パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

自然科学は暴力にすぎない

2012年03月28日 20時05分28秒 | Weblog

久々に真面目な話
先日の中日新聞「言論」というコーナーに
立教大学大学院教授の 内山 節氏の文章が紹介されていた

フランスのベルクソンの語ったことの一つに
「自然科学は暴力にすぎない」というものがあった
となかなか刺激的な導入部


科学は科学の方法でとらえた真理をつかんでいるに過ぎない。
つまり、科学の方法でとらえられないことは、科学では扱えない。
ところが科学者は科学の真理だけが唯一の真理だといい、
それを人々に信じこませようとする。
それは暴力だ、という論旨。

そして
人間の能力には様々なものがある。知識が豊富なのもひとつの能力だが
他にも運動の能力だとか、美術、音楽の能力、他人を思いやる能力など
実に多様な能力をそれぞれの人が持っているといっていい。
ところが、ところが偏差値が人間の能力を図る唯一の方法だとしてしまったら
それは暴力でしかないだろう、と続く

今の自分の年令になると、この手の話は非常に共感できる
上の話にもう一つ追加して言えば
人間の評価は経済的な成功だけで判断されるべきではない
ということ
日本で(?)エライ人というのは経済的、社会的に上位のポジションに
いる人のことを指すことが多い

しかし、その人達のそこに至るまでの努力や忍耐は認めるとしても
だからと言って特にエライというわけではない
むしろ、経済的な成功は、ある時期塀の上を歩くような
危うい場面を経験しなければならないことも多い
(政治屋の事を思い起こせば納得できるのでは)

エライ人というのは市井の中にも多く存在する
無条件に親切に行動できる人
(しかし、気分が悪いと良い人間の姿は見られない時もあるが)
当たり前のごとく、自分の年老いた両親・祖父母の世話をする人
こうした人は世間に知られていなくても
人は生きるに値すると感じさせてもらえる存在だ

話は戻って、ニュートンもデカルトも科学者の思考方法を
持った人物であるが、彼らが真剣に取り組んだ分野に
「神の存在」がある
日本だとなにかおぞましい話と思われそうだが
徹底的なこの分野の思考は、化学の分野に劣らず迫力がある

そもそも人間が全てを理解しうるというのは
おごりにすぎない
限界を求めて追求する姿は素晴らしいと思う
しかし、それでも我々の知ることのできるのは
ホンの僅かなことにすぎないと自覚すること
そこが全ての発想の原点にすることは
とても大事な事だと思うのだが

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 呪詛事件、待賢門院と長屋王 | トップ | サッカー小1.2年生の練習 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

Weblog」カテゴリの最新記事