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アインシュタイン丸かじり

2007-04-22 15:28:46 | BOOKS
志村忠夫 「アインシュタイン丸かじり」 新潮新書 2007.03.20. 

1905年の3月から9月の半年間にアインシュタインは革命的な物理学の論文を次々に発表した。?光の粒子説(3月論文)?分子の大きさの決走法(4月論文)?ブラウン運動(5月論文)?特殊相対性理論(6月論文)?質量とエネルギー(9月論文)である。 すべての物質が原子から構成されているということは、紀元前5世紀の古代ギリシャ時代以来信じられていたが、アインシュタインが登場するまで、原子実在の確かな証拠はなかった。このような状況下で、「原子の実在」に対する有力な説得力を与えたのがアインシュタインの論文であった。 「特殊相対性理論」から導き出された方程式「E=mc2」は、エネルギーと物質との関係についての常識を一変させた。物質の源である質量とエネルギーは互いに別次元のもので、同じ土俵で扱うことはできないはずだ。また、質量(物質の本質の量)は、化学反応などの過程を経ても、絶対に不変であると信じて来た。それが「質量保存の法則」で、エネルギーについても同様に「エネルギー保存の法則」がある。特殊相対性理論は「動いている物体の質量は大きくなる」「物体の速さが光速に達すると質量が無限大になる」という。この発見こそ、アインシュタイン一人の独自の革命的独創といってよい。 物質に潜んだ巨大なエネルギーが実用化された最初の例が原子爆弾であった。 ノーベル賞委員会の記録によれば、アインシュタインは1910年から毎年物理学賞の候補に上っていた。ノーベル賞受賞が遅れた理由は2つある。一つは、1905年、陰極線の研究でノーベル物理学賞を受賞したドイツのナチス体制に与したレーナルトが、ノーベル賞委員会に絶大な影響力を振るって、アインシュタイン自身を攻撃した。相対性理論で世界的に有名になったアインシュタインは、反ユダヤ主義のドイツ人にはどうしても攻撃しなければならない標的だった。 もう一つの理由は、アインシュタインの相対性理論(特殊、一般とも)が難解すぎて、ノーベル賞選考委員に十分理解されなかったのである。後になって、相対性理論は間違っていたというようなことになった場合を恐れたのだ。 ノーベル賞委員会はさんざん悩んだ挙句、アインシュタインにノーベル賞を授与することを決定した。賞授与は一度は「授賞なし」とされた1921年に、1年さかのぼって行なわれた。1922年の受賞者は「量子論の父」のボーアだった。ノーベル物理学賞受賞の公式の理由は、「理論物理学の諸研究とくに光電効果の法則の発見」であり、アカデミーは、アインシュタインにノーベル賞受賞講演では相対性理論に言及することなく、光電効果について行なうよう要請した。