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日本の阿片王

2008-04-10 07:03:13 | BOOKS
倉橋正直 「日本の阿片王 二反長音蔵とその時代」 共栄書房 2002.08.10. 

第一次世界大戦やロシア革命の影響を受け、農村で小作争議が頻発する。このような風潮に対して、二反長音蔵は危機感を抱き、1919年、帝国一日一善会という組織を作り、1923年4月には機関誌『一日一善』を発刊する。本部は、音蔵の家からほど近い大阪府三島郡福井村(茨木市福井)にある麒麟山真龍寺に置かれた。 奢侈と自由主義の風潮に敵意を抱き、日本精神に依って社会教化を計るというもので、会の同人に福井村の村長経験者2人と、真龍寺の新旧の住職2人が加わっているが、音蔵一人が切り盛りする組織であった。 機関誌『一日一善』は、地方で発行された小冊子にもかかわらず、毎号、政府高官、華族、高級軍人などが揮毫した題字を掲載し、文章も寄せられていた。ケシ栽培を普及する過程で得たツテであろう。 講読会員は3,000人程だが、大阪府在住者の比率は22.9%にとどまり、全国的な広がりを持ち、外地在住の者もいた。音蔵がケシ栽培の指導のために、全国はおろか外地まで出かけたことと関係があろう。阿片生産にかかわる製薬会社関係の人や、真龍寺が物心両面で支援していたことから、寺も多い。 帝国一日一善会が勧める善事なるものは、身のまわりの、こまごまとした、親切や気配りといった小さなもので、思想運動としてそれほど有効ではない。 実効があるものはケシ栽培であった。『一日一善』誌でも、毎号、ケシ栽培を合わせて宣伝している。音蔵はケシ栽培を導入したことで、生まれ育った福井村を裕福な村に変身させることができた。貧しい農民にケシを栽培させることで、彼らを多少とも豊かにする。こうした考えで、彼はケシ栽培の普及に没頭していった。この延長線上に、帝国一日一善会の運動も生まれてくる。農民を対象にした、農村部に限定された運動であった。 音蔵は、貧苦の人々を救済する社会福祉事業にも手を出した。無料で貧苦の人々を治療した慈恵医院と葬式を無料で営んでくれる無料供養所であった。このため、ケシ栽培事業で取得した金だけでは足りず、福井村で1、2を争った山林、田畑持ちの二反長家の土地もつぎつぎと他人名義になっていく。 1931年の満州事変から戦争の時代に入ってゆき、社会のあらゆる方面で自由は奪われる。「思想の混乱」は押さえこまれ、小作争議も起こりようがなくなると、会の運動は休止し、社会福祉事業もあっさりやめている。戦争に伴う阿片の増産に転換してゆく情勢の中で、ケシ栽培の数少ない専門家である音蔵は、国内外から引っ張りダコになり、今まで以上に東奔西走の日々をすごすようになる。 音蔵が奨励・指導したケシ栽培によって生産された原料阿片の相当部分は、ヘロインなどの麻薬に加工され、幾多のアジア諸国民が日本の阿片政策の犠牲になった。音蔵は、戦後も一日一善会会長という名前で、毎月、郷里の福井小学校に出かけ、戦前と同じ調子で、一日一善の勧めを生徒に話していたという。 占領軍の指令で、ケシ栽培が禁止になったことを残念がり、復活を待ち望んでいた音蔵は、ケシ栽培が再開される4年前の1950年7月8日、75歳でなくなる。


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