パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

感謝してくれる人がいるということ

2018年04月11日 09時20分33秒 | あれこれ考えること

一部の人達には「クレーマー」とさえ思われそうな、自分たちの市政に関する関わり方
現実に以前はある市議から「今度は何を文句言いに来たのだ」と言われたことがあった
でも、その時答えたのは「誰だって文句なんか言いたくない、そちらがちゃんとやってくれればいいだけのこと」
と念を押したのだが、その方は聞く耳を持たなかった

最近、裁判やら地域自治区の活動交付金の件で、税金が不当に使われているのではないかとの思いから
まずは地元の人達に現状認識をしてもらうためと、その対応策をするためにあちこち回っているが
その時言われるのが「あなた達のような人がいて良かった」という言葉だ

こうしていちいち教えてもらわないと、何が起きているかわからないし、わからないところで物事が
進められてしまう 大事な税金も無駄に使われてしまう
誰かがチェックしてくれないと(本当は議員さんの役目なんだが)訳のわからない使い方をされてしまう
代わりにチェックとか監視をしてもらっていてありがたい、、
その人たちは、だいたいこの様なことをいう

どういう訳か国と市は妙にシンクロしていて、市の拡大版が国みたいなところがあるが
ある立場の人にとっては我々のクレーマーに近い存在が、デモする人々とか政権におかしいと声を上げる人々
(野党だけでなく)

まだまだこの国では自発的に行動をおこすことは少ないし、そんなに物事を荒立てなくても、、と考えたい人も多そう
しかし、現実的にはこうした声を上げることによって(野党のお手柄だけでなく)裁量労働制のデータの撤回を、
そしてそれに基づく法案の撤回を手にした
そしてそれは結局多くの国民の為になった
文句を言う人達の存在が、自分たちの為になった、、
素直に物事をとる人はそう考えて、行動する人たちに自分では出来ない行動への感謝の言葉を述べる

このクレーマーと言われそうな人たちは「プロ市民」とは真逆な人たちだ
(少なくとも自分の周りでは)
第一にお金をもらって活動しているのではない、それどころか自らお金を出して行動している
そしてその見返りは、、、何もない
ただ、そうすることが正しいという気持ちと、それに対する満足感だけだ

世の中には、そういう人が存在する
確かに持続するためにはお金の問題は重要な要素だが
お金がなくても活動する、、お金をもらわないからこそ自由に行動できると考える人もいるのだ
(このあたりは、昨年読んだ行動経済学の本にも扱われたいた)

この意味で、新城市ではなんでも手当をつけて〜〜会議とか、そうした機関が多すぎるようだ
一旦お金をもらってしまうと自由な発言ができにくくなる
(精神的な上下関係ができてしまう)
確かに自分の時間を潰して活動してもらうのに、唯というのは多少問題があるかもしれない
でも上にあげたような弊害を思いつくのも事実
要はもう少し市に対する信頼感があれば良いのだけれど、今のところそれが全面的に信用、、
というわけにはいかないところが、少しばかり悲しい

自分らの行動が必要なくなる世界
それが本当は一番なのだが、、、これは非現実的な世界か、、、

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我慢強さとか忍耐力について

2018年04月10日 20時00分55秒 | Weblog

「事実は小説より奇なりです」
と言ったのは、異様に長い間拘留されている籠池さん
この言葉通りのことが、3月の朝日新聞のスクープ以来一気に動き始めている

加計学園の「首相案件文書」政府は今度はなんと言って言い訳をするか、、
ひねくれ者には少し興味があるが、流石に最近の情報の出方勢いは、
もう歯止めが効かないところまで来ているのかもしれない、、と田舎もんは思う

裁量労働制のいい加減なデータ、森友学園の公文書改ざん、イラク日報問題、
前川さんの講演に対する文科省の異様な問い合わせ、普通に考えると
もういい加減にしてくれ、、と言いたいところ
 
でも(自分にとっては不思議なのだが)国民の圧倒的な怒りにはなっていない
そこで少し忍耐力とか我慢強いということを考えてみた
これだけのことをされて国民は、それでもなお「なにもしないでいる」のは
国民が政治的なことに無関心であるのもあるが、悪い意味での「我慢強い」とか「忍耐強い」から 
ではないのか、、と考えてしまう

「善人の沈黙」が結果的には悲劇であるのと同様に、誤った忍耐力とか我慢する力は人々のためにはならない
我慢とか忍耐力というのは、この様な問題に対して問題提起をして、人々に訴え続けること
それが直ぐには響かなくても、それでも尚、続けること、、それこそが真の忍耐力とか我慢する力ではないのか

何かをしないことを継続することは簡単だが、何かをすることを継続することは難しい
たとえば禁酒禁煙の継続と、毎日10分の何かの勉強は、どちらが難しいと言えば圧倒的に後者
と言いつつも、怠け癖が板についてる身としては、偉そうに言えないが、それでも
やはり思うことは、悪い忍耐強さは良くないということ、、、
きっと、人は適度に怒って良いのだろう(キレるというのはいただけないが) 

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男の生み出す音

2018年04月08日 19時41分10秒 | 音楽

大相撲では女性が土俵に上がるのは伝統的によろしくないとか
時代に合わせて変化すべきだとの話が、世間では瞬間湯沸かし器みたいに
盛り上がっているが、かつてあった似たような話で自分はどっちかというと賛成できなかった話題

それはウィーンフィルのメンバーのこと
かつてこのウィーンフィルのメンバーはみんな男だった
時代の流れで男女同権、それじゃいけないということで女性も入れるようにとの
論争があったようだ
聞くところによるとアルゲリッチがウィーンフィルと共演を行わなかったのは
こうした男だけで運営しようとした姿勢にノーの意志を示すためだと言われる

今の時代、そんなものかな、、というのは分からないでもない
でも、正直なところ、男ばっかりの楽団の出す音、、というのも興味がある
同じことでも共感とか感じ方は男と女は違う
楽器を奏でるパワーも違う
ブルックナーの音楽は、女性に本当に共感するものか、、との思いを捨て去ることが出来ないが
仮にそうだとしたら、女性が入ることによってその音楽は、ちょっとばかり違ったものになりはしないか、、
男が無条件に共感する流れとか音色
それを当たり前のように男が音に出す、、こういう音が聞きたいとの思いを捨てることが出来ない
これは男女同権という以前に特質みたいなものなので、その特徴を活かすべく伝統は残してほしかったな、、
というのが正直な気持ち(怒られるかな?)

最初はウィーンフィルも大勢に影響のないパート、ハープなどに女性メンバーを登用したようだが
今ではコンマスも女性になっているみたい
今となっては仕方ないが、男っぽいウィーンフィルというのも、もっと感じたかったな
(フルトヴェングラーの指揮するベートーヴェンの7番のように、男っぽい熱狂を聴きたい気分)


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「内なる声」を聞く

2018年04月08日 08時38分29秒 | あれこれ考えること

「結局は同じことを言ってる」と感じることがある
それが自分だけの印象なのか、誰にでも通用する一般的なことかわからないが
すくなくとも自分はそう感じるのが、突き詰めたところの個人という存在

オルテガは「大衆の反逆」で、大衆の反対概念、エリートについて

「エリート」すなわち「選ばれた少数派」とは、「自分に多くを要求し、自分の上に困難と義務を背負い込む人」のことである。エリートは、「自分よりもすぐれた、自分の彼方にある規範にみずから訴えることが必要だと、心底から感ずる性格をもっていて、その規範のために易々として身を捧げる」のである。そのような自らに厳しい規律を課している人間であれば、寿司職人であろうがプロ野球選手であろうが、「エリート」と呼ぶことができる。反対に高級官僚であろうと財界の幹部であろうと、「自分に何ら特別な要求をしない人」であれば、それは大衆的人間にすぎないのである。大衆というのは「社会階級の区分ではなく、人間の区分、であって上層、下層の階層序列とは一致するはずがない」とオルテガは明言している。

私にとっては、貴族とは努力する生の同義語であって、常に自分に打ち克ち自ら課した義務と要請の世界に現実を乗り越えてはいっていく用意のある生である」再び確認しておくと、ここで言う「貴族」とは特定の階級のことではなく、人間の高貴な生き方のことである。これに対して大衆的人間とは、今の自分に満足し、安穏として暮らせる現状にあぐらをかき、自己鍛錬をすることなく、いい加減に日々を過ごしている者のことである。こうした大衆は、発達したし近代産業文明の中で、豊かに安全な暮らしを保障されるようになったことで世にはびこるようになった。大衆とは近代産業文明から生まれてきたのである。

最近気になっているのはハンナ・アーレントの「責任と判断」
そこで判断を下す個人についての描写がある

アイヒマンは「自分が単なる歯車に過ぎなかったシステムが実行したのだ」と答えた時に法廷は「それではあなたは、そのような状況において、なぜ歯車になったのですか?なぜ歯車であり続けたのですか?」
法廷は、歯車ではなく個人を裁く営みが作動していたからこそ、個人的な責任と法的な有罪性の問題を提起することができたのです。

そして道徳というところは

道徳的な知識の源泉がどこにあるとしても、それが神の命令であるにせよ、人間の理性にあるにせよ、健全な人間であれば、みずからのうちで、ある「声」が語りかけていて、その土地の方にかかわらず、また仲間たちの
意見にかかわらず、この声がその人に善と悪の区別を教えるものと想定されていたたのです。

この内なる声、理不尽なことを命令されて「私にはできない」と拒む心が素の自分だとして、自分の置かれている状況下では「仕方ない」とと判断仕勝ちになったとしても、自分の心のなかに住む二人との折り合いをつけなければならないのだが、自分を偽って生きることは、実はとても人として難しい、、、みたいなことが延々と述べられる

こうして取り出してみると、情けないくらい自分が何も理解していないように思えてしまうが、要は西欧においては結局のところ「個人の判断」内なる声を聴くということが、半ば当たり前のようになっているようだ
ただ、この「内なる声」の存在を、日の明るい中、日本で話すると、、どこか場違いな空気を醸し出すようなことがありそうだ(そんな感じがするということ)


佐川さん、その他の官僚の方々、大上段に構えて公僕としてどうあるべきか、、、と言われる以前に、「個人として」納得できる生き方や判断、それらを活かすことが出来ないとしたら、、
多分この国は、そうしたことに無関心、、

最近は深くものを考えない傾向、、わかりやすさ優先、それ故に単純な対立軸を壇上にあげる と言った傾向が強い
本当にこんなんで大丈夫か、、、
日曜の朝というのに、田舎のおっさんのちょっとした不安

やっぱり、まとまらなかった、ま、いいか!


 

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不正に対する怒りについて(男と女の違い)

2018年04月06日 08時16分01秒 | あれこれ考えること

男と女の違い
昨日の大相撲に関することではなく、自分の住む田舎の騒動に対する反応が
少しばかり男女差がありそうなので忘れないうちにメモ代わりとして、、

3月10日の中日新聞の報道があってから、ここでも時々取り上げているが地域自治区の
活動交付金の不正請求については、何かと注目されている
申請書類は報告書などを情報開示請求でチェックしてみても、独自に関係者に聞き取り
調査した人の話を聞いてみても、また事業が行われた現場の今を見に行って写真撮影してみても
想定されるのは同じような結論につながる

まだ新聞記事を知らない人もいるので、次の行動に移るべく今までの経過などを
おせっかいながら多くの人にお知らせする作業を行っている(現場写真を見せたりして)
そこでの反応が、少しばかり男女差があるように思えてならない

簡単に言ってしまえば、女性はこれらの不正とか、それから予想されるものに単純に怒りを覚える
一方男性は、それほど(一気に)怒りという結論には達しない
男の社会はあやふやな倫理観のもとで、仕方ないとされる行為が見逃されていることが
少なからずあって、(水清ければ魚棲まず)それを基準にすると、一気に怒りまで達することは無いのかもしれない
(と勝手に想像した)
よくないことはわかっているが、、、それでも、、、

こういう時の女性の正義感というのは、さっぱりしてる
それは視野が狭いとか、社会を知らないというのとは少し違う
それは子どもの正義感と似ている(みたい)

社会を知ってるつもりの男どもが、不正などに関して少しルーズで
社会を知らない(と男が思っている)女性が間違ったことを嫌う

いったい、どちらが優先される社会のほうが住みやすいのだろう
真面目すぎるのは確かに住みにくいかもしれないが、それでもやっぱり間違ったことはダメだ
という世界でないと、最終的にはうまく回っていかない気がする

ということで、得意の毒にも薬にもならない話、、、

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常識的な判断ができない怖さ

2018年04月05日 19時57分31秒 | あれこれ考えること

大相撲、地方巡業の舞鶴場所での出来事
市長が挨拶途中で急に倒れてしまい、尋常でない状態が発生した
周りの男どもは何も手につかずオロオロしているなか、女性が土俵に上って心臓マッサージを行い
具体的な指示もしているような映像がテレビ画面に映し出された

更に手伝おうとした女性が土俵に上がろうとすると
「女性は土俵に上がらないでください」のアナウンスが、、
(心臓マッサージしているひとも降りてください?)

この非常識なアナウンスに、メディアやツイッターは一気にバッシングを開始
例に漏れず、自分もこのアナウンスに怒りを覚えた

このアナウンスを行ったのは若い行事で、近くの観客席から
「女が土俵に上がっていいのか、、」という声を聞いて焦ってしまったためらしい
大相撲は伝統的に土俵に女性は上がれないとされて、それが当たり前とされていたので
そのような声を聞くと焦って適切な判断ができなかったというのだ

しかし、誰もが経験したことの無いような状況で、正しいと思われるような判断がなされなかったこと
これは少しばかり危機感を感じてしまう(怖ささえ感じる〉
人命優先で行動すべきという時に、凝り固まった規則(前例)に縛られてしまう判断
若い行事だけではない、その行事に聞こえるように「女が土俵に上がっていいのか」と声をかける人
その人の判断力というのは、いったいどうしてそんな言葉がでるのか、、自分の理解を超えている

判断というのは前例がない状況になった時は、全人格的な判断力がものをいう
その全人格的な判断は特殊な能力というより、おそらくどんな人間も納得できる直感的にそうすべきというものだろう
それが今回はできなかった
馬鹿げたアナウンスだけでなく、この騒動が一旦収まったあとでも、目の前で起こったこと
観客が今一番気になって心配していることを一言も伝えることもなく、それこそ何事もなかったかのように
「市長の挨拶は終わりました」の一言で済ませてしまったその姿勢と、その判断

この様に前例がない時に選択される判断が、どうやら怪しくなりつつあるのではないのか、、
ということが、今この国では至るところで見られないか
「判断ミス」それが今のこの国ではあまりにも多すぎないか、、
政治家も、政治家を選ぶ我々の中にも、、、





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二度目に挑戦「責任と判断」ハンナ・アーレント

2018年04月03日 08時15分05秒 | 

最近の関心事は、相変わらず答のないような官僚さんの思考と生き方とかについて
その立場であったなら誰もが同じようなことをしてしまうかもしれない佐川さんのこと
彼にはあれしか方法はなかったのか、それが法的・システム的にはどうだったのかは
マックス・ウェーバーの「権力と支配」で、それとなくわかったような気にさせられたが
どうにも理解し難いのは、個人としての感情をもった彼の選択

ということで、以前読んだはずの本、ハンナ・アーレントの「責任と判断」を引っ張り出して
二度目の読書に挑戦することにした(また読みかけの本が増えてしまった)

最初読んだ時は、何か重要なことが記されている実感はあったが、それだけの印象だった
その後「全体主義の起源」(2)(3)、「イスラエルのアイヒマン」をとりあえず最後のページまで
たどり着いた経験をしたあとで、これを読み直すと、一貫したハンナ・アーレントの思考が
すんなりと頭に入っていく感じがする

前回は付箋もつけず通して読んだだけだったが、今度はしっかり付箋をつけることにしよう
今回最初に付箋を付けた部分は

わたしたちはソクラテスと同じように、自分が悪を為すよりも、悪を為される方がましであると考えていますし、
それはごく自明なことだと考えていました。しかしそれは自明などではないことが明らかになったのです。
いままでは多くの人々が、どんな種類の誘惑にも抵抗できないし、結局のところ人間は誰も信頼できず、信頼に値しないものであり
誘惑されることと強制されることはほとんど同じことだと考えるようになっているのです。
この考え方の間違いを指摘したメアリー・マッカーシーの言葉を紹介しましょう。
「誰かがあなたに銃を向けて〈お前の友人を殺せ、さもなくばお前を殺すぞ〉と言ったとすると、その人はあなたを誘っているのです。それだけです。」
もしも自分の命が危うい状態では、法的にはこの誘惑は犯罪を犯したことの言い訳にはなりますが、道徳的に正当化する理由にはなりません。
そしてきわめて驚くべきことですが、最後にかならず判決が下される裁判であったのに、判決を下すことそのものが間違いだと主張されたのです。
その場にいなかった者には判決を下すことはできないからだというのです。
ちなみにアイヒマンがエルサレム裁判の判決に意義を申し立てる際に利用したのは、この論拠でした。ほかにもやり方はあったはずだし
殺人を犯す義務から逃れる義務から逃れることもできたはずだと指摘されると、アイヒマンはこれは戦後になって考えだした〈後知恵〉に過ぎず
実際に起きたことを忘れたか、知らない人々だけが信じているのだと主張したのです。

この文は、「裁く権利」へと続く
この部分だけでも、佐川さんのことを考えながら読んでいくと、いくつのも考えどころが発見できるような気がする
結局のところ西欧では「個人」としての判断というのが、「個の確立」を前提に問い詰められる
「そうなるとわかっていたのに、何故、個人としてそうしたのか、、、」
これらは一歩間違うと堂々巡りしそうな内容なのは事実
しかし、だからといってこういう答のないような思考を一度も経ずに、結論だけを性急に求めたがる傾向のある我が国の姿勢は
正直なところ少し不安

ということで、今のタイミングで重要そうな記述の多そうなこの本
しっかり読み返してみよう
そして付箋もしっかりつけておこう、、


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より上位の概念(法には触れていない、に対する)

2018年04月02日 08時11分03秒 | Weblog

それを自民党の議員の口から聞くとは思っていなかった
あるテレビ番組に出演した自民党議員が佐川さんの証人喚問について語った
「法的に問題がないと言っても、、刑事訴追の恐れがあると言って、、、応えないのは法より上位の、、」
正確な発言は忘れてしまったが、こんな流れの話で、そこから続くのは(自分の頭では)憲法しか思いつかず
話は憲法と続くかな、それなら解釈がいろいろありそうで面倒な議論になりそう、、
と予想したが、続く言葉は全然違っていた
続いたのは「より上位の、公平とか正義とか、倫理とか、、そういったものに照らし合わせて、、」
これも正確には覚えていないが、とにかく「法よりも上位の概念」として、一般常識的な要素とか善悪とか
人間性の問題を指摘したのだ

その話を聞いて永いことモヤモヤしてきた気持ちが吹っ切れた
「法に触れていない、、」の一言で片付けられることの多い国やわが町新城市の不祥事
全ては「法に触れていない」が免罪符の様になっていてそれ以上の追求はできなくなっていた
しかし、ぼんやりとしていて解釈も多々ありそうだが、それでいて多くの人が感情的に納得できそうな
「法より上位」な概念としてこうしたモノが存在することを確認したことは(自分にとって)大きい

話は飛ぶが昨年読んだ本の中に「サピエンス全史」がある
面白かった記憶はあるが大半は例の如く忘れているが、一つだけ記憶に残っていることがある
それは、生物は子孫を残すのが最優先事項となっていて、たいがいの生き物はそれで行動を
理解することができる、、つまり生殖をいかに(効率的に)行うかが、、問題
しかし、人類は奇妙な宗教と言うもの(?)を考えだし、そこでは未婚の男や女が聖職者として
活動し子孫を残すことはしない一生を送る
これは生物の生き方としては、どこか矛盾している、、
しかし、人類のトータルで考えると、この行為は全体としては生物としての人間の生き延びる方法を確保している、、
自分の理解の範囲ではこんな内容の話

このトータルで考える「あるべき世界」とか「想像上の世界」がホモ・サピエンスとして
とりあえずこの地球上を仕切っている大きな要因となっていると続いた
(だからこそ抽象的概念を扱う脳の発達が他と比べて格段と進んでいる)

人の世界は、一見精緻な法でコントロールされているかのような印象をもつが
そこには大前提として「法以前の」みんなが納得するものがある
例えばタクシーの運転手は乗客が犯罪をおこすなどとは考えず、乗客も運転手が悪意をもって何かするとは思わない
という前提で成り立っている
床屋さんでもあんなに怖いカミソリを悪用しないとの信頼関係でお任せしている
これと同じで、大半のひとは政治家に対して法より上位の、こうした常識的なものをもっているものと
当たり前に考えている
ところが最近は「法には触れていない、、」の一言が絶対的な力をもっているかのよう

何かを追求されたとき「法には触れていない」で言い訳するのは
「それを言っちゃあお終い」としたいところ
人はそれなりの人間性、正義感、倫理観を持っているとの前提で自分の仕事を分業として他の人間に委ねる
それらを裏切るということは、実は「法に触れていない」以上の問題なのだろう

ということで、全人格的な要素を否定されるような方々
国の政治家、わが町のある議員さん、はっきり言って「失格」
国民・市民の大前提となる信頼を裏切っているのだから、、

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このタイミングでの「ペンタゴン・ペーパーズ」

2018年04月01日 17時49分06秒 | 見てきた、聴いてきた(展示会・映画と音楽)

「ペンタゴン・ペーパーズ」を見に行った
この映画を見に行った人は、この一月の間に日本で起きた朝日新聞がスクープした
森友学園の公文書改ざん事件をつい連想してしまうだろう
当然ながら自分もその1人だ

日本の事件は、朝日新聞が森友学園との決裁文書が改ざんされていることを確認したとスクープした件で
この記事の内容が本当のものか、フェイクなのか疑問に思うのは当然で
朝日新聞の証拠は見せずに「確認した」の表現が憶測を生んだ
仮にこのニュースが真実であったとしても、これはおそらく内部告発によるもので
その場合は国家公務員の守秘義務に違反する、国家に損害を与えるなどのややこしい問題もは発生し
簡単には収まらないことも予想された

この映画も状況はそっくりだ
アメリカ国防総省(ペンタゴン)は泥沼化したベトナム戦争の詳細で客観的な文書を作成していた
その内容は、公にされているものとはまったく違っており衝撃的なものであったが
ある人物が文書をコピーしメディアに届けた(ニューヨークタイムス)

このネタと同じものが映画の舞台となっているワシントン・ポストも手にすることになったが
これをスクープとして扱って良いかどうか、、を悩むことになる
それは冒頭にあげた朝日新聞の例と同じく、国家秘密を暴露することは国家に損を与えることで
司法から違法との判断を受ければ新聞社の存在は保証されず、そこで働く人たちも路頭に迷うことになる

ワシントン・ポストは地方新聞で経営も脆弱
その為に他企業とか銀行とかに資本調達を要した
そしてこの新聞社のオーナー(最終決定賢者)は政権と食事をしたり誕生日会、結婚式などにも出席し
友達付き合いもしていた
友達付き合いをしていた人びとを裏切ることになる、、、もし、司法の場で違反の判決を受けると
企業としての存在が確保されなくなる、、、どうすべきか、、、

映画なので(実際の話らしいが)最終的には落ち着くところに落ち着くが、映画の上だとしても司法が
キチンと判決を出したのは、仮に今の日本に置き換えると果たして司法がこの様な結論を出しうるか疑問を覚えてしまうので
少しばかり羨ましく思ってしまった
それと競合するメディアが日本のような読売・産経新聞の朝日新聞に対する態度とは違って
普段は競争相手だが、この事件に関しては国民の知る権利を共同して訴えている

繰り返すが映画の上とは言え、羨ましい
現在の日本のメディアのお偉いさんは政権と定期的に食事をして「同じ釜の飯を食う」関係になっている
そうすればどうしても情が移り厳しい記事・放送はできなくなる
日本独特の記者クラブの存在も馴れ合いの素地をつくっている
そして記事は「発表報道」とか「うちわのある意図をもったリーク」が元となる
果たしてそれが真に人びとに益するものか、、、

この時期、このタイミングでこの映画が日本で上映されるのはあまりにも偶然の一致
そこにはある種の啓示があると思いこんでしまうのも無理からぬ事だ
だが、映画を見に来ている人は年配者が多かった
若い人は今日見た限りでは多くない、、これが少し心配

ところで思いっきり話は飛ぶが、映画の中でトム・ハンクスの演じる人物が
机の上に脚を載せてるシーンが多かったが、なんかみっともないな、、と思うのは自分が
日本人だからだろうか、、
俳優さんや大統領も座ってインタビュー・対談に応えるとき脚を組んでるのを見かけるとき
少し嫌だな、、と思ってしまうが、、あれはあちらでは当たり前のことなのかな、、

映画の評価としては、、言いたいことはわかるけど、イマイチかも知れない
(自慢じゃないが俳優さんは殆ど知らなかった)





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