉄思いで夜話
現在であれば、普通に京都方面から南紀と言えば、東海道本線→梅田貨物線→大阪環状線→阪和線→紀勢本線
という流れですが、これは阪和線と大阪環状線を短絡する路線が建設されたことで可能になった訳で、当初は単線でしたがその後上下線に分離されたことで利便性は向上、その反面天王寺駅地平ホームは普通電車と区間運転の快速電車などが発着するだけの駅となり、頭端式のホームで発車を待つ長距離列車の風景は過去のものとなりました。
かっては1番線2番線は長距離列車専用ホームとして常に優等列車が屯し、特に気動車時代は駅構内が排気煙で独特の雰囲気を持っていたものでした。
大阪なのにディゼルカーのアイドリング音が響き渡り、大阪駅と対になる環状線の駅ではありますが格下感はありました。


さて、そんな天王寺駅ですが、当然のことながら当時は天王寺から京都に向かうことはできませんでした。
しかし、当時は近畿地方の観光地では人気だった南紀地区には白浜方面から京都に向かう列車が運転されていました。

それはどんな経路だったのでしょうか?

それは、和歌山線を活用する経路でした。
今でこそ、和歌山線はローカル線としての認識しかありませんが、昭和30年代から50年代にかけては重要なルートでした。

昭和36年4月時刻表から 和歌山線を経由して京都に抜けるルートで、昭和36年9月までは単独運転だったそうです。
東京から白浜まで直行し、白浜で観光、その後再び列車で京都に抜けていたようです。
行程はその後変化していきますが設定当初は白浜がメインだったようです。
詳細は後日、南紀観光列車の変遷としてアップさせていただきます。

特に昭和30年代に設定される、団体臨時列車は座席車(スハ44)6連で東京~白浜・京都と停泊する列車で、今のクルージングトレインの走りとも言えるものでした。
いわば団体旅行列車であり、現在のクルージングトレインのようなものではありませんでした。

準急はまゆうの試運転

昭和37年の改正では、、団体専用列車「南紀観光」が一般扱されることとなり、「準急はまゆう」として和歌山線経由の列車として運転されました。
その後、「準急はやたま」と・準急はまゆう」が愛称を統合して昭和43年10月の改正で「急行しらはま」として運転されることになりました。

その後は大きな動きは、紀勢本線の電化以降でした。
昭和55年10月の改正で「急行しらはま」の運転区間が、和歌山駅~京都駅 間(奈良線・桜井線・和歌山線経由)に短縮されてしまいました。
しかし、紀勢本線電化後も昭和59年まではディゼル急行で残されていたきのくにが電車化されて特急に統合されることに伴い、和歌山線経由の優等列車も廃止になってしまいました。

さて、そんな白浜発京都行き列車ですが、JRになってから臨時列車ですが復活します。
それも特急列車で・・・最初、和歌山線に381系が営業運転で入ったのかと早合点したのですが、実はかつての「あすかルート」で復活したのでした。

昭和62年9月から翌年3月まで「ふれあい紀州路キャンペーン」が開催されその旅客誘致の一環として、ふれ愛紀州路」(ふれあいきしゅうじ)号が京都駅土曜日、白浜発は日曜日で各1本運転されていました。
杉本町から久宝寺に抜ける阪和貨物線を経由して関西線・奈良線経由で運転されたものでした。


キャンペーン終了後は、「しらはま」と愛称を変更して運転されていましたが、平成元年に阪和線と大阪環状線を短絡する路線が完成したことに伴い廃止されています。



鉄道ジャーナル昭和62年12月号から引用(きらめく紀州路号)トレインマーク
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消えた物流拠点 和歌山操駅(現・ビックホエール付近を中心に)

2017-08-24 13:03:33 | 国鉄思いで夜話
現在は、ビックホエールやビック愛が立ち並ぶこの場所は、元々和歌山操駅が広がっていました。
昭和59年2月のヤード系輸送廃止と貨物駅集約などでようと廃止となり、その後解体されて現在の姿になったことはご存じだと思います。

当時の様子を少しだけ当時の写真で再現してみたいと思います。
現役当時の写真を何枚かアップさせていただきます。
写真はいずれも、私が撮影したものです。


ビックホエールと反対側の線路沿いから撮影した、くろしお2号(名古屋行き)

和歌山操駅出発線で発車を待つ阪和貨物、当時はEF52単独、またはEF58+EF15等のパターンで運転されることが多くありました。
 
ED60重連で到着した阪和貨物の列車
なお、撮影当時は紀勢本線が電化前であったため、貨物列車は個々で再組成されてDF50がけん引して走っていました。

下記は、国鉄線の記事から、紀勢本線の和歌山(当時は東和歌山~宮前の間に貨物駅が出来ることを書いた記事です。)


参考 昭和50年頃の和歌山操駅全景


現在の元和歌山操駅全景

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紀勢本線にやって来たキハ35

2017-08-14 23:25:04 | 国鉄思いで夜話
紀勢本線の和歌山~新宮まで電化されたのが昭和53年10月なのですが、それ以前は気動車による運転が行われていました。

昭和49年 時刻表から

現在の様に、和歌山~御坊 御坊~田辺・・・と言った細切れではなく、気動車列車でも和歌山市発串本行きとか、周参見行きと言った普通列車が走っていました。


和歌山市発周参見行き
当時は、キハ17やキハ20、時々キハ45が連結されているとラッキーみたいな感じでした、他にもキロ26を格下げしたキハ26-400番台も運用に入っており、これが普通列車に入っていると得した気分になったものです。

昭和52年の時刻表 串本行きが新宮行きに変更されています。
まさか、キハ35で新宮まで行ったとは思いたくないのですが・・・。

さて、そんな紀勢本線もとある時期から大変なことになります。
それは、関西本線の湊町~奈良間が電化されて113系・103系による電車運転が始まると、今まで関西線の主力として活躍していたキハ35が大量に余剰となりその煽りで。和歌山機関区にはキハ35が大挙してやってくることになりました。

国鉄時代の気動車は特急形以外は基本的に自由に連結できましたので、キハ35系×4連というのが多くなりました。

まれに検査の関係などで、一部のキハ35が45に置換えられていたりすると45だけが満席になるなんてこともありました。

その後、紀勢本線が電化されると運転区間は和歌山から紀伊田辺・紀伊田辺~新宮間で運転区間が分離され、和歌山~紀伊田辺間は直通快速を基本に6連、紀伊田辺~新宮間は4連が投入されました。
その後、紀伊田辺~新宮間は165系3連、更に105系2連に変更されているのはご存じのとおりです。



余談ですが、JR西になってから天王寺発20:20が五条・田辺行だったのですが、当初は113系だったのに、阪和線内の混雑が激しいとして103系に置換えられた時期がありましたが、トイレも無い103系で紀伊田辺はいくら何でも酷いですよね。

取材・講演などお待ちしております。
国鉄があった時代のお問合せフォームからお願いいたします。
http://jnrera3.webcrow.jp/contact.html
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阪和線の思い出話(国鉄時代)

2017-07-27 10:28:31 | 国鉄思いで夜話
初めに
阪和線と言えば、大阪南部のベッドタウンを走る鉄道としての存在感を増していますが、関西空港向けの223系・225系以外は103系の天下…そんな時代がありました。
それ以前には、首都圏で走っていた旧形電車(73形)等が配置されており、今から40年程前(昭和50年)頃には旧形電車の墓場阪和線と言われたものであり、
元々、阪和線が阪和電鉄(国鉄買収時は、南海山手線)であったことから、外様(外様大名が徳川幕府から敬遠されて遠くの領地に封印されたことを指して)だから、古い電車しか投入しないのだろうと鉄道ファンの間で噂されたものでした。

実際は優遇されていた阪和線/font>
阪和線に旧型車両が集まってしまったのは実は、阪和電鉄の車両が優秀過ぎたという問題がありました。
一般の買収国電は、雑型という分類で分けて比較的早い時期に国鉄の車両と置き換えたのですが、阪和電鉄の車両は、天王寺~和歌山間ノンストップで45分運転していたこともあり、非常に優秀な電車であり、P6(新京阪・現在の阪急京都線)と並び称せられる電車でした。
ブレーキ装置に至っては、国鉄形よりも優秀でした。
そんな電車でしたから、国鉄としてはそのまま使えるところまで使おうとい言うことで国鉄の制式に準じる番号を与えるとともに、そのまま運用させたのですが、ブレーキ装置など走り装置を国鉄形の標準品に変えてしまって性能は低下したとも言われています。
結局、阪和電鉄の車両は昭和40年頃まで生き残ることとなりました。
その間も、阪和線には随時新車が導入され、70系電車300番台等も新製配置されています。
また、103系も山手線に続いて阪和線にも直接投入される等、結構優遇されていたのですが・・・。
首都圏の旧形置換えで玉突きに
山手線などで103系の置換えが進むと旧形電車の配置転換が問題となり、こうした場合は首都圏に新車を入れて玉突きで古い電車を地方に回して、さらに古い車両を廃止する玉突き配転が一般的でした。
そこに、阪和社型の引退が重なったため、73形などが一気に都落ちでやってくることになりました。
約10年程は、戦前型の旧形車クハ55・クモハ60等に交じって73形電車が阪和線を往復するようになりましたが、阪和形比べると貧弱で、南海電車が新型車7001系、改良型の7101系を導入するにあたりその差は広がる一方でした。

国鉄時代に、70系電車を直接阪和線に入れたのも、南海の1001系(当時の形式では11001系)に対抗するためであり、転換クロス式の導入を希望したそうですが、当時の国鉄ではそうした要望も聞き入れらるわけはなく、70形に落ち着いたと言われています。

その後昭和51年(1976)3月には、阪和線の新性能化が行われ、103系・113系などに統一されることとなり悪評高かった73形電車などは廃車、一部は可部線、70系は福塩線に転出しました。

ここで再び新車が入れば良かったのですが・・・、首都圏でATCを導入するということで103系800番台が新製配置されており、その玉突きで冷房車・非冷房車が阪和線などに大挙して押しかけて来たのでした。
JR西になってから改善されたが
新性能化はされたものの、国鉄時代はさほど大きな改善は行われず、関東の玉突き配転で冷房改造車などが送り込まれるのですが、歳暮が良くないのか経年以上に陳腐化して見える車両も多かったように記憶しています。
ひいき目かもしれませんが、大井工場よりも鷹取や吹田工場の方が修理は丁寧だったような気がしています。
JR発足後は、205系1000番台が直接投入される等の施策が行われましたので、今後一気に205系が阪和線を置換えるものと期待したのですが・・・気が付くとアーバン区間の113系を追い出すのに忙しくて221系が、その後東西線連絡用に片町線が近代化されることとなり、207系が投入されることになったのですが、集中投資の関係で阪和線は後回しとなりしばらくは阪和線は103系による天下の時代が続きました。
ただ、リニューアル工事した車両が入るとしばらくすると地方線区向けに更に改造されるために転出するなど。いつまで経てもリニューアル車が来ないというジレンマを抱えることになりました。
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昭和15年の時刻表から。伊勢神宮参拝と鉄道省

2017-07-10 14:01:41 | 国鉄思いで夜話
通過手信号様のコメントがすっかり見落としておりました。
お詫びというのも変なお話ですが、改めて昭和15年10月号の復刻版時刻表から当時の参宮線を振り返ってみたいと思います。
当時の伊勢神宮への参拝は現在では考えられないほど活発で、鉄道省でも関西方面から直通する列車が多数運転されていました。
まずは、表紙から。
今とは比べ物になっらないほど地味ですが・・・
下部に日本旅行協会(ジャパン・ツーリスト・ビューロー)の文字が見えます。


まずは、東海道線の時刻表から見ていただこうと思います。
上り列車の時刻表であり、姫路6:52発の快速列車(戦後も鳥羽行き快速として列車自体は残りました。)
ちょっとスキャナーが悪くて見にくいのですが、11:26大阪駅発の鳥羽行きを見ることが出来ます。
列車自体は本数は多くないですが、大阪発青森行き各駅停車など非常に興味深い長距離列車が目立ちます。

さて、同じく東海道線の下りを今度は見てみましょう。

鳥羽発9:12京都着 1:56の普通列車と、不定期列車と記載されていますが鳥羽を約2時間半後で出発して。京都には1時間まで時間差を縮めている快速列車の存在も気になります。
この時期の時刻表は、12時間制で表示されていますので最初見るとすごく違和感を感じてしまいますね。
現在のような24時間制になったのは戦争が始まってからと言われておりますので、1942(昭和17)年9月26日に鉄道省部内において業務上使用する時刻の呼称方法を24時間制に制定したそうです。
参考 レファレンス協同データベース参照


草津線の時刻表をアップさせていただきました。
これを見ますと草津線の列車は殆ど伊勢神宮向けの列車だけであり船内運転の列車は出てきません。
更に、鳥羽を夕刻5:40頃出発して、翌朝5:48に宇野に到着する夜行列車が運転されています。
おそらく、四国方面からの利用者の便を図ったものだと思われます。

次のご覧いただくのは参宮線の各線
東京から直通の夜行快速列車(241・242レ)が運転されています。(戦後の急行伊勢の前身)またこの列車とは別に203列車という列車の存在を見ることもできるようです。


同じく上り列車の様子



お終い


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