国鉄があった時代blog版 鉄道ジャーナリスト加藤好啓

 国鉄当時を知る方に是非思い出話など教えていただければと思っています。
 国会審議議事録を掲載中です。

東海道新幹線を走った、夜行列車

2018-11-02 23:46:40 | 国鉄思いで夜話
00:00を回ると運転しない新幹線
新幹線で夜行列車が運転されたと書くと、?と思われる方も多いのではないでしょうか。
新幹線は、基本的には0:00以降は運転されすことはなく、希に、災害等で0:00を回って運転されることはありませすが、基本的には00:00までに営業運転を終了するダイヤになっています。

新幹線で、00:00を回って運転された例としては、2002年のワールドカップで、上り列車のみですが、6本(23:30,23:45、00:01、00:15、00:30、00:41)の臨時列車が運転されたことが記憶に新しいところではないでしょうか。

「2002FIFAワールドカップ」大会期間中の対応について

日本万国博覧会開催中運転された「エキスポこだま」

また、1970年の万博開催期間中に「エキスポこだま」という列車が、走っていました。
この列車は、1970年4月29日から運転開始されたようです。
大阪駅を22:58に出発する夜行列車で東京着が、8:10着の列車でした。

これだけ聞くと、新幹線で夜行運転していたんだと早合点する人がいるかもしれませんよね。笑
大阪発東京行き「こだま」号?

でも。よく見てくださいね。大阪を22:58です。
新幹線は、新大阪からの出発ですよね、・・・。

そう、この列車は夜行列車ですが、在来線を走る夜行列車だったのです。
三島駅まで走り、三島駅から始発のこだま号に接続していたのです。
これは、三島駅に電留線があったのと、前年の10月に、三島駅が開業していたことで出来たものでした。

エキスポこだまは、1970年7月から9月にかけて運転されたようです、これは新幹線の夜行運転ではなく、三島駅で、新幹線と接続するリレー輸送でした。
大阪→三島まで在来線で運転、三島駅で、こだまに乗り換え

これ以外にも、時刻表がないので確認が出来ないのですが、新大阪21:10発の臨時ひかりの運転と言う記述が有り、この列車だと、東京着が00:20になるので、これが記録としては、00:00を回って運転される東海道新幹線の記録と言えるかもしれません。
一夜だけ走った臨時夜行列車、新幹線「こだま」
実は、臨時列車ではありますが、本当に新幹線の夜行列車が運転された記録がありました。
昭和46(1971)年7月27日です。
弊サイト、国鉄があった時代から引用させていただきます。

初の夜行新幹線運転 7/27

広島県下を襲った集中豪雨により不通となっていた山陽本線は26日午後5時、13時間ぶりに開通し、列車は次々と運転を再開
午後7時までに特急24本、急行31本の上下列車55本が運休したほか、上下特急、急行あわせて57本が13時間から1時間40分の遅れとなった
本社では27日午前0時10分と同40分、新大阪発東京行臨時「こだま」2本を増発、遅れた山陽本線上り列車の乗客をリレー輸送を行った。


国鉄があった時代 昭和46年後半 鉄道ニュース

概要は、山陽線が集中豪雨で不通となったことにより最高13時間遅れたことに対する救済措置で、本社権限で、00:10と00:40の2本の「こだま」が運転されたとされています。
5;00までに到着しますが、東京駅でホームは対応可能だったのか、もう少し調べて見る必要がありそうですが。少なくとも、この記録が、私の知り得る範囲では、唯一の東海道新幹線の夜行運転と言えるかもしれません。

画像 国有鉄道 1971年9月号から、引用
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国鉄は高額納税者だった。第5話 

2018-10-22 23:21:25 | 国鉄思いで夜話
納付金とローカル線問題と国鉄赤字

国鉄は、昭和39年に赤字に転落して、その後昭和60年まで経常収支では黒字に転換することはありませんでした。
そして、この頃から、国鉄としても地方納付金の減免、または廃止について要望するのですが、当然のことながら既得権益を剥がされるとして、自治省は反対をするのですが、その辺の事情を当時の資料などを参照しながら見ていこうと思います。

納付金について、おさらいしてみましょう。

国鉄に課せられる「納付金」の対象賢産はというと、土地、駅舎、線路設備、車両、船舶などなど、原簿価格でで二兆九六〇〇億円(四十一年度申告額)に達し、国鉄全資産の93%
ひとことでいえば、列車や船を走らせるための直接、間接のほとんどすべての施設が課税対象になっています。
国鉄は毎年三月末現在で所有する資産のうち、これら「納付金」の対象となるものを自治大臣に申告し、この申告にもとづき自治大臣が固定資産所在の市町村に割り当て額を配分する。
配分を受けた市町村では納付金。納入告知書を発行し、国鉄は五月と十月の二回に分けて、市町村に支払っています。
この配分基準としては大別して、

  1. 管理局庁舎、宿舎、車庫など自動車施設、工場施設はその所在する市町村へ

  2. 船舶は所属航路の停泊港へ均分配分

  3. 送電線はそれか所在する市町村へ鉄塔数によりあん分

  4. 以上の三つに該当しない資産は軌道の長さにあん分して配分する


、となっています。
特に、
 以上のうち④に当たる資産が、納付金対象資産の90%以上を占め、配分の中心基準となっている。
簡単に言えば、線路があればそこにはお金が入ってくると言うわけです。
納付金は、地方自治体にしてみれば、打ち出の小槌であり、国鉄が投資をして鉄道を改良すればするほど、地方に入る納付金も増加する仕組みになっていました。

下図をご覧ください。

昭和40年度以降に大きく納付金が増えているのは、新幹線の開業で一気に資産が増えたことも関連しています。
これらの納付金は、下記のようにかなりの額になります。
昭和41年の資料ですが、一覧をこちらでアップさせていただきます。

もう一枚、納付金の多い市町村



なお、国鉄としても、納付金という制度には当然のことながら、不満を持っており、下記のような恨み言を述べています。

国鉄としては、昭和31年から10年間で支払った納付金は累計で758億円に上り、このお金を全て国鉄の設備投資に回せていたら、103系電車であれば3000両、気動車であれば4000両も製作することが出来るとして、以下に大きな金額であるかと訴えています。
実際、納付金の制度がなければ国鉄の赤字の顕在化はもう少し後になっていたであろうと思われます。

さらに、国鉄の職員の中でも、国鉄の納付金の減免や関連事業の緩和を図るべきだと言った至極正論が述べられています。
昭和41年国鉄線 11月号から引用


そして、実際に納付金減免に関して、国鉄は動き出すのですが、当然のことながら自治省は反対を表明します。
下記の記事は、昭和42年12月国鉄線の記事からの引用ですが、昭和42年の予算として、通勤・通学定期券の35%値上げや、政府からの政府出資や利子補給とともに、納付金の軽減を求めています。
逆説的に見れば、納付金を全額廃止すれば、利子補給や政府出資金に頼る必要は無くなるわけですが・・・当然のことながら、自治省は反対することになります。

その辺は、次回に当時の新聞記事などを参照しながら、述べていきたいと思います。

続く

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まとめサイト作成しました。今回は、輸送力増強と国鉄です。

2018-10-12 12:08:27 | アーカイブス
いつもご覧いただきありがとうございます。
下記内容で、日本国有鉄道史の解説として、まとめサイトを作ってみました。
併せてご覧いただけますと幸いです。

輸送力増強と国鉄 第1話 輸送力増強

昭和24年9月、戦後初めての「特急 へいわ」が運転を開始しました。
 戦後の暗い世相の中でたとえ一般庶民には高嶺の花であった特急列車が復活するということは国民に希望を与えるものでした。
 特に、「へいわ」という愛称は、戦後の国民には素直に受入れられる名称では有りましたが、愛称については、改めて公募が行なわれることとなりました。
blogはこちら

輸送力増強と国鉄 第2話 講和条約後の日本
講和を獲得後日本は、国際的には独立国となりましたが、まだまだ10年戦争による疲弊は続き未だ国民の生活は豊かなものではありませんでした。
しかし、昭和30年代に入ると、次第に戦後復興と言われた時代は終わり、池田内閣の所得倍増計画に見られるように、より豊かな生活を目指して経済が活発化していきました。
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輸送力増強と国鉄 第3話 貨物輸送の改善
昭和25年からは、貨物輸送についてもサービス改善が図られ、小口貨物輸送専用のワキ列車が、汐留~梅田間および吹田~門司間に設定され、汐留~門司間で65時間から43時間に大幅に改善されました。
改善の動機はドッジ・ラインによる縮小経済で貨物輸送が減少したことと、トラック輸送や船舶輸送の復旧が進みサービス改善に迫られたことも原因としてありました。
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輸送力増強と国鉄 第4話 湘南電車に見られる、電車の活躍
昭和25年3月、東京~沼津間に80形電車による運転が始まりました。これまでは電車といえば近距離での輸送が常識を覆すものでした。 現在も使われている、オレンジと緑の塗り分けは、茶色若しくは黒しか見たことが無かった人々には驚きの目を持って迎えられました。最も当初は赤味の強いオレンジ色であったため後に修正したと言われています。
blogはこちら

輸送力増強と国鉄 第5話 機関車の再改造と輸送力増強
戦時中に製作された、EF13、D52などは、通勤形電車の63形同様、戦時設計と言われる構造であったため代用部品や、設計の簡略化などが行なわれており、実際にD52形蒸気機関車では走行中にボイラが爆発して、機関士が死亡するといった事故が発生しています。
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国鉄は高額納税者だった。第4話

2018-10-06 08:33:49 | 国鉄思いで夜話
長らく更新が滞っておりましたが、久々に更新させていただきます。

国鉄赤字の原因はどこに?

国鉄赤字の時期をどこで捉えるかといいますと、新幹線開業が原因で、それ故に昭和39年から赤字が発生したと言うのが一般的ですが、その原因を作った一つに、昭和31年から設けられた、地方納付金という制度も関係していると、個人的には考えています。
地方への交付金が不足していたこともあり、積極的に、公営ギャンブルを奨励していた訳ですが、不足する地方財源の一環として、国は、昭和31年、公社に対して課税を行うこととしました。
ここでポイントとなるのは、公社だけがその対象であり、郵便局など国営の機関は対象としなかったことでした。
当時、公社と呼ばれた組織は、専売公社、電電公社、そして日本国有鉄道であり、その理由は、市町村にその施設がある以上、消防署等の世話になることが、あるでしょうと言う理由で、市町村に税金を払えと言う制度でした。
それでは、国鉄以上に窓口などで利用者と接し、金融機関でもあって、警察などの世話になるであろう、郵便局はその対象から外れるというのも矛盾でした。
なお、郵便局は、郵政公社時代に、この法律に基づき、地方納付金を支払っています。
国が勝手に設けた制度に国鉄が巻き込まれたということは、前回までに書いたとおりです。

納付金とはどのような制度だったのか?

さて、納付金に関して、国鉄の部内誌により詳しく書いた資料がありましたので、その記事を参照しながら解説を加えていこうと思います。
その記事を引用させていただきますと。
国鉄が支払っていた税金は、大きく分けますと
固定資産税・・・遊休地や、病院などの福利厚生施設など
自動車税・・・・国鉄バスなどの営業用自動車、それ以外の自動車
地方納付金・・・直接、事業に供する線路。駅などの用地及び建物、及び車両が課税対象


鉄道車両は全て対象になる。駅舎もその対象、折尾駅にて

なお、地方納付金は、年2回に分けて、市町村に納付されることになっており、前年度中に、下記区分に従い本社経理局長に報告するように、なっていたそうです。

以下は、国鉄部内誌、「交通技術昭和42年4月号」に掲載されていた記事から引用したものです。以下、同一文献から引用

> このために固定資産の所管者である総括局所長(鉄道管理局長なと)は、自局の所管する固定質産を、

  1. 固定資産税が課されるもの

  2. 自動車税などが課されるもの

  3. 市町村納付金が課されるもの

  4. 税の対象外のもの



に分類する他、市町村ごとの軌道延長キロなどを調査し、経理局長へ報告することになっています。 ここで注目していただきたいのは、軌道もその対象であったと言うことです。市町村の一部区間でも、線路があれば、市町村にすればお金が入ってくるわけです。もちろん、軌道延長キロですから、単線よりも複線になる方が、その収入は大きくなる計算になります。 もう少し、市町村納付金の対象資産について詳しく述べたいと思います。

再び、「交通技術昭和42年4月号」から引用させていただきます。

  1. 軌道延長キロ(単線換算)により按分して配分するもの(一括申告資産といい、全納付金対象資産の94%を占めている〕……線路・駅区などの用地及び建物・線路設備・電線路・工作物・停車場設備・車両及ぴ機器がこの区分に入る。

  2. 固淀資産所在の市町村へ配分するもの(個別申告資産)……局の庁舎・宿舎などの用地及び建物・自動車施設・工場施設・船舶及ぴ石炭積込施設などがこれiこ該当する。



と書かれています。例えば、鉄道工場や機関区、さらには操車場などがあった吹田市等は、国鉄からの地方納付金もかなりの金額になる訳です。

吹田観光ウエブから引用
また、地方のローカル線の場合、たとえ1日数本の列車しか走らなくとも、地方納付金が支払われる仕組みになっていたわけです。 なお、納付金の額のうち、軌道に関しては下記の通り、kmあたりの金額が定められていたそうです。再び、引用させていただきます。
したがって、大部分の資産は、軌道延長キロによって配分されるわけで、軌道延長キロは配分上最も重要なものとなります。例えば、市町村の区域内に軌道が少しでもあれば、本州:34万8000円、北海道;15万8000円、四国:24万4000円、九州:25万円(以上昭和41年度分)のように市町村納付金が納付されることになり、軌道延長の増減は市町村との利害と密接な関係にあることが理解されましょう。 
一方、自治大臣は、市町村納付金を納付すべき資産について固定資産評価基準により評価を行い、軌道延長キロなどにより対象資産所在の市町村への配分価格を決決定し、市町村及び国鉄に通知され、納付額算定の基礎となる価格が決定されます。そこで市町村納付金の算式を示すと、固定資産価格x0.5x0.014となっています。

引用以上

ここで書いていますが、線路では1kmあたり、上記のように一律の金額が納付されるわけですから、地方都市にしてみればおいしい財源であったといえましょう。 何せ、毎年確実に入ってくるわけですから。
 さて、こうした納付金ですが、国鉄が改良工事を施したりすれば、その分線路延長が増えて、車両も増えたりしますので、納付金も増えるという問題が生じました。
さらに、鉄道建設公団が建設する地方開発線と呼ばれる、AB線は、鉄建公団が建設して、国鉄に無償譲渡する路線ですが、これも国鉄にしてみれば線路が増えた分だけ納付金が増えるわけですから余り有り難くないわけです。 さらに、走らせるとなれば、それなりの経費も要るわけですから、国鉄としては譲渡してほしくない路線でした。 ちなみに、幹線区間と呼ばれた、CD線は、有償譲渡路線であり、鉄建公団から年賦で買い上げるもので、こちらも所有権は国鉄に移るため、納付金が発生しました。CD線の場合、鉄建公団への支払いが終わるまでは、鉄建公団の所有としておけば国鉄には納付金の分だけでも経費が浮くのですが、そのような仕組みにはなっていませんでした。


参考 鉄道建設公団が建設・開業した国鉄線 弊サイト、国鉄があった時代から引用

再び引用します
 ところで国鉄は、昭和40年度から幹線の複線化、電化による輸送力の増強並びに都市圏通勤輸送の緩和のために第3次長期計画を実施し約3兆円にのぽる設備投資を行ないつつあるが、これに伴い納付金対象資産も急激に増加し、毎年の市町村納付金は急増して、完成時には現在の約2倍(約240億円)に達するものと見込まれている。このように市町村納付金は、今後ますます増加し。ひいては、国鉄財政に大きな負担となるので、これが減免について政府など関係機関に要請している。 ここで、国鉄は、減免について政府など関係機関に要請している。

と書かれていますが、実際に減免が認められるのは、分割民営化の方針が決定した頃であり、それまでは誰も責任を取らない体制のまま、形だけの再建計画が続けられ、地方納付金も引き続き国鉄は払うこととなりました。
国鉄赤字を、設備投資の利子払いなどが嵩んだことに求める論調が目立ちますが、仮にこうした地方納付金を廃止なり大幅な減免が行えていたり、過度な定期運賃の割引などが行っていれば、少なくとも、違った形で着地していたのではないかと思えるのです。


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国鉄は高額納税者だった。第1話
国鉄は高額納税者だった。第2話
国鉄は高額納税者だった。第3話

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NEVER まとめサイトで、 国鉄があった時代、日本国有鉄道史の解説を実施中

2018-09-23 12:19:15 | 寝台列車論
国鉄があった時代、日本国有鉄道史の解説版として、NEVERまとめサイトで、個々に単元ごとに分けて、まとめサイトを開設して運営しています。
個々のタイトルをクリックしていただきますと、サイトをご覧いただけます。

国有鉄道誕生編

日本国有鉄道誕生 第1話

日本国有鉄道の誕生前史
日本には、かって鉄道省という役所(さらに古くは鉄道院)という役所がありました、戦時中は逓信省(現在の郵政公社の前身) と統合され、運輸逓信省に、さらには運輸省になり、空襲激しくなる中でも、兵員輸送に、また武器弾薬輸送など貨物輸送にと全力を持って、鉄道員の方は、苦労されました。
特に、昭和も20年になると本土決戦が叫ばれるようになり、鉄道員も軍人とほぼ同等の扱いを受けることなり、組織もそれに見合った形に改変されました。

日本国有鉄道誕生 第2話

労働運動の台頭とマッカーサー書簡
当初、労働運動には寛容であった、GHQでしたが、これを日本共産党が解放運動と感じたことに大きな誤りが生じることとなりました。
この辺りにつきましては、国鉄とは直接関係ないので割愛させていただきますが、後ほど機会を見つけて論述したいと思います。 すなわち、コミュンテルン(国際共産党)の指示を受けていたこともあり、世界革命近しということで、労働者を指導し、労働運動を活発化させるとともに、非合法活動(銀行襲撃や、爆弾製造など)も平行して行われていました。

日本国有鉄道誕生 第3話

国鉄の誕生
GHQの見解を聞いて頭を悩ませたのは時の政府でした。
GHQの命令は絶対であり、マッカーサーからの書簡(指示)という事になれば尚更でした。
前項に書きましたように、政府としては鉄道総局をどうすべきか考えた結果、政府の意向ができるだけ通る、すなわち政府が公共企業体を支配できる体制を考え出しました、これが後々まで国鉄を苦しめる結果となりますので、よく覚えておいてください。
そこで政府は、3つの案を考え出します。

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国鉄は高額納税者だった。第3話

2018-09-17 00:09:17 | 国鉄思いで夜話
増え続ける納付金
長らく空けてしまいましたが、改めて投稿させていただこうと思います。
国鉄に課された、地方納付金は、もちろん、国鉄だけではなく、電電公社も同じ条件でしたが、電電公社が、主に電柱と交換機などに対して、納付金が対象になるのに対し、国鉄の場合、車両や線路にも対象になるため、車両を増備すれば納付金が増えるわけです。
また。車両にATSを付けたりして新たな保安設備などを付ければ固定資産が増えたということで、納付金も増えることになります。
車両基地のある地域では、何もしなくても納付金という形でお金が入ってくるわけですから、地方自治体としては、車両基地等の建設は反対する積極的な理由はありませんでした。

鉄道の利便性が上がると納付金も増える?
戦後、国鉄では輸送力増強のために車両増備や電化などを行いました。
じつは、国鉄に課せされていた納付金は、国鉄が保有する財産に課税するものでした。
当然のことながら、車両が増えれば車両分の納付金が増えます。
また、車両増備に伴い、電車区などを拡張若しくは新設すれば当然のことながら、その拡張分だけ納付金が増えます。
ただ、国鉄の納付金は、線路や駅施設などに限らず、下記の例に示すように、防風林などにも課税されていたそうです。
防雪林や防風林は、雪崩などを防ぐとともに、風を和らげるなど、いわゆる防災という点でも大きな役割を果たしていたものですので、本来は非課税であるべきなのですが、しっかりと課税されていたようです。
納付金制度の導入に関しては、国鉄は元より運輸省もかなり反対したようですが、当時の政府に押し切られたような感じです。(当時の首相は、鳩山一郎)

国鉄としては、納付金の制度はやはり納得いかない制度であったのか、下記のような不満を述べています。

国鉄部内誌、国鉄線、昭和38年11月号から引用させていただきます。

 数年前、秋鉄局の荒井局長が五能線を視察された折、運よくおともをして
沿線を見学したことがある。この線は浪害等の立地条件により、年々改善されてはいるが、黒字になることがきわめて困難で、車中、局長が沿線の林をさして言われた言葉が記憶に残っている。
 「あの防雪林はまったく不経済だ。松や杉を植えてあるのだが、防雪林だからあまり高く伸びると下の方がすいて来て役に立たなくなるので、大きくして高く売ることができない。普通の杉は大きくするために下枝を落とすのだが、それもしないでいる。それでも三〇年位の杉はまあ幾らかには売れるが、しかし、松になると全然買手がないくらい。大きくなれば切って植え替えるという事をくりかえしている。ところが、市町村納付金はチャンとかかっているのだ。」
 赤字線区を、損をしながら列車の運行を確保し。事故防止に努め、そのため防雪林のような施設に金をかけているところに。さらに固定資産税や市町村納付金が課税されるのでは。泣きツラにハチの感がある。私企業ならとっくに放棄しているであろう。
 これは応益負担の課税と言えないことはもちろんである。また、国鉄が全休としては昨年度に約五〇〇億の純益をあげていても、使命遂行に必要な投資にあてる自己資金としてはあまりにも不足。結局多額の借金を続けて行く現状が、諮問委員会答申の「完全破綻以外の何物でもない」ということになると、応能原則などと気休めも言えなくなる。昭和三十一年度に、運輸省や国鉄の反対を押さえて実施されたこの課税は、再び出発点にもどって本質論から検討し直す要があろう。地方財政の困窮もよく分かるが、この制度を続けて行くことが。その地方の国鉄線の営業を廃止する可能性にもつながることになりはしないだろうか。


引用終わり

ここにも書かれていますが、防雪林なども国鉄の土地と言うだけで地方納付金の対象になっていたわけです。
鉄道には、防雪林の他にも防風林と呼ばれるものがありましたが、これらの場合、植えたら終わりということではなく、本文でも書かれているように、大きくなれば、下枝が枯れてしまうため、余り大きくすることはできないと言った問題を抱えているわけです。
結局、こうした防雪林などは鉄道の安全運行を支えるものであるにも容赦なく税金をかけてくることを嘆いているわけですが、「本質論から検討し直す」ということで、減免は認められず、昭和39年の監査報告書では下記のように記述されています。

 昭和40年度を初年度として第3次長期計画に着手したが、 運賃の是正が行われずに本計画が発足したため、既に初年度から困難な局面に立たされている現状である。第3次長期計画遂行に要する資金の確保には、 上述の諸方策による自己資金の確保と財政投融資等借入金の増加を図ることはもとより、 本計画の緊急性と国家的必要性にかんがみ、 この際、政府出資、市町村納付金の減免等国の財政的措置が特に要望される。

として、国鉄としては市町村納付金の減免について望んでいます。
しかし、の意付近に対しては地方自治体としても既得権益ということから反対意見も多く、国鉄改革が本格的に議論される時期なって初めて減免が認められるのでした。

この辺は、機会を改めてお話をさせていただこうと思います。

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国鉄は高額納税者だった。第2話

2018-08-22 23:15:56 | 国鉄思いで夜話
前回は、
「なお、国鉄はこの納付金を払いながら、新幹線の建設、ローカル線の建設という離れ業を行っていく、ことになるのですが、この辺は改めて、記述させていただこうと思います」
と書かせていただきました。

さて、今回は納付金の仕組みについてもう少し具体的にお話をしたいと思います。

鉄道の利便性が上がると納付金も増える?
戦後、国鉄では輸送力増強のために車両増備や電化などを行いました。
じつは、国鉄に課せされていた納付金は、国鉄が保有する財産に課税するものでした。
当然のことながら、車両が増えれば車両分の納付金が増えます。
また、車両増備に伴い、電車区などを拡張若しくは新設すれば当然のことながら、その拡張分だけ納付金が増えます。
そして、意外なのは、電化すると納付金が上がるわけです。

その理由は、
1)線路だけですと、線路に関する地代だけしか発生しません。
2)電化しますと、変電所や架線、電柱といった構造物が増えます。この増加した構造物も固定資産として納付金が発生する訳です。


鉄道が開通すると納付金も増える?
当然のことなのですが、線路が開通しますと、新たに土地を取得して線路が引かれるわけですから、その分納付金が増えます。
もちろん、一日何十万人も乗車する鉄道であれば、こうした納付金を支払っても十分ペイできますが、一日数人しか乗らないような赤字ローカル線の場合。仮にほとんど列車を走らせていなくとも、固定経費としての納付金が発生します。
ちょうど、自動車の車検のようなものです。
年の数回程度しか動かさないとしても、2年に1度の車検はやって来ますし。
車検を受けなければ、自動車を動かしてはいけませんが、ローカル線も似たようなもので、経費削減で走らせる本数を極端に絞っても、言っての税金は固定費として発生することになります。
当然のことですが、国鉄時代に多くのローカル線が誕生しましたが、ローカル線が開通するたびに、電化により鉄道自体の利便性が増える度に、「国鉄は負担が増えて、地元自治体は何もしなくても納付金が増える」仕組みだったのです。

結果的に、国鉄は第1次5か年計画で施設の改良などを開始しますが、施設の改良【特に電化等】で地上施設が増えるとその分国鉄の負担も増える仕組みとなっていたのです。

実際、国鉄の納付金は、近代化と車両増備で増え続けることとなりました。
国鉄が赤字を計上した、昭和39年以降は、納付金の減免を政府と交渉しますが、政府と言うよりも地方自治体が反対する結果となり、国鉄としてはローカル線を廃止したいのだが、地元住民が納得しても地方自治体が納得しないと言ったことも実際にあったようです。
その辺は、改めて今後調査してアップしたいと思います。

地方納付金以外にも国鉄は地方にお金を支払っていた?
少し古い資料を調べて見ますと、昭和26年から、「道路負担金」なるものを国鉄が地方自治体に支払っているという事実が見つかりました。

これは、戦前からの、流れをくむものだそうで、国鉄自動車が道路を使用するので道が痛む、だからその分を鉄道省が内務省に対して負担金を支払っていたものであり、戦後内務省が解体され、鉄道省も国有鉄道として分離したことから、その枠組みは変わりましたものの、地方への納付金という形で、国鉄が建設省に支払う形で残されていたものだそうです。

地方納付金の流れも、こうした負担金を国鉄が支払っていたことを根拠にして制定したものと思われますが、昭和36年にさらに、国鉄では、地方納付金とは別に自動車にも税金をかけるとして、従来の道路負担金の減免を求めて、建設省に申し入れたとされています。

国鉄線 昭和36年9月号参照
以下、上記資料の内容を全文を引用します。

道路分担金
道路分担金は、昭和二十六年に結ばれた「道路費の負担に関する建設省、日本国有鉄道協定」によって道路管理者に支出されるものであり、昭和三十五年度の決算額は大略七六六四万円となっている。その根源は、国鉄自動車創業当時、貧弱な日本の道路を利用して営業を行うため改修工事を施し、又開業後も改良費を投じて道路管理者に協力したことによるもので、昭和二十六年の協定改訂が行われるまでは昭和十一年内務省と鉄道省との間に結ばれた負担協定によっていた。分担金は改修、改良、維持修繕及び災害費に大別され、改修費は自動車運粗事業開始に伴う道路改良工事に、残り三者は実施後の道路工事に対して分担する。この協定による分担金制度は、道路の発達を促進する一助としての意味を多分に有していたもので、別業予算の許す範囲内で進んで分担してきたものである。
その意味でこの協定は片務契約であり、分担金としての性格と共に補助金としての性格を兼ねるものである。
 この四月三十日に、地方税法の一部改正が行われ、国鉄等三公社の事業用自勁車に対し自動車悦(府県税)が課せられることとなった。標準税率は、トラックー台年額一万五〇〇〇円、バスは、観光貸切用年額三万円、その他年額一万四〇〇〇円となり、この標準税率を用いて国鉄自動車の三十六年度の自勁車税を概算すると約五〇〇〇万円となる。自動車税賦課に伴う事務手続については、目下検討している。
 国鉄自勁車が自動車税を賦課されると民間と同等の立場となり、更に道路分担金を支出することは経営的に困難となる。只今、建殼省との間で、税に見台いの都道府県分の道路分担金については原則として負担を行わないことで話合いを進め、大方の意見の一致を見ている。



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国鉄は高額納税者だった。第1話

2018-07-29 23:17:28 | 国鉄思いで夜話
国鉄は実は、高額納税者だった。
国鉄と聞けば、鉄道ファンの人であれば、国鉄形車両と答えるかもしれませんが、一般の意見としては、国鉄と聞けば、「赤字」と答える人が大半では無いでしょうか。
しかし、国鉄が実は大変高額納税者であったと言えばどう思われるでしょうか。
実は、国鉄は分割民営化されるまで、地方納付金と言う固定資産税に相当するものを支払っていたのです。
駅舎から、車両など全てに渡って税金が課せられており、各地方自治体の収入となっていました。
始まりは昭和31年4月24日に、「国有資産等所在市町村交付金及び納付金に関する法律」という非常に長ったらしい名称の法律が公布されました。
このような法律ができた背景には、地方自治体への地方交付税の問題がありました。
当時の地方自治体は、多くの権限を国が握っており、地方時自治体はその出先機関的な扱いをされている時代でした。
ただ、国としても地方交付金を増やしたいのですが、なかなか増やせないと言うジレンマから、このような納付金制度を発足させたようです。

国鉄は資産の90%以上に税金がかけられていた。
地方納付金を国鉄等が支払うべき理由? が、交通年鑑、昭和32年版にありましたので、少し長いですが、引用させていただきます。

31年度から3公社の所有する固定資産に対し公社有資産所在市町村納付金が賦課されることになりました。
納付金賦課の理論上の根拠とされるところは、国鉄等の固定資産も所在市町村の消防、道路、衛生その他の施設から利益を受けていることは一般の現に固定資産税を賦課されている他の固定資産と同様であり、応益負担の原則上、国鉄等も本税を負担するのが当然でただ公社の特殊な性格に鑑み納付金の形式によるというにあります。
しかし、会社に対する固定資産税ないし納付金の賦課については、公社の実質上国に等しい性格、国鉄についていえば赤字線区の経営、公共的運賃割引の実施などに見られるごとき公共的性格運賃制度上の制約等の点から多大の疑問があり、またその賦課を肯定するとしても所在市町村別申告に多大の経費人員を要する点等から、英国鉄道の場合に見られるような自治庁に対する一括申告及び一括納付の制度が望まれる。【原文まま】


国鉄も、消防署や警察のお世話になるでしょうから、金を払えという論調なのですが、言わば警察に動いて欲しければ金払え・・・みたいなむちゃくちゃな論調であり、国鉄としても既に通勤・通学定期の運賃割引や、身障者割引、その他の公的負担を行っていることや、同じような現業機関でも郵便局は公社ではなかったために納付金の納付を免ぜられるなど最初から矛盾に満ちたものでした。
その辺は、「公社の実質上国に等しい性格、国鉄についていえば赤字線区の経営、公共的運賃割引の実施などに見られるごとき公共的性格運賃制度上の制約等の点から多大の疑問があり」とその矛盾に対して苦言を呈していますが、この制度は当時の地方交付税の財源が不足していた政府にしてみれば、むちゃくちゃな理屈を付けてでも成立させる必要があったようです。

納付金は、その性格上。
固定資産税の1/2とされていましたが、国鉄の保有する財産の90%以上に課税されるわけですからその額は相当なものでした。
なお、国鉄では、地方納付金の他に固定資産税等も払っていました。
税別の分類は下記のようになっていました。


  1. 宿舎(第1種・第2種の宿舎を除く)・福利厚生施設・貸付施設・遊休施設・旅客誘致施設・発電所及び専用側線の用に供する固定資産・・・固定資産税・都市計画税

  2. 自動車(営業用・非営業用とも)及び軽自動車・・・自動車税又は軽自動車税

  3. それ以外の、直接本来の事業の用に供する線路・駅区などの用地及び建物・軌道・隊道・橋りょう・駅のホーム・車両・船舶及び機械など・・・市町村納付金


が賦課されることとなり、非課税となるのは
病院及び診療所・鉄道学園(第2種を除く)皇室用車両及び踏切設備が非課税
となっています。

宿舎(第1種)とは、駅長宿舎など、駅の近くに設置される宿舎、(第2種)とは、鉄道建設などで工事現場等に設けられる宿舎を指す
鉄道学園(第2種)とは、旧鉄道養成所と呼ばれるところで、規模の小さいものと思われます。


「国有資産等所在市町村交付金及び納付金に関する法律」条文
参照 http://jnrera3.webcrow.jp/potal_shiryou/Law/Law_other/s31/s31_82.html 国鉄があった時代

なお、国鉄はこの納付金を払いながら、新幹線の建設、ローカル線の建設という離れ業を行っていくことになるのですが、この辺は改めて、記述させていただこうと思います。

すみません、概要としてさらっとまとめようと思ったのですが、書き始めるとよりきちんとしたものにしたくて何回かに分けてアップさせていただこうと思います。
じっくりと、私も調べてアップすることが出来ますので、どうかご協力の程よろしくお願いいたします。


続く



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民間からの提言、「国鉄は日本輸送公社に脱皮せよ」(S43.7.17)

2018-07-16 23:52:50 | 国鉄思いで夜話
本日は、昭和43年に、産業計画会議が提言した 「国鉄は日本輸送公社に脱皮せよ」 を取り上げてみたいと思います。
産業計画会議と言われてもピンと来ない方も多いと思いますが、戦後の9電力会社への事業再編による分割民営化(九電力体制)を実現するなど、電力王と呼ばれた、松永安左エ門氏が設立した、民間初のシンクタンク・電力中央研究所の中に作った、私的なシンクタンクでした、その内容は多岐にわたり。
第1次勧告「日本経済立て直しのための勧告」(s31.9.14)から始まり、第16次勧告「国鉄は日本輸送公社に脱皮せよ」(s43.7.17) で終わっています。
松永安左エ門氏が引退後は、シンクタンクを引き継ぐものはなく、解散となっていますが。
国鉄に関する勧告は、昭和34年にも一度行われていますので、この提言は2回目となります。
特にここでは、現状の赤字を垂れ流す状況の原因は、貨物輸送【特に短距離輸送】とローカル線輸送にその原因があるので、この二つは国鉄から分離して、トラックなり、バスに任せるべきであると明言しています。
特に、この頃は赤字83線として国鉄部内でも若手課員を中心とした研究チームが立ち上げられ、輸送量の極端に少ない路線を中心に廃止のための手続きなどが進められていくのでした。
ただ、このときに注意しなくてはいけないのは、こうした提言は最もなのですが、廃止を進めようとする反面で、赤字必至のローカル線が鉄建公団の手で勝手に進められてしまうという矛盾が生じていました。
鉄建公団が、何故(なにゆえ)作られたのかという点を最初にお伝えしておく必要があるかと思います。国有鉄道路線は、明治期に公布された鉄道敷設法が根拠法であり、鉄道建設審議会【国鉄本社内に設置】が決定していったのですが、国鉄の財政事情もありその建設を十河総裁は渋っておりました。
新線建設が進まないことに業を煮やした田中角栄が、大蔵大臣就任後、鉄道建設公団を国鉄が出資する形で設立させたのが始まりです。
それ以降は国鉄の意向に関係なく、予算付けが行われ、鉄道建設が行われることになったのは、皆さんもよく御存じだと思います。
国鉄としても、廃止しながら新しい路線が開通するという矛盾もありました。
時の総裁は磯崎氏でしたが、マル生運動での対応も含めて、頭は切れるのでしょうが胆力がない人だったんだろうなぁという印象を受けます。
逆に、その辺で腹が据わっていたのは、十河氏で、昭和30年代の労働争議も、田中角栄氏からの新線建設圧力も跳ね返す、そんな強さを持っていたように感じられます。
歴史にIFはないとしても、磯崎氏に腹芸と言いますか、政治家を手玉に取るくらいの胆力があったら、ローカル線の建設をされるがままにされたり、マル生運動を始めておきながら最終的には現場管理者のはしごを外すようなことはなかったと思うのですが。
この辺のお話は、今回のお話とは関係がないので話を戻したいと思います。

画像は、本文とは直接関係ありません。

この、提言では。
国鉄がその力を発揮できるところに注力するべきであると明言しており、モータリゼーションの発達などで、ローカル線輸送は鉄道で輸送するよりもバスの方がコストが下がるであろうとしています。
さらに、近距離の貨物輸送も鉄道ではなくトラックに任せる方が良いのではないかと明言しています。
以上のような各種輸送機関の特性から見て、国鉄が担当すべき輸送分野は前記中の
 (1)幹線旅客輸送
 (3)通勤通学輸送
 (4)中・長距離大量の貨物輸送
の三つであることは明らかで、
 (2)ローカル旅客輸送
 (5)近距離貨物輸送
の二つにおいては、バス、トラックに任せる方が適当であると考えられる。そして、国鉄としては、前記した三つの担当分野の中において、私鉄、長距離トラック、航空機等との負荷分担を考慮しつつ、自己に課せられた任務を遂行して行くようにしなければならない。

以下に、当時の資料を添付させていただきます。
さらに、過剰な国鉄負担についても触れられています。
再び引用させていただきます。
(3)国鉄は公共性を重んじなければならないことは、日本国有鉄道法の第一条に規定されているところであるが、この「公共性」の定義かはっきりしていないために、種々雑多にして性格曖昧な「公共負担」を背負い込み、その結果膨大な赤字を生じている。前記1の赤字線区もその一つであるが、その外にも、独立採算制の下において経済理論的根拠不明な各種の割引制度がある、通勤通学定期券、学生割引、貨物等級、暫定割引等がそれである。
 以上のような不合理も、大正時代のように、国鉄だけが唯一の近代的輸送機関であったときには、そのときの情勢から、必ずしも不合理でなかったのかも知れない。しかし、国鉄以外にバス、トラックないしは航空機という強力な競争相手が出現した今日、国鉄のみか|口態依然たる「乗せてやる」「運んでやる」という態度に終始し、公共負担というハンディキャップを負っているのでは、赤字になるのも当然といわねばならぬ。しかも、国鉄の当事者の大部分が、その旧態たる所以を覚らず、相も変らぬ鉄道万能時代のつもりで、サービスを忘れ、ハンディキャップをハンディキャップと考えないのでは、何ともすくいようはないのである。

以上のように、国鉄は時代が変わったのであるから、国鉄の力を有効に発揮できない部分には手を出すべきでは無いと明言すると共に、国鉄自身も何時までも、「乗せてやる」「運んでやる」という態度ではダメだと明言しています。
そして、政府に対しては、下記のように勧告しています。
再び引用させていただきます。

政府に対する勧告

 政府は、国としての最適輸送体系の下に、各種輸送機関の担当すべき役割を明らかにし、それら各機関の自由公正なる競争によって、国民生活ならびに経済活動に一層の便益を提供せしむるように努力すること。
 この目的を達成するため、国鉄に対して次の具体的措置をなすこと。
(1)鉄道敷設法ならびに日本鉄道建設公団法を廃止すること。
 (2)国鉄を改組して「日本輸送公社」とし、現在の国鉄の組織と技術力を十分に発揮せしめると共に、幹線鉄道に並行し、また幹線鉄道を短絡する線区に限り鉄道以外の他の輸送手段との綜合運営を可能ならしめること。
 (3)前記「日本輸送公社」に対する監督は、大綱を指示するにとどめ、経営については十分な自主性を認めること。
 (4)いわゆる公共負担の内容を検討し、筋の通らぬものはこれを廃止すること。なお、どうしても残す必要のあるものは、これを国家財政で負担し、「日本輪送公社」には負担せしめないこと。

と書かれていますが、残念ながら未だに総合交通体系と呼べるものが誕生していないのはどうしたわけでしょうか。
さらに、国鉄に対しても下記のような勧告を行っています。
再び引用したいと思います。
国鉄に対する勧告

 国鉄は、前記の「日本輸送公社」として再出発するに当り、国の輸送体系の中にあって、自己の担当すべき輸送目標を
a.幹線旅客輸送
b.通勤通学輸送
c.中・長距離貨物輸送
の三つに集中し、ただ鉄道のみにとらわれることなく。バス、トラック、エアーパス、カーフエりー、パイプライン等のすべてを綜合的に自営または共同運営して、独立採算創の上に立って徹底的な輸送の合理化とサービスの改善を行なうこと。具体的措置としては、
Ⅰ 幹線輸送を積極的に押し進め、そのサービスを改善する見地から、

 (1)幹線は少なくとも複線化し、輸送能力を拡充すること。
 (2)幹線輸送に必要な中距離都市間の航空機、貨車・コンテナーのための力一フエりー、石油・ガスのパイプライン等の自営または共同運営をすること。
 (3)ローカルの不採算線を勇断をもって廃止し、バス、トラックに譲ること。(廃止目標は50%、10、000km)
 (4)中間の小駅を廃止し、重要駅の施設を充実すること。(幹線存続駅全国で200駅内外)
 (5)公社の所有する広大な土地、建物、その他の設備を。流通機構全般の能率化の立場から、常に最高度に利用し、更に経営の合理化をはかるため線路敷、駅施設等の地上、地下を道路、パイプライン、送電線等の敷地、パス、トラックターミナル、ヘリポート、パーキング場等に利用すること。

Ⅱ 通勤通学輪送、とくに大都市周辺のそれに対しては、
 (1)幹線輸送と通勤通学輸送を区別し、相互に独立して運営すること。
 (2)民営の通勤通学輸送機関との連繋運営を強化すること。
Ⅲ 経営全般に対しては、
 以上の改革を行なうには、かなりの配置転換と人員整理を行なわねばならない。もし全職員の協力か得られなければ、このことは殆んど不可能である。この打開のため国鉄首脳部はまず管理部門の大巾な縮小を行ない、民間企業並みの経営努力につとめるべきである

このように見ていくと、実現は簡単にはいかないまでも傾聴すべき部分は幾つかあるような気がします。
特に、 (1)鉄道敷設法ならびに日本鉄道建設公団法を廃止すること。であったり、
「日本輸送公社」に対する監督は、大綱を指示するにとどめ、経営については十分な自主性を認めること。

としています。

参考 産業計画会議レコメンデーション(勧告)一覧

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ブログアーカイブス始めました。

2018-07-05 20:21:28 | その他雑談
blogのアーカイブスのインデックスを現在作成中です。

blogアーカイブスと言う名称で、一覧を作成中です。
労働運動史や、国鉄思い出夜話なども、今後アップしていく予定です。
自分自身が、以前投稿した記事が埋もれてしまっていますので、そうした記事の修正と追記を含めて定期的にメンテしていこうと思っております。

gooblog以外にも、書かせて貰っている記事が多々ありますので、どうかご覧いただければ幸いです。



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昭和30年代のマナー向上運動

2018-06-26 11:20:25 | 国鉄思いで夜話
本日は、昭和30年代の国鉄部内誌の記事からです。
東京鉄道管理局【当時は3つに分割されていなかった】が実施した、エチケット向上運動(【現在流で言えばマナーアップキャンペーンと言ったところでしょうか)に関するお話です。
現在も継続してこうした取組は行われており、最近であれば、「優先座席等を必要とする方に座席を譲りましょう」、と言った類いや、「ながらスマホによるホーム転落防止」といった内容が多いように見受けられますが、当時のエチケット向上運動とは、どのようなものであったのか、見ていきたいと思います。

2017年に国交省の統一キャンペーンの報道資料から抜粋

昭和20年に終戦そして、戦後の混乱期を経て、経済白書「日本経済の成長と近代化」の結びで「もはや戦後ではない」と記述したのが昭和31年であり、戦前並みの経済まで復興した日本(にっぽん)では、高度経済成長のまっただ中にありました。
神武(じんむ)景気、岩戸(いわと)景気と途中に鍋底不況という一時期を除けば経済活動は活発化し、冷蔵庫・洗濯機・白黒テレビが「三種の神器」と呼ばれた全体に活気がある時代でしたが、その頃の鉄道マナーと呼べる者はお世辞にも良くはなかったようです。

昭和34年9月号の国鉄線という部内雑誌を参照しますと、東京鉄道管理局の施策として、旅のエチケット・モデル列車、電車を指定したという記事が出ていました。
少し引用してみたいと思います。
東鉄では、さきに旅客サ一ピス向上運動期間中、一部国電区聞にエチケット模範電車を指定し、泥酔客の追放に重点をおいて実施したところ、相当の成果を収めましたので、このたびの「旅のエチケット向上運動」を機会にモデル列車、電車をきめ、去る7月20日から車内でのエチケット向上運動を繰り広げている
ということで、わざわざ「旅のエチケット・モデル列車、電車」と言うことで列車を指定して行ったそうです。
下図参照

東海道線に限らず東北本線、中央線等や、山手線、京浜東北線、赤羽線なども含まれており、エチケットモデル列車では特に、乗客に対して下記の行為をしないように呼びかけたそうです。

1)座席の先取りはやめる。
2)携帯ラジオはイヤホンで聴く
3)整列乗車を励行する。
4)弁当の食べがらや紙屑(かみくず)は屑(くず)かごに入れるか、座席の下に入れる。
5)デッキには危険だから立たないこと。

また特急に対しては、以上のほか、ステテコ姿をやめる、ホームや食堂車は、寝巻き姿で歩かないことなど多少高度のエチケットを要求している

ということで、今から考えますと、本当にそんなことがあったのでしょうか? と思わせる内容です。
しかし、実際に当時の世相を概観してみますと、経済的には豊かになっても戦後の混乱期を経て、道徳心が著しく停滞していた部分も多くあったことも事実でした。
今以上に自己中心的な人が多かったと言えるかもしれません。
なお、5)に関しては、今では走行中にドアが開くなんて事はありませんが、当時の客車列車は20系客車を除けば全て手動ドアでしたから、走行中でもドアを開けることができましたし、夏場などは。ドアを開けて涼む人も多く、走行中にデッキから転落するなんて事例も少なからずありました。

まぁ、少し今では考えられない話ではありますが、当時は今以上にマナーと呼べる者に関する意識が低かったことの記録として知っていただければ幸いです。
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時刻表のお話 B6判からB5判へ

2018-05-27 12:39:27 | 国鉄思いで夜話
本日は、時刻表のお話をさせていただこうと思います。
最近は、時刻表を使わずとも、スマホアプリで時刻検索できるよと言う人も多いかと思いますが、時刻表は今でも隠れたベストセラーらしいですね。
最も、私の場合は国有鉄道研究という名目で古い時刻表は収集していますが、新しいのは殆ど買っていません。
というか、時刻表をくってあれこれ旅程を考えるというのが出来ないものですから、購入する必要を感じないわけで・・・。
ただ、本屋さんで昭和61年とか昭和62年の時刻表が復刻版ででていたときは正直びっくりしました。
更に驚いたのは、復刻版同じ内容のはずですのに、成長してふくよかになっています。
これには正直言って、笑ってしまいます。
30年の月日は時刻表も厚くするのかと・・・多分に保存を意識して紙の質を上げているからでしょうが、オリジナルを持っている私からしたらいささか違和感でした。
さて、そんな余談はさておき、今回はJTB【交通公社】発行の時刻表が、現在のB5判のサイズになった時期がいつ頃だったのかというお話です。

創刊500号を機に、B5判に変更された交通公社の時刻表

交通公社の時刻表が、現在のB5判の大きさになったのは、今から51年前の昭和42年(1967)10月の時刻表からなのです。
10月号が創刊500号の節目だったそうで、この号から従来のB6版からB5判に変更になっています。持ち運びやすさというか鞄のポケットに入れておくと言う点ではB6判の方が小回りが利くのでしょうが、一ページ当たり、記載できる駅数が単純に倍になったことで、駅数と記載できる列車名が増えて、長距離列車などの場合その区分が簡素になった他、接続列車などの情報等も入れやすくなり、見やすさが増したと書かれています。
下記が、昭和41年の旧来のB6判時刻表、京都~となっていますが、実は東海道本線からの列車は、ここではアップしていませんが神戸まで表示させています。

ちなみに、昭和42年のB5版からは、米原から岩国まで一つに収まる現在の形になりました。
当時の時刻表を比べてみますと、新版の昭和42年10月号の時刻表は、B6判の時刻表のちょうど半分程度の厚みになっています。


それまでの、B6判は持ち運びやすさでは定評があったようです。

また、それまでは臨時列車などは別に分けていたのを本文の時刻表の中で埋め込むことで。列車を見つけやすくなったと書かれています。
今では常識になっているようなところですが、 こうして調べて見ると時刻一つにしても色々な話がありそうです。

昭和42年10月時刻表で500号の関する記事が掲載されていました。
余談ですが、国鉄が使用している時刻表には背表紙が、日本国有鉄道と書かれ、後方にあった旅館等の広告が省略されたものが使用され、時刻表の増刷という形で印刷費等実費を国鉄が支払うこととしていたそうです。

参考 昭和42年 国鉄部内誌、国鉄線の記事から



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取材・記事の執筆等はお気軽にお問い合わせください。
日本国有鉄道研究家 加藤好啓

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東海道新幹線開業までの歩み

2018-05-18 09:34:43 | 国鉄思いで夜話
本日は、新幹線開業までの歩みと言うことで、古い鉄道ピクトリアルの資料を参考にしながらお話をさせていただこうと思います。
東海道新幹線【当時の名称では新幹線】は東海道本線の線増として計画されたわけですが、古くは昭和13年の弾丸列車計画まで遡ることが出来ます。
そこで、当時の年表などを参照してみますと、

昭和13年12月2日に、鉄道省企画委員会規程第6条により、鉄道省企画委員会に鉄道幹線調査分会を設置したと記録があります。
この、幹線調査分会とは、「鉄道主要幹線の輸送力拡充並に内地・大陸間の交通系路に関する調査研究を行なう」ということで、当時は内地であった韓国との連絡についての交通機関の計画等が主な目的でした。
翌年、昭和14年7月6日には、鉄道幹線調査委員会が設置され、「幹線拡充問題及びこれに関連する事項を総合的に調査する機関が誕生したそうです。
昭和15年3月25日には、帝国議会で、東京~下関間幹線増設工事予算成立(第75回帝国議議会)し、翌年昭和16年8月5日には、新丹那ずい道が着工されることになり、11月18日には、東京~下関間、新幹線建設基準が制定されることとなりました。
しかし、12月8日に始まった大東亜戦争(第2次世界大戦)により、弾丸列車計画も、昭和18年4月以降は戦局の悪化により中止とせざるを得なくなりました。

ここまでが戦前の話、その後、弾丸列車計画自体は、そのまま凍結されていました。
このblogを呼んでいただいている方の中には、昭和32年5月30日に、国鉄鉄道技術研究所が開催した創立50周年記念講演会、「超特急列車、東京~大阪間3時間への可能性」と言う講演が、新幹線建設の機運になったと思われる方もおられるかもしれませんが、その前年昭和31年4月11日に第11回常務理事会開催され、東海道線の将来の輸送量や、輸送力増強方式等について早急に検討する必要があることが確認され、5月10日には、本社に島秀雄技師長を委員長とする東海道線増強調査会が設置され、将来の輸送力増強について検討されることとなりました。
もっとも、この時期には新幹線の計画は無く、腹付け線増方式か、新規に狭軌で路線を引くと言ったことが主に研究されていたようです。
ですので、本社としても、国鉄鉄道技術研究所の発表を冷ややかな目で見ていたメンバーも多かったと言われています。
最終的には、十河信二総裁が、新幹線による可能性を見抜いて、島技師長に働きかけて実現することになるのですが、その前段としての委員会は既に前年の4月に誕生していました。
昭和32年7月29日には、本社に幹線調査室が設置され、東海道線建設に向け用地の確保並びに保全の調査などが開始されたそうです。
同年8月30日には、政府部内にも運輸省内に日本国有鉄道幹線調査会が設置されることになりました。
このとき検討されたのは、腹付け線増による全線複々線化、別線路による線増などが検討されたようです。
昭和33年2月25日には、閣議決定で、内閣に交通関係閣僚協議会が設置され、大蔵、農林、通産、運輪、建設の各大臣。北海道開発庁、経済企画庁、内閣官房の各長官がメンバーとして参加しています。
であり、国鉄が運輸省の外局として機能していたことが窺えます。
昭和33年7月9日には、日本国有鉄道幹線調査会は、最終答申を閣議へ報告、交通関係閣僚協議会に諮られることとなり、同年12月19日承認を得ることになります。
なお、これに先立ち8月21日には、本社幹線調査事務所は航空写真測量を開始しています。
正式に建設が決定したことから、昭和34年4月18日には、幹線調査室を廃止して、幹線局を設置、幹線調査事務所を廃止して。東京幹線工事局を設置、大阪、名古屋に出張所を設置しています。
昭和34年4月20日には、いよいよ東海道新幹線の起工式が、新丹那隧道東口で行われ、かって弾丸列車構想で最初に着手した区間から工事が再び始められることになりました。
なお、新幹線の建設に対して、実際の建設費では承認が通らないと事前にわかっていたので、十河総裁が予定額の半分程度の予算に抑えて承認させた話は聞かれた方も多いと思います。
結果的に、このことが後年国会で追及されて新幹線開業前に十河氏は退任を余儀なくされます。
昭和34年10月16日には、世界銀行極東部長、ローゼン氏が来日、大蔵大臣から一億ドルの鉄道借款を正式に申し入れ【360億円】がなされています。
ちなみに、このときの内閣は岸信介氏、大蔵大臣は、弟の佐藤栄作氏です。
更に調査団は、昭和35年5月5日に来日、約一ヶ月間にわたり新幹線に関する経済上・技術上の問題点などを調査しています。
最終的に世界銀行からの融資に成功し、昭和36年5月2日には世界銀行から8,000万ドルの調達に成功、調印式が行われることになりました。
据え置き3年半を含めて20年間、年利は5.75%となっていました。

世界銀行からの借款が成功したことで建設のに関する方向は更に早まり、昭和36年8月4日には新幹線建設基準の主要事項が決定され、9月27日には、試作車両の計画も決定しています。
10月18日には、東京~大阪間、全区間のルートも決定しています。

鴨宮試験線の様子、昭和38年1月号 鉄道ファン19号から引用
昭和37年4月20日には、鴨宮付近の路線をモデル線区として早期に完成させると共にモデル線管理局を設置しています。
2ヶ月後の6月20日には試作電車1,000形6両の組み立て整備が完了、2+4の編成でそれぞれA編成・B編成と呼ばれました。
A編成は新幹線開業後は救援車としてB編成は電気試験車【現在のドクターイエローの原型】に改造されましたが、昭和50年8月に浜松工場で解体処理されています。
少し話が、脱線しましたので元に戻したいと思います。

昭和38年3月30日には256km/hの最高速度を記録、4月11日にはエカフェ主催の新幹線スタディウィークとして、アジア各国に新幹線を大いに宣伝したとされています。
更に、4月24日には、阪急京都線下り線が(山崎付近)新幹線路盤へ切換、運転されることになりました。
これは、新幹線に併走する阪急線を併せて高架化することとなり仮線代わりに新幹線の線路を借用するようにしたもので、
阪急にして見れば仮線を用意する必要がなく、新幹線にしても軌道を踏み固めて盛られるメリットがありました。
昭和38年8月には、用地買収費及び補償費の増、賃金の値上り、設計協議、地質不良その他による設計変更並びにモデル線区における試験の結果の計画変更等で、さらに874億 円の費用が増加するとして、総予算を3,800億円にすることを理事会で決定 即日総裁より運輸大臣に説明と相成りました。
この責任を負う形?で、新幹線総局は廃止され、新幹線局に格下げされることになりました。
昭和39年4月28日には、東海道新幹線の。鳥飼~米原間でも試運転が始まり、3ヶ月後の7月11日に全線515kmが開通、7月25日から東京~大阪間で全線試運転が始まり、車掌の養成も始まりました。
新幹線の組織は在来線とは別ものとされ、在来線では専務車掌A【その後車掌長に変更】の上位職として車掌長が開業当初から役職として設けられたほか、制服も独自のデザインとされ、在来線とは一線を画する扱いがなされました。
なお、新幹線総局が管理する現業員は、運転士と車掌、浜松工場の職員のみであり、新幹線駅に関する駅員は在来線各駅の管轄とされていたそうです。
昭和39年8月18日は、運賃・料金及びダイヤの構想が決定され、超特急料金・特急料金等が決定されました。運賃については在来線の線増ということで在来線と同じになっています。

以上駆け足で、東海道新幹線開業までの道のりを見てきましたが、改めてこの辺の資料もきちんと整理してアップしたいと思います。

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幻の和歌山駅改良計画 第3話

2018-04-27 13:26:19 | 国鉄思いで夜話
今回も和歌山市の改良計画についてお話をさせていただこうと思います。
昭和37年には、東和歌山駅を改良して、和歌山市の中心部駅とすることを目指して改良が進められることで合意が図られましたが、昭和40年に再び改良計画が提示され、和歌山駅の東側に設置する予定であった貨物ヤードは、東和歌山駅から南に1.5km程下った場所に設置されることが決定され、実施に移されることになりました。
それ以外の計画は変更はなく、和歌山駅【紀和駅】の貨物扱い廃止、客貨車区の移動などは昭和37年の計画通り進められることになりました。
何故、和歌山駅裏ではなく、現在のビックホエールのある地域に変更になったのかという経緯は、国鉄側に資料では見えてこないのですが、おそらく意都市計画道路の絡みがあったと推測されます。
現在も和歌山駅東口に中途半端になっていますが、有本小雑賀線という都市計画道路と言う記述がありますが、おそらく、平成24年に一部廃止が決定した、「有本田尻線」ですが、この計画の用地買収などが進まなかったことが原因ではないかと推測しています。

都市計画で変更となった、有本田尻線→有本中島線に変更
不自然に和歌山駅東口側が、昭和55年頃まで空き地で残されていたのは、こうした国鉄の用地買収がなされたのではないかと考えてしまいます。この辺はご存じの方おられましたらご教示ください。
なお、当初の計画では、和歌山操駅に隣接して客車区が設置される予定だったようですが、実際には客貨車支区として誕生したものの客車の配置はありませんでした。

さて、国鉄の交通技術、昭和40年4月号を参照しますと、紀伊中ノ島を経由して紀和駅に至る路線を廃止することで東和歌山に集約することとしています。
実際の新在家から、紀伊中ノ島を経由して紀和までの間の路線廃止は諸般の事情で昭和49年10月1日となっています。
昭和40年の修正計画案では、下記のようになっていました。

1)現行の設備では貨物線と阪和線・紀勢本線が平面交差することとなり保安上も問題
がある。
2)阪和線ホーム・紀勢線ホームを見直して、7線、貨物列車通過線1線の8線とする。
3)阪和線ホームは10m×140m【将来は180m】
  紀勢本線・和歌山線ホームは、8m×260m
4)地下道(幅員5m×2本)
5)駅本屋を改築すると共に駅本屋前を和歌山市都市計画事業の一環として整備する。【整備前駅前広場1800㎡→8200㎡】
6)駅本屋が支障するので、駅本屋を建て直すこととし、民衆駅として株式会社東和歌山ステーションビルディング(【その後和歌山ステーションビルディング】に名称変更、現在はJR西日本関連子会社の株式会社和歌山ステーションビルディング)により民衆駅として建設する。


完成当時の和歌山駅 


和歌山駅改良計画

和歌山操車場駅設置計画
なお、和歌山駅の改良計画がほぼ予定通り進んでいった背景には、和歌山市の名誉市民でもある高垣喜一市長の功績がことのほか大きく、現・和歌山駅前の区画整理などを率先して行ってきたことが大きいと言えます。

本人は、その後知事選挙への意欲を持っていたそうですが、68歳の若さで脳溢血で死去されましたが、高垣市長により和歌山市の戦後復興は大きく進んだと言われています。

参考 和歌山市名誉市民


続く
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幻の和歌山駅改良計画 第2話

2018-04-24 00:09:33 | 国鉄思いで夜話

思わず多くの方から反響をいただき、びっくりしております。 簡単にまとめるつもりだったのですが、多くの方から知らなかったと言う声も多かったので、私も手元の資料しかありませんが、判る範囲で記述をさせていただこうと思います。 ご存じの通り、ここで計画されていた、和歌山駅東側の貨物駅の開発は行われず、和歌山駅から1.5kmほど南の和歌山県道135号和歌山海南線【通称国対道路】の手平出島付近に建設されました、実は計画は昭和40年度に見直されていますので、次回のお話で昭和40年の計画をお話しさせていただこうと思います。 なお、このような計画がなされたのかと言うことを考えると、和歌山市の急激な人口増があったと言われています。実際に、戦後の人口を見ていますと下図のように、

昭和20年には160,000人ほどだった人口が昭和25年には20万人弱、昭和35年には30万人弱まで人口が増えて昭和55年には40万人となっていました。 当時の和歌山市の都市計画事業資料が手元の無いのですが、交通技術によりますと、和歌山市の都市計画では、東和歌山【現・和歌山】を中心に開発を進めたいという意向を持っていたようで、昭和22年の美園地区を中心とした付近をみると、
昭和36年には更地が増えていることが確認できます。
昭和36年航空写真

昭和22年航空写真

なお、この計画では和歌山地区にあった電車区も鳳に統合すると共に、貨物ヤードも売却する予定にしていたと言われています。 実際に当時の乗降客数を国鉄の資料で更に参照してみますと、 和歌山市と東和歌山で乗降客を二分していることが判ります、更に紀勢本線の開通などで更に今後は、東和歌山が発展することが予測できることから、何らかの抜本的対策が必要になったことは十分窺えます。 また、国鉄としては、和歌山線も全て東和歌山に乗り入れさせることで、和歌山線の利用者を全て東和歌山で受けることを考えていたようです。 その辺は、交通技術の昭和37年9月号で下記のように書かれていました。 少し引用してみたいと思います。



旅客輸送の大部分は、東和歌山駅及び南海電鉄と国鉄共用の和歌山市駅の両駅で受け持っており、和歌山駅は路面電車及びパスの便が悪く、利用者は少ない。従って国鉄としては、東和歌山駅中心に和歌山線列車の輸送経路を整備し輸送の合理化を計らねばならない。

ということで、この措置により和歌山駅を拡張し、現在ホテルグランヴィア和歌山並びに裏の駐車場付近が貨物の発着場となっており、その後方、現在JR和歌山支社が入っているあたりに鳳電車支区がありました。 計画によりますと、次のように交通技術には書かれていました。 再び引用させていただきますと。


これらの改良計画に必要な買収用地面積は、約37,000㎡であるが、不安となる土地は約16,000㎡あれ不要地は表駅側にあるため、買収用地とほぼ等価である。

ということで、東側の土地は面積は大きくなるが、売却する予定の西側の土地の方は町の中心部であるため土地価格的には相殺されるとしています。 さて、ここで当時の計画、東和歌山駅に関する部分について,少し長いですが全文引用させていただきます。


改良計画の概要

1) 東和歌山駅改良東和歌山駅は地区改良の中心駅であり、当駅の諸設備は大幅に改良せられる。先ず当面問題となっている貨物集約に対応する新貨物設備(年間取級屯数50万トン)を貨車ヤードと都市計画道路との間に新設し、現在設備は撤去する。 和歌山線列車輸送経路の変更に伴い、旅客ホームを1本増設するとともに、現在ホームの改築を行い 、旅客列車着発線を6本(現在4本〉とする。
また阪和線電車着発は現在位置とし、電車支区は本区(鳳電車区)へ統合する。貨車ヤードは、相接して貨物設備が設けられるので、将来690車/日の取扱ができるように、構内の配線変更と側線の増設を行なう。 一方駅本屋は旅客ホームの増設のため、訳本屋側へ移動させなければならず、都市計画関連の駅前広場造成とマッチした民衆駅として生れ変る予定で、民衆駅には駅設備のほか鉄道公安室及び駐在運輸長を収容する予定である。

ここで、「貨車ヤードと都市計画道路との間に新設し」という文言が気になったのですが、この都市計画道路とはどれを指すのか、ちょっと気になります。


また、この計画では阪和線ホームが引き続き,ちょうど今近鉄百貨店が立っているあたりに乗り口がありました。



下記の写真をご覧ください。 天王寺鉄道管理局30年史の写真から抜粋したものです。



民衆駅は完成し、和歌山駅【紀和駅】の規模縮小化は行われ、紀和~紀伊中ノ島を経て和歌山機関区まで進む線路も廃止されましたが、売却は進められず、紀和駅用地は紀勢本線電化の際は資材置き場になり、その後和歌山市に売却されて市営住宅が現在は建っています。


紀伊中ノ島付近も長らく遊休地となっていましたが、その後国鉄官舎【社宅】が建設されて現在に至っています。


ただ、ここで書かれた計画案はこの計画時点では、計画が流動的であったようで、下記のように書かれています、再び引用させていただきますと。


和歌山地区改良の目的は、上述のように輸送力の増強と経営合理化及び都市計画関連がからみ合ったものであるが、地元との話合いもつき、貨物設備の位置が決定すれば、当地区の改良も大きく進展するものと思われる。

なお、この計画費用は,約15億円、土地売却収入が9億円としています。【価格はいずれも昭和37年当時の金額】



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