パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

お金の使い方

2022年05月18日 09時34分10秒 | あれこれ考えること

手元に100万円あったらどうのように使うか?
という問の答えは国によって随分違うということが
一時期、面白おかしく伝えられた

中国人は全部賭け事に使ってしまう(そんなイメージ)
日本人は全部貯金してしまう(思わず納得)
アメリカ人は半分貯金、半分投資に使う

この問を発した人は、お金はアメリカ人のようにバランス良く使うべきだと
投資の啓蒙のつもりだったらしいが、日本人に染み付いた感覚は
なかなか変えるのは難しそうだ

嘘か本当かわからないが、阿武町では間違って4630万円を振り込まれた若者が
そのお金をネットカジノですってしまって、返却ができないと答えているらしい
お金が見る見るうちに減っていくギャンブルは性格的に自分は絶対できないが
ドストエフスキーがそうだったように、のめり込むタイプの人はどういうわけか一定数存在する
それは自分には理解不能な人たちと言うしかない
(モーツァルトも晩年はギャンブルですっていたらしい)

国では貯金ばかりでなく投資という形で金の流通を増やしたいようだが
そもそも貯金すら増えていけない状況下にある今
その発想自体が一部の恵まれた人の発想に過ぎないような気もしている
(NISAも上手くいかなかった?)

話は変わって、先日、中日新聞の朝刊に、「親ガチャデータで裏付け」という記事があった
親の年収と子供の成績とか進路に大きな違いがあるというデータがやはり有ったというものだ
その事実はなかなか重いし、容易に解決できそうもないだけに少し落ち込みそうだ

お金の使い方は、すでにある環境で随分違ってくる気がする
商売人の家庭とサラリーマン家庭の子では、お金の使い方は根本的に違ってきそう
経済格差とか階層格差による感じ方・考え方の違いはブルデューの「ディスタンクシオン」の
膨大な調査で明らかにされているが、そこでは単なる機会均等だけでは解決しない問題が
存在していることを想像させる

性格とか個性の違いだけでなく、社会環境でお金の使い方が違うということ
せめて過度な格差は無いに越したことはないと思うこの頃

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指揮者なしのオーケストラ第九に挑む

2022年05月17日 09時56分06秒 | 音楽

録画しておいたNHKの「指揮者なしのオーケストラ第九に挑む」を見た
途中、用事が入って演奏は第三楽章までしか聴いていないが
通しての演奏の前に、このプロジェクトの進められていく過程が
パートごとにじっくりと扱われていたので
僅かな違いを聴き分けるプロの演奏家の耳はすごいなと感心してしまった

演奏は確かに指揮者が違うと印象は異なる
わかりやすいのはテンポの違いで、それによって曲のイメージは
若々しくなったり、落ち着いたりする
もう少し聴き込むと旋律の歌い方にも違いがあることに気づく
その他にも何故か音色の違いも存在することがわかる
指揮者自体は音を出していないのに、指揮者に従った音に緊張感や迫力
憧れとか寂寥感に違いがあるのは本当に不思議だ

その重要な役割の指揮者がいないとしたら、どんなことになるのか?
を試みたプロジェクトだ
流石にいきなり本番でエイヤッとするのではなく、テンポとか音量とか
ニュアンスなどは事前の練習で皆で話し合って決めていたようだ

このパートごとの会話が面白かった
エピソードにもあったがヴァイオリンの冒頭部分
楽譜は6連符で書かれていてトレモロではない
この意味を考えようと提案した方がいて、番組ではその違いを聞くことができた
聴き比べてみると個人的には確かに6連符のほうが複雑なニュアンスが伝わりそうな気がした
でも、ほんのちょっとした違いだ
このほんのちょっとした違いに対するこだわりが各楽器の奏者の間で自由に討論された

演奏家は素人にはわからない鋭い耳を持っている
弓を上から下へと奏するのと下から上に奏するのは違うようで
最初は違う方法でやっていたある弦楽奏者は、隣の演奏家の音との違いに気づいて
どこが違うのか?と確かめたところボウイングが違うことに気づいて
「それもらった!」と隣の奏者の音色のほうが良いと認めたらしい

演奏家は楽譜を見ると自発的な表現意欲が生まれるものだろうか
それとも、楽譜に書かれていることを指揮者の指示に従って彼の意図を
客観的に表現するだけの存在なのだろうか

一人ひとりの音楽家(奏者)が自分の価値観とか美意識とかに従って
楽譜に書かれていたものを表現したら、一体どういうことになるのだろう
バラバラのまとまりのないものになってしまうのか
それとも人同士の不思議なシンクロする感覚でまとまったものになっていくのか

指揮者は楽譜の中から作曲家の意図を読みとろうとする
あるいは効果的な表現方法を模索する
奏者はそれにただ奉仕するだけでなく、ある程度の自由を与えられた自発的な感覚で
演奏ができたものが指揮者も奏者も幸せではないかと思ってしまう

こうやってほしいというのは、そのままやるというのではなく
その意図を読んで、それ以上のものを奏者のプライドをかけて演奏する
それがいい演奏になりそうと勝手に思ってしまう

フルトヴェングラーの指揮は指揮者の個性が強すぎる印象だが
実は奏者の自発的な力を信じているような気もする(個人的な印象だが)

と、ここまできて、ふとサッカーの監督と選手の関係を考えてしまった
サッカーの監督はゲームプランを考える
そしてそれが効果的に実現されるように選手を選び、事前には練習を行う
ところが、試合が始まってしまったら、ある程度はグランドの選手に任せるしかないのだ
選手は音楽の奏者の表現意欲と似たような自分の感ずるところを発揮したいと考える
一番いいのは選手の個人の感覚がチーム全体と一致することだが
現実世界では選手レベルが高いほどこれは実現される
(チーム力の差は個人の能力の違いか?)

話は音楽に戻って、今でも覚えているのは初めてベルリンフィルを生で聴いたときのことだ
思わず出たのは「めちゃうまい!」の一言
合奏能力が半端じゃない、一人ひとりがこれだけうまいと自分でこうしたい
と思う音楽家は多いだろうなと妙な確信を持った
演奏家の一人ひとりの自発的な表現意欲も満たしたうえでまとめる
それは指揮者のいうとおり演奏しているだけというのとは迫力が違う

今回の指揮者なしの演奏は、個々の奏者の表現意欲の現れがよく感じられるようで
それは少人数の演奏にも関わらず迫力があるように思われた

それにしてもプロの耳はすごいな、、
この録画は度々見ることになりそう

NHKの番組は↓

指揮者なしのオーケストラ第九に挑む!

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富士山

2022年05月16日 10時02分13秒 | 徒然なるままに

富士山はやはりきれいな山だと思う
東京に行くときの新幹線は左側の席に座るようにしている
富士山を見るためだ
原風景として富士山を毎日見ている人がいつも羨ましく思えてしまう

高さ3776メートル
その覚え方は、み(3)な(7)な(7)ろう(6)で
この数字を会社の電話番号にしたところがあった

残念ながらこの山頂に登ることはないだろう
体力と何よりも腰がついていけない
つくづく行ける時にいかないと駄目だなと実感する

今はすることがなくなったブラジルにいる子たちのズームでの勉強
(彼らは今日本にいるので)
お姉ちゃんの勉強で竹取物語の話をしたときに、自分は知らなかったが
最後に富士山の話が出てきた

かぐや姫が月に帰っていくときに帝に不老不死の薬を渡したエピソードがある
帝はかぐや姫がいない世界で生きながらえても意味はないと
天に一番近いところにいってその薬を焼却してしまうことにした
天に一番近いのは駿河にある山で、もののふ(士)がたくさん(富)行って
処分を行ったのでその山を富士山とよんだとの解説がある

自分の原風景の山は富士山でなく本宮山だ
中学校から帰る時、本宮山を見ながら自転車をこいでいた光景が
いまでも心に残っている
北アルプスの常念岳が好きなのはその形が
記憶の中にある本宮山を連想させるからだと思う

本宮山にも富士見台という場所があるが、前に行った時は
曇って見えなかった
そう言えば、槍ヶ岳からも頭を少しだけ見せた富士山が見えたことがあった

コロナで出かけることが少なくなっているが、
ストレス発散に富士山が見える場所に行くのは「ありだな!」と思ったりする

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小学生の逆上がりの目的は、、、

2022年05月14日 09時50分32秒 | 徒然なるままに

昨日のNHKの「チコちゃんに叱られる」は頷くところが多かった
「なぜ小学生は逆上がりをするのか?」
がテーマで、結論から言ってしまうと
それは努力すれば報われる成功体験を実感する為だそうだ

番組では小さな女の子が逆上がりをするために
いろんな練習の様子が紹介されていた
最初は全くできない
鉄棒に体が近づくことさえできない
そこで、まずはマットで後ろ周りの練習をする
次は蹴り上げる練習をする
こうして段階的に合理的な練習が続けられる
女の子は練習の段階でもできないことできるようになるのが
楽しいという感覚に結びついているようだ

練習というのは効果的な方法があるものだが
この子は70時間ちょっとでできるようになった
それまでには手のひらの皮が擦りむけたり
疲れて前できたことができなくなるような事もあった

でも負けん気とか悔しいという気持ちは
なんとかできるようになりたいという思いを支えている

テレビを見ているだけのこちらもつい声を出して応援してしまう
そしてできたときの達成感、喜び
わかるなあ、、とこちらもシンクロしてしまう

この努力すれば報われるという成功体験は本当に大事だ思う
今年の2月に成功体験というタイトルでこのブログでも紹介したが
自分がサッカーのコーチ時代の出来事が、この逆上がりの成功体験と
全く同じだった

彼はパントキックが上手くできなかった
他の子は難なくできているようなキックがどうしても上手くできない
自分の中でタイミングやらボールの置き方を試行錯誤する
そんなある時偶然うまくいった
「できた!」と声に出す彼の嬉しそうな顔
だが次にやってみるとうまくいかない
さっきできたから、今度もできるはずだ!
彼はなんとかもう一度できるようになりたいと必死になる

一週間後、おなじキックの練習をしてみる
やはり上手くいかない
「この間できたよね!」
と声をかけると、頷いてその練習に集中する
そして上手くキックできる割合が徐々に増えていく

彼はこの時、練習すれば上手くなるということを
身にしみて感じることができたと思う

今の子供たちに真に必要なのは、こうした成功体験ではないだろうか
与えられたり言われたことを卒なく上手く行うよりも
自分で必死になってなんとかしようとしたことが
時間をかけることで(努力することで)解決するという実感

これなどは今自分たちが関わっている外国をルーツにもつ子供たちの
日本語の勉強にも実感して欲しいものなのだ

だが、現実は厳しい
いつか本人たちが気づいてくれると良いのだが

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7年前の今日(FBの投稿から)

2022年05月13日 09時33分27秒 | 住民投票・市庁舎・リコール・市政

おせっかいなFBの機能から7年前の今日の投稿が通知された
そこには毎日新聞の記事を取り上げて、多少テンション高い表現で
新城市の住民投票の選択肢の酷さを訴えていた自分がいた
毎日新聞の記事は↓


あれから7年
いろんなこと(リコール運動・行政訴訟・産廃騒動)があって
もうずっと昔のような気がする
だが、ほんの少し前のことなのだ

現在の市庁舎南の役立たずの土地(防災空地扱い?)は
この新庁舎建設の計画の杜撰さからきている
だが、役立たずの土地はそれが常態化していると
市民はいつの間にはその不便さに慣れっこになってしまって
なぜ市庁舎の常設の駐車場として使えないのか?と疑問を持つ人はいない

この事件以前と以後で自分の意識はすっかり変わってしまったが
先日、地元の会合で住民投票のことを出席者に聞く機会があった
すると、住民投票があったことは覚えていた
だがその選択肢は覚えていなかった
だから彼らは自分が覚えたような怒り(わかりにくい選択肢で住民投票を行う意味があるのか)
は少しも持っていないことがわかった
彼らの住民投票における選択は住民が訴えたわかりやすい3階建てか?5階建てか?
で行ったようだ

時間の経過は怖い
いつの間にか何故だろうと思えることも、日常の風景とか出来事になってしまう

過去を何時までも引きずったり振り返るのは生産的ではない
と思いたい人たちが世の中にはいるようだが
「新城市はピンチなのですか?」
とテレビレポーターとして新城市にやってきた春香クリスティーンが
聞いたように、新城市のドタバタはここから始まった
(というより、多くの問題が存在することが表面に出た)

自分が怒りを覚えたことも、スルーする出来事と感じる人が多いのも事実だ
身の回りの様々な問題を自分たちの問題として考える
一見まともそうなこうした考えが、いざ実行となるとそのハードルは一気に高くなる
その現実を思い知らされる日々が続く



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普通の人びとと個人の責任

2022年05月11日 09時28分14秒 | あれこれ考えること

勢い込んで購入したものの、気が滅入って読み続けることができない本
それが「普通の人びと」

帯にあるようにホロコーストを実行した、人格も出来上がっているはずの
年令に達している普通の人びとの愚行の記録だ

正直なところ読んでて気持ち悪くなって吐き気がする
人の生死がいつの間にか数字としか認識されないようになっている
ある程度は予想していた内容だが、いざ直面するとその残酷さはしんどい
それは現在のロシアのウクライナ侵攻におけるロシア軍の一部の人の
暴走を連想させる
戦争とはそういうものだ!と言ってしまうにはあまりにも非人間的な行為に
なぜそこまでなってしまうのか、、の疑問はどうしてもついてまわる

この普通の人々はナチスの歴史教育・民族教育の賜物ではなく
すでに人格を形成された大人たちの集団だ
つまりは善悪の判断力も持ち合わせている人たちだった
だが、それは発揮されず命令に従って粛々と命令されたこと実行した
(実は読み続けるのがしんどいので最後のまとめの章だけ読んだ)

そこではアイヒマンの例にあるように、自分がしなかったら別の誰かが行う
とか、自分の代わりに行う人に与えるストレスを考慮すれば自分が行う選択しかない
とか、有名なミルグラム実験(特定の条件がそろうと道徳的に問題があることであっても、
人は誰しも権威者の命令に服従する可能性があることを明らかにした、スタンリー・ミルグラムによる実験)
のような外的要因による一種自動的に命令に従うとか、、様々な考えうる要因が述べられている

戦争はそういうものだとか、その立場になったなら仕方ない、、としてしまうには
あまりにも見逃すことのできない行為は、この本でもアイヒマンの裁判の判決文でも
あるように人間の責任は究極的には個人の問題であると結論付けられている

ただしそれでも社会的な背景は無視できないもの事実
結局のところこれらから学ぶべきは、こうした究極の状況を作らないこと
社会が危険な方向に進みそうならば早めに手を打っておくということだろう

始まってしまったらブレーキが効かなくなる
まずは始まらないこと、、それは一番だ

時代の空気に影響を与える庶民の気持ちは正しいか?を考えると
その空気はあまりにも衝動的な面がある
それはプロパガンダのせいかもしれないがNHK スペシャル 新・ドキュメント太平洋戦争
(庶民の日記を資料として、そこに出てくる言葉から時代の空気を読み取とったもの)
では、厭戦気分から高揚感に満ちた開戦への庶民の気持ちが変化していく過程が明らかにされた

戦争を経験した今の時点ではそれを誤りと断言できる
つまりは誤りと断言できるうちに早め早めに手を打っていかないと
現在一部で聞かれる勇ましい論調が世の中を席巻してしまいそうで怖い

後の時代の人に
「あの時、あなたたちは何をした?」
と批判されないようにする
それは個人の責任だろう

 

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改修が放ったらかしになっていたのは何故か?

2022年05月10日 09時58分10秒 | 市政、市議会に関することなど

地元新城市の話題 ずっと気になっていたので備忘録の意味も込めて

新城市では小中学校の給食は、令和6年度より一括して作り
配送するセンター方式とする案が予算決定されてる
だが、これは今でも問題がくすぶっている

それは本当にセンター方式が良いのか?
センター方式の決定に至る過程にどこか不自然なところはないか?
または適切なステップを踏んでいないのではないか?
センター方式とする大きな理由の各学校の給食室の老朽化は
そもそも行政の怠慢ではなかったのか?
また今後の人口減を考えると過剰と思われる規模は適正なのか?
などが挙げられる(その他いろいろあるが)

正直なところ、自分は何が適切な判断なのかわからない
一番の当事者である学校関連の人の実感を伴う考えは重要だと思う
だがその実感も人によってだいぶ違う(男女の意識の差も実感する)
結局は決定は一部の少数者によってなされたもので
それを認めるのは予算案の承認という議決を経ることになるが
議会は十分な情報のもと適切に判断をしているか?
だが例のごとく(どの自治体もそうかも知れないが)議会では
たいした討論もされることなく行政案の承認となった

ここでずっと不思議だったのは、学校の給食室の老朽化が
なぜ放ったらかしになっていたのか?という点だ
なぜなら給食室の老朽化は議会の一般質問でも時々問題視されたからだ
行政はその問題点を認識していたはずなのに
なぜ予算をつけて改修を行わなかったのか
その指摘をした議員が共産党員だったからか?(まさか!)

そこで予算の組み方について市役所に出向いて聞いてみた
新城市は財政に余裕がないので予算は枠配分方式で行うようになっている
必要な予算を積み上げて要求する方法ではなく
各部門に一定のルールのもと予算配分をしてその範囲内で自主的に
優先順位等を決めて予算計上するというものだ
すると、この給食室の改修はいつも優先順位にはあがっていなかったのだろうか
ということになる
学校に予算がないという話は、別のところでも聞いている
地元の小学校の教頭先生は今は紙を買うお金もないと嘆いていた
(体育館の切れた照明はいつまで経ってもそのままだ)

以前は行政は学校からあがってくる予算要望が適切か実際に学校に訪れて
チェックしていたそうだ(聞き取った人の時代は)

給食室の改修費用より優先すべきものが学校に必要なものが
以前も今も存在するということだろうか
つまるところ市にはお金がない!という結論になるようだ

実は市の収入の92%は使いみちが決まっている
職員の給与とか負債の返還とか、その他の経費で自由に使えるのは8%しかない
その8%に給食室の改修をする余裕はないということらしい

それを思うと大事な8%の枠はよく考えて使ってほしいと思うが
どうも実績が伴わないものに使われているような気がしてならない

それでも、物は古くなれば痛むという現実は誰でも知っているはずなのに
なぜ予めそれを見越した予算計上をしないのか?が次に湧いてくる疑問だ
新しいものを作ったならば、何年後には不具合が出てくる可能性がある
そして早め早めに補修しておけば、ものは耐用年数が長くなる
これは誰でも思いつく
なぜ、そうした考えがなされないのか?

すると、行政のある人曰く
行政は(今までは)徐々に手を入れるというのではなく
壊れたら直すというシステムになっていたからが一つの答えらしい

つまりはいつか悪くなる可能性があるものも
そのことを少しも考えずにいたということだ
これは市の会計が、今年度入ったもの、今年度出たものでしか表せない方式
になっていることも、その原因の一つかもしれない
だからこそ行政も徐々に民間の会計(複式簿記)を併用するようになってきたらしい

誰でも思いつく、こまめに手を入れておけばものは長持ちするという考え方は
今は公共施設の高寿命化という政策に従って、そのようになされつつあるようだ
(やっとか!)

つまりは単純に誰かが悪いというレベルものではなく、制度を含めた構造的な問題
かもしれないとさえ思えてくる
市にはお金がない、、国もお金がない
お金がないなら上手なお金の使い方を望みたいが
それを現実世界で仕切るのは投票という委任を受けた人たち

代表制民主主義という言葉が、妙に重く感じられる(それはいい方法かと?)

という訳で、改修が放ったらかしになっていたのは不思議だな!
と思ったことをきっかけに、いろいろ考えてみたこと




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柱の傷は一昨年の、、、

2022年05月09日 09時56分05秒 | 徒然なるままに

月木の朝の日課は近所の子供たちとのウオーキング
見慣れているはずなのに、彼らの背が高くなっている
と感じたりすることがある

夏休み明けはしばらく見ていないので、それはよくあることだが
今朝も不意に、彼は大きくなったな、、、と気付かされた
身長が伸びただけなく、足の筋肉もたくましくなって
今までは棒のようだったのが、明らかに重いものも運べる体になっている

昔のサッカーのコーチ時代、練習の前後、小学1.2年生がゴールを運ぶときなどは
彼らはほとんどその作業に参加してるだけ、手を添えているだけで
力を出していない(出せていない)
あの細い体を見れば力など出るはずはない、、と結局は大人が頑張ることになっていた
ただみんなで運ぶという行為は大事だと思っていた

校門で小1の子がやってくるのを迎えると、少し前までこども園にいたことに気付かされる
ちっちゃい、、この子たちは小学校までの道のりは長く感じるだろうな、、
と余計な心配をしてしまう
でもこの子たちも知らないうちに逞しくなっていく

近所の子で一番小さいのは小2、この子も一年の間にいろんな面で成長した
最初はなんでも言うことを素直に聞いてたのが、少しづつ我儘になって
少し都合の悪いことをする時はお姉ちゃんに見つからないように
悪知恵が働くようになったりして、、、
それに歩くスピードも早くなった(でも列の最後を歩いている)

ほんと、みんな大きくなったな、、などと感心してると
不意に「柱の傷は一昨年の、、、」という歌が頭に浮かんだ
釘で柱に自分たちの身長を印する
そんなことは昔自分たちもやった
柱に兄弟分の幾つもの横棒の傷がつく
その傷も喜ばしい思い出として親たちは見逃す

傷だらけのその柱は今はない
今の子たちは「背くらべ」の歌をどのくらいのリアリティをもって歌うのだろう
柱の傷は許されているのだろうか

背くらべ
せいくらべ【歌あり】童謡

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ミロの展示会(撮影可能な作品があった)

2022年05月08日 09時46分14秒 | 見てきた、聴いてきた(展示会・映画と音楽)

なぜ好きなのかを説明するのは難しい
だが好きになった瞬間のことははっきり覚えている

昨日、本当に久しぶりに名古屋まで出かけた
お気にいりのミロの展示会を見るためだ
(ミロ展 日本を夢見て 愛知県美術館)
会場はそれほど混んでいるとは言えない
その分ゆっくり見られていい

自分が好きなのは後期の部類にはいるのだろうが
黒と赤と黄色とか緑を使った落書きののような絵
なんだかよくわからないが、とにかく愛着感を覚えるのだ
(安心感も)

そうそう、これこれ、、、と思いながら展示作品を見てると
作品の隣にカメラの印があって、撮影可の文字があった
SNSの投稿も可能ともある

そこで遠慮なく撮影したのが

上の作品は今回の展示会の紹介に使われているもので
馴染みがあるが、大きな画面を目前で見るとまた違った印象を持つ

そう言えば東京上野の西洋博物館に展示されているミロの作品も撮影可能で
2016年にちゃっかり撮影している
それが


誰でも描けそうな単なるいたずら書きみたいだが、遠くから見ていても
ミロの絵がある!とすぐに分かって吸い寄せられるように近寄った

何が良いか、なぜ好きかは言葉にしにくい
食べ物を味わってる本人が美味しいという表現でしか言えないのと同様に
好きだという感覚は、、共通項は感情の面ではあるかも知れないが
言葉の世界ではどうも不十分な気がしてしまう

ミロを知ったのは、そして一気にお気にいりとなったのは
豊橋にかつて存在した西武百貨店のイベントがきっかけだった
ある時、版画の展示即売会をやっていた
本当に何の気無しに覗いただけだったが
ある絵の前で釘付けになった
それはハガキよりも少し大きなくらいの絵(版画)で自分には
その絵から不思議な空気が発散されているような気がした
優しさとか温かさ、、それがほんわかと溢れていて
なんだこれは、、と作者名をチェックして
それがミロだと覚えるきっかけとなった

以後、ミロに関する情報はいろいろ目に入るようになって
岡崎で行われた展示会も見に行ったし
彼の作品が多く載っている本も手にした

こうなる彼の作品を手元に置きたい
と思うのは自然のことだが、本物は気楽に求められる金額じゃない
豊橋の画廊にも版画の作品があったが、金額面だけでなく
もっといい作品(気持ちにフィットした)はないのだろうかと迷ってしまう

ということで、手元にあるのは展示会でお土産用に売られていたハガキが数枚
その中で、額に飾って目につくところにあるのがこの絵


抽象的なので、なんとでも味わったり理解しようとすることができる
でもそんなことを思うより、ただただ良いなあ、、と思うことのほうが
より楽しめるような気がする

バルセロナにはミロの美術館があるらしい
そこには行ったことはないが、自分には有名なガウディの建築物よりも
ミロのほうが気になる(ペドリのいるバルサも気になるが)

この展示会は7月3日まで開催されている
昨日は久しぶりの外出で疲れてしまい、本調子がでなかったから
気分を改めてもう一度行くことになるかも、、、

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毎年やってくる客

2022年05月06日 10時39分41秒 | 徒然なるままに

新緑のGWを挟んだこの時期、コロナウィルスの心配もなく
毎年やってくる健気なお客さんがいる

帰省というより仕舞われていた納戸から表舞台への登場だ
展示する場所がない当事者の代わりに我が家で飾ることになって何十年
毎年、4月の良い日を選んで2階の納戸からの引っ越しだ

毎年やっていてもその都度どうやって飾るのか(土台を含めて)悩んでしまうのは
少しも覚えていないことに家族はショックを覚えるときもある
今年はちょうちんの電球が切れていて、飾ってる最中に電気屋に買いに出かけた

土台は家にあるいろんな箱や板などを利用しているが
その利用の仕方とか位置関係は写真を撮ってそれを参考にしている

連休中に顔を見せに来たちびっ子は、去年は人形を「怖い」と言っていたが
今年は飾られていたお菓子を見つけ
「これ欲しい、、」とねだるようになっていた
成長とはこういうものだと思ったりする(優先するのは食いものか!)

昨日のこどもの日まで存在感たっぷりに飾って、次は片付け
飾る時より片付けは楽なはずだが、天気が悪いと気分がのらないので
雨模様でない今日のうちに片付けることにした

幾つかの箱に一つ一つのパーツを紙にくるんでしまう
時々、仕舞い忘れたり、箱の詰め方に迷うところがあるのはご愛嬌

記憶はいつも思うが変なもので、飾られたものより
飾っている記憶の方が印象に残っている
子供の頃の雛人形は、やはり家にある裁ち台とかいろんなものを使って
ひな壇を作っていたのが、知ってはいけない秘密を知ったようで
なんだかワクワクした気持ちを覚えている

毎年同じことを繰り返す
それが面倒でもとても貴重なこと(時間)と思うようになっている
また来年、、、
そう言って彼らと別れる
腰が痛くてこれらの飾り・片付けの作業は楽ではないが
それでもずっと続けることができたら、、願うばかりだ

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