竹林の愚人  WAREHOUSE

Doblogで綴っていたものを納めています。

プリン博覧会

2007-07-09 07:31:39 | GOODS
ハーバーランドに寄ったら、「プリン博覧会2007」のポスターが目につきましたので、神戸スイーツハーバーに直行。ナムコの「最強プリン発掘隊」が実際に食べて選んだ展示販売会です。8月31日まで開催中です。 



セレクトしたのはふらの牛乳プリンにMOMOちゃんのプリンです。 
お気に入りは濃厚な味のふらのでした。ラベンダーのお花畑を思い出しながら頂きました。

コスモポリタン物語

2007-07-09 00:03:47 | BOOKS
川又一英 「コスモポリタン物語」 コスモポリタン製菓 1990.07.20. 

父フェードル、息子ヴァレンタインのモロゾフ一家がトアロード103番地に開業準備をしていた対象15年(1926)、神戸で洋菓子屋といえば関東大震災で横浜から移ってきた三宮のユーハイムと、中山手に開業したフロインドリーブがあった。ともにドイツ人の手になるもので、チョコレート、ケーキからパンまで扱っていた。洋菓子店をはじめるにあたって、フュードルもチョコレート、ケーキやパンまで造ることにした。 神戸商工会議所の理事、福本義亮が出資者を見つけてきた。工場設備と商標権を3万円で買い取り、3,000円を会社の株式で、残り半額15,000円を10年の据え置きという モロゾフ家には不満なものであった。モロゾフ家側の工場設備一切ならびに商標権は新しい株式会社に引き渡され、モロゾフ父子は専属技術者として留まることになって、昭和6年(1931)6月1日、神戸モロゾフ製菓株式会社として、葛野友槌を代表取締役に再出発した。 ところが、社長の長男友太郎が監査役福本義亮の娘と結婚し、経営に参加すると風向きが変わり、葛野一族が要職を占めるようになり、モロゾフ父子の発言力が弱まったのだ。経営方針が、父子の高級チョコレートを目指すものから、品目を減らして大量生産でコストダウンを図るものに変わってきた。祖国ロシアから追い立てられ、神戸に安らぎの地を見出したモロゾフ一家が、結局は約束の半額15,000円も支払われることなく、しかも大切なモロゾフという姓までも奪われてしまったのだ。 泣く泣くモロゾフの看板を下ろし、新たにコスモポリタンの名で再度の出直しだ。 戦後、昭和天皇が神戸に行幸されるにあたり、市長から「あんたなら神戸一のチョコレートを造れるやろ」と献上のチョコレートを依頼され、八角形の化粧箱に収めたこのチョコレートが戦後初のものだ。 大手メーカーは大量生産・大量販売の態勢をとっている。ヴァレンタインの考えは、お客の好みに応じられるよう多品種の製品を常に用意しておくことだ。大手のできない少量他品目生産こそコスモポリタンのとるべき道なのだ。


コスモポリタン製菓三宮本店 
戦争も震災も持ちこたえ、長男ヴァーリーカが参加して親子3代に渡るモロゾフ家のチョコレート造りも2006年には終焉。夫を亡くしたオリガ婦人は娘イリーナとナターリアのいるアメリカへ去ってしまいました。