竹林の愚人  WAREHOUSE

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戦争の記憶を歩く

2007-07-05 07:08:13 | BOOKS
早瀬晋三 「戦争の記憶を歩く 東南アジアのいま」 岩波書店 2007.03.09. 

日本がアジアを欧米の植民地支配から解放し、共栄圏を建設することを目指した「大東亜戦争」の戦場となったのは、当時南方とよばれた東南アジアでした。日本軍が南方に求めたものは、中国や欧米との戦いを続けるために必要な資源や労働力でした。「帝国ノ自存自衛ノ為」の「大東亜共栄圏」は国境線を超えてヒトやモノが移動した、日本がつくった「戦争空間」でした。 1940年6月、同盟国ドイツがバリを占領したことから、日本軍は9月に北部フランス領インドシナ(北部ベトナム)に進駐。傀儡化したフランスの植民地政府と共同統治をはじめました。そして、1941年12月8日、インドシナに待機していた日本軍は、一斉に南方各地への侵攻を開始し、翌42年1月2日にはアメリカ領フィリピンのマニラを占領しました。 日本軍は各国・地域の首都を占領すると、軍政を開始。フィリピン、ジャワ島、マラヤとスマトラ島、ビルマは陸軍が、オランダ領ボルネオやセレベス島以東の島々は海軍が担当し、イギリス領やオランダ領という枠組みでもなければ、戦後独立した国家とも違う枠組みで統治しました。日本の官庁から派遣された官僚などが実務を、また、「資源の獲得」には、軍から受命した一般企業が積極的に進出しました。 日本軍は「軍の現地自活確保」を基本としたため、進駐してきた先はどこも食糧や生活物資が不足し、住民は困難な生活を強いられました。また、「徴発」という名の下に公然と略奪をおこない、労働力や「女性」も「徴発」したことから、「強制連行」や「従軍慰安婦」の問題を今日まで引きずることになりました。 欧米の植民支配からの解放を期待した人びとも、日本軍による過酷な支配と生活の窮乏化から、各地で反日ゲリラ活動が活発になりました。 フィリピンでは多くの民間人の死者を出したため、戦後の反日感情はきわめて厳しいものがあり、日本に賠償支払いを公式に請求しました。最終的に決着をみたのは、朝鮮戦争特需で回復しつつあった日本の経済力をさらに高めるため、「賠償は呼び水」と考え、賠償は日本の企業が当該国の公共事業を行い、日本製品の供与という市場拡大を目指すものでした。76年まで続いた賠償支払いは、68年からは対フィリピン日本政府開発援助ODAへと引き継がれていきました。 1960年に調印された日比友好通商航海条約がようやく批准されたのは、マルコス大統領による戒厳令体制下の73年でした。 日本は、これまで戦争責任をいわゆる東京裁判でA級戦犯とされた指導者に押しつけ、国民その責任を負うということを免れてきました。72年に日中国交回復にさいして、中国政府は日本国民もまた「軍国主義者」による戦争犠牲者であると自国民に説明していましたが、A級戦犯の復権を容認する国家主導者の出現で、人々は「反日」に傾いています。日本が、A級戦犯にかわる戦争責任の所在を明確にしていないからです。 今後、「ポスト戦後」世代が近隣諸国と良好な関係を築いていくには、日本の資料を公開し、近隣諸国から見た対日戦争の研究を進めなければいけません。