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謎の大王 継体天皇

2008-04-15 08:50:16 | BOOKS
水谷千秋 「謎の大王 継体天皇」 文春新書 2001.09.20. 

継体天皇は、『古事記』には近江の出身、『日本書紀』には近江で生まれ越前で育ったと記され、地方出身の天皇は他にない。出身地以上に奇妙なのはその出自で、『古事記』には「応神天皇5世孫」、『日本書紀』には母方が垂仁天皇から数えて8代目と、かなり疎遠な傍系王族である。 戦後新しく提唱された学説に、水野祐氏の3王朝交替説がある。これは、4世紀代の古王朝、5世紀代の中王朝、6世紀以降現代に至る新王朝と、古代日本には血統の異なる3つの王朝が交替したとする。まず古王朝は4世紀初めから4世紀末ころ(崇神、垂仁、景行、成務、仲哀の5代)。つぎに、5世紀代に栄えた中王朝(応神、仁徳、履中、反正、允恭、安康、雄略、清寧、顕宗、仁賢、武烈の11代)である。 『記・紀』の伝承においても、仲哀天皇と応神天皇の間には断絶が見いだせる。 水野祐氏は、第25代武烈と第26代継体天皇の間にも血統の断絶があるととらえ、継体は越前か近江の豪族で、王位を奪い取ったのであるとし、この王朝こそが現今の天皇家に直接連なる王統である、と考えた。 「上宮記一云」には、『記・紀』には見られない継体天皇の詳しい出自が記されている。継体の系譜を父系と母系とに分けて記述したもので、ふたつの系譜は最後に汗斯王と布利比弥命の婚姻によって合一する。継体の出自系譜を明らかにする必要から、のちにひとつにまとめあげたのであろう。 『古事記』は7人、『日本書紀』は9人と、これほど多くの后妃をもった天皇も珍しい。かれの正妻が当初は三尾君出身の若比売であったのが、のちに尾張連出身の目子媛になり、即位にあたって更に手白髪皇女に交代した。徐々に有力な出身の女性を娶るこのプロセスがそのまま継体の台頭のようすを反映し、継体の婚姻関係は、出身地の近江から尾張、畿内各地にわたる広範囲なものであった。 6世紀初め、王族内の同族意識も低く母方の氏族に依存する度合いが高かった。このような非自立的な体質が災いして、仁徳系王統は度重なる王位継承争いの末に先細りし、ついに王位継承資格者である皇子が途絶してしまった。代わって現われた傍系王族の継体は、王位継承資格を事実上失い近江に土着していたが、ここでつちかった経済力などが皇子の途絶という危機的状況において評価を高め、大伴氏、物部氏、和珥氏といった有力豪族に擁立されることになったのだろう。 『書紀』は、元年に樟葉で即位し、5年に筒城、12年に弟国、20年秋9月に磐余玉穂宮に入ったとある。大和入りに20年かかったのだ。 継体の即位は、その後長く王位継承が混乱するたびごとに思い返されてきた。とりわけ、正当性に問題のある天皇が即位するときに、臣下によって天皇が推戴された先例として継体の即位はとらえられている。 これはのちには、臣下による天皇擁立を無原則に容認する方向に向かっていく。


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