竹林の愚人  WAREHOUSE

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吉本興業、カネの成る木の作り方

2007-07-27 09:19:34 | BOOKS
大下英治 「吉本興業、カネの成る木の作り方」 講談社 2007.01.29. 

「笑いの王国」の原形をつくったのは、吉本せいと林正之助、林弘高兄弟である。 林正之助にとって、はじめのうち、テレビでただで仁鶴の芸を見られては商売にならない、という杷憂があった。が、仁鶴の人気はそれを吹き飛ばした。仁鶴見たさに、劇場に客があふれたのである。仁鶴の人気は、昭和45年にひらかれた大阪万博ブームに乗り、爆発した。1,000人が限度の「なんば花月」に、なんと、1日8,000人もの客を呼びこんだ。 仁鶴が、正之助会長に認められたと感じたのは、吉本に入って15年経ってからだという。 落語家仁鶴に対し、漫才部門で、吉本興業をひっぱり、吉本の芸人として全国区になったのが、横山やすし・西川きよしコンビだ。当時、テレビに出ている漫才師は、かしまし娘、中田ダイマルエフケットをはじめすべて松竹芸能の芸人で、やすし・きよしは、たまに声がかかる程度であった。林正之助が八田竹男取締役を呼びつけて、「昨月の夕方、家で飯を食べながらテレビを見とったら、やすし・きよしとかいう活きのいい新人が出とった。どこの会社かしらんが、金積んでもええから、引き抜いてこい」「あれはうちの芸人ですよ」「そうか。そら知らんかった。あのコンビ、いけるかもしれんなあ。応援してやれ」正之助の後押しもあり、やすし・きよしの仕事は飛躍的に増えた。 平成17年度には「NSC大阪」と「NSC東京」を合わせると、1,200人の新入生が入った。吉本興業としては芸人育成のための機関であるため、ここで利益を出すつもりはない。ひと組でも売れっ子芸人が出れば、1年分の人件費をはじめとした諸費用分はペイできる。 30年前は、箱根の山を越えると、大阪の芸は、だれからも相手にはしてもらえない。真面目にそう言われていた。映画やドラマではかならずといっていいほど、脇役のひとりに大阪弁や関西弁を使った三枚目がいる。しかし、それが主役となると、拒まれる。そのような風潮があった。 それが、明石家さんま、島田紳助がMANZAIブームに乗って、東京に進出したことで変わってきた。大阪のお笑い文化が東京に浸透した。 いっぼう大阪では、吉本と松竹芸能にはっきりとした色合いのちがいがあった。ひと言でいえば、松竹芸能は、藤山寛美を象徴とする人情喜劇的な色合いが強く、段取りをきっちりと踏んで笑わせる。吉本はといえば、もう少し乾いた、笑わせて笑わせ倒す、ハチヤメチヤがあった。 東京所属の吉本興業の若手も、吉本興業の創業地である大阪の雰囲気をどこかで受け継いではいるが、東京と大阪が混じると同時に、テレビ業界でも人が入り混じる。日本はいま、それまで各地で独自に存在していた笑いの文化がかき混ぜられ、タレントの特色は薄まっている。 吉本興業の平成18年の連結決算は、売上高が462億円、本業の儲けを示す営業利益が、63億円となった。今後も、経営資源をタレントマネジメントやコンテンツ制作など中核事業に集中する方針だ。