竹林の愚人  WAREHOUSE

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大王家の柩

2008-04-30 09:57:03 | BOOKS

板橋旺爾 「大王家の柩 継体と推古をつなぐ謎」 海鳥社 2007.05.15.


1998年1月、今城塚を熊本県宇土市教育委員会の高木恭二が歩きまわっていて、墳丘の一番高いところから赤い石片がのぞいているのに気づいた。阿蘇ピンク石だった。
阿蘇凝灰岩のうち、まれに溶岩の赤色をとどめたものがある。熊本県宇土市・馬門の森に、断崖となってそびえている赤い岩層がそれだ。乾燥するとピンクに発色するので、阿蘇ピンク石とよばれる。
2000年前後、畿内のいくつかの重要古墳から出土した石棺が、この9万年前の火山活動が生みだしためずらしい阿蘇ピンク石で造られていることがあきらかになった。古墳の時期は、倭の五王の時代終わりごろから九州で磐井の乱が起こった継体大王のとき。そして飛鳥文化が花開いた推古女帝、聖徳太子の時代。この5世紀後半~7世紀初頭のある時期の、特定の人物だけが、阿蘇ピンク石棺に葬られた。
はるばる宇土半島から摂津・大和まで、有明海、東シナ海、玄界灘、瀬戸内海の1,000km余の海を運ばれた。阿蘇ピンク石棺は、石材産地にはなく、畿内周辺の特定の古墳にしか見られない。河内王朝や継体のあと、竜山石、二上山石の石棺は各地の豪族の古墳からもたくさんでているが、阿蘇ピンク石棺のような石棺はほかになく、ある特定の「大王家の特注品」とされるゆえんだ。
継体大王以前、そして継体朝の時代に王権が九州・肥後の火の国の豪族たちと関係をもっていた。それは地方豪族同士、豪族と中央氏族の同盟、それらの氏族・豪族と大王家がむすぶことにより阿蘇灰色石とピンク石の石棺が海を渡り、それが新しい王朝であった継体時代の「大王家のひつぎ」として採用されたのだろう。
竜山石と二上山石が大王・王族の石棺だった時代に、推古女帝・竹田皇子合葬陵で、60年も前に姿を消した阿蘇ピンク石を、また掘りだして最愛の皇子のひつぎとしたのは、欽明以来の王統氏族としての蘇我氏の宿命が竹田皇子の“悲劇”をよんだことへの悲嘆、それへのせめてもの抵抗から、皇子へのはなむけとしたとも思える。そして推古は仏教の崇拝者だった。その仏教に西方浄土の思想がある。遠く東シナ海へ接する西方の地の赤い石。それに乗せて皇子を浄土へ旅立たせたかったのか……。
聖徳太子が建立した四天王寺に「熊野権現礼拝石」としておかれているピンク石の謎もそれを解明する文献上の史料も論拠もない。石棺の底のような形状からして、いつの時か慰霊のために運びこまれていた壊れた石棺を「礼拝石」としてよみがえらせたのだろうか。