竹林の愚人  WAREHOUSE

Doblogで綴っていたものを納めています。

おてんば女将の祇園昔ばなし

2007-07-13 00:16:20 | BOOKS
小川智恵子・鈴木美代子 「おてんば女将の祇園昔ばなし」 草思社 2007.06.21. 

お駒さんが「近江駒」を開業したのは天保年間(1830~44)のころ。円山近辺の八坂通りは、昔は茶店がいっぱい出たところで、茶店は夜になればお酒も飲ませたものです。それで八坂神社にお参りに来る人を接待する水掛茶屋を始めはったんでしょう。 お駒さんの時代には京都所司代系のお客さんが多く、徳川家十六代の家達さんも京都帝国大学の時期には常連だったそうです。お茶屋さんによって、勤皇派、佐幕派とありまして、うちとこは佐幕派やから、「祇園にも薩摩の田舎もんが来よって」なんて西郷隆盛、大久保利通ですよ。その時代、そういう偉い方たちが祇園で遊ばはった。 お駒さんは、「世の中はええときばっかりやない。景気がよかったらそのつぎは必ず下がる。いっぺん店を広げてしまったら、小さくするのはなかなかできひん。そんな苦労をしないように、初めからきっちり小茶屋でいって、なかを充実しなさい」って、いうてはったそうです。 「近江駒」の場所は祇園花見小路、「一力」さんの並びにありました。繁盛していて、きれいな舞妓さんや、芸妓さんが出たり入ったり、甲高い声でしゃべってはって、活気がありますやん。それを見て、なんかおもしろいと思ったんでしょうね。「ええやないか」とオッケーを取って、もらわれたわけですわ。小川家は、四代目の私までが養女で、五代目の加代子が私の実の娘です。この養女というのは、商売を考えたら、いい子が欲しいから。自分が産んだ子といえども、生まれたときやったら、いいか悪いかわかりません。よそやったらええか悪いかわかるし、ああ、この子やったらええか、というようなわけです。 お茶屋の養女になるのは、身元のしっかりした者でないとなれないんです。家が貧しいとか、そういう子は養女ではなく奉公に出はります。おちょぼさんとして女中さんの下働きになり、働きがあれば、それなりに女中さんや仲居さんになれるわけです。そのころは、売られてお女郎さんにされる娘さんもいましたからね。 私のころは小学校を卒業してすぐに舞妓さんになったというか、させられた子もいました。舞妓さんにならはったら、一人前の花代をもらわはるわけですが、それは置屋さんに入り、舞妓さんはほんのお小遣いしかもらえません。それで売れっ妓にならなければ、ええ衣装も着せてもらえなかったんです。 いまは祇園の舞妓さんは20数人いやはりますけど、祇園生まれの子は少なくなりました。昭和30年代のころは50人くらい舞妓さんがいましたけど、生粋の紙園生まれの子が多かったんです。私のころは100人を超えていて、クラスの半分は舞妓さんになりました。きれいな子が多くて姿がええ子がたくさんいましたから、そこで一流になるのはそれは大変、生半可なことでは出られしませんでした。 お茶屋さんは料理屋さんや旅館の依頼で大きな宴会を仕切ったりしなければなりません。客筋に合わせて、舞妓さんや芸妓さんの手配をしたり、料理の出る順番や、どの時間に芸を出して、どの時間にお客さんのスピーチがあって、帰らはる前にはこうなって、というような段取りがありますねん。お茶屋の女将は宴会の指揮者みたいなもので、そんなん、みんな承知していなかったら、女将は務まりません。