親子で活躍しているスポーツ選手はそんなに多くない
最初は期待を込めて注目されても
結果がはっきり出る世界では、ダメなものはダメとされ
彼らは自分の生きる道を考えなければならなくなる
(自分自身の感情のコントロールを含めて)
タレントさんも似たような部分がある
だがスポーツ選手ほど結果がはっきり見えないので
なんとなく、生き延びていけるところもあるようだ
こうした実力が無いと干される社会と比べて大甘なのが政治家の世界
この世界では地盤・看板・鞄の言葉があることでわかるように
地盤は親のそれを難なく引き継いで、地元の人間もそれをやすやすと受け入れてしまう
政治家の実力とは覇権争いに勝つことではなく、実質的に効果のあることを決定し
実行することだと思う
だがこれは、ひとりだけの力ではないので単純な評価は出来ない
自民党の石破さんも小泉さんも河野さんも岸田さんも、もっとたどれば安倍さんも
親が政治家だった
問題は、それが今も選挙区で選ばれる重要な要素となっていることだ
独裁国家のトップは民主的な方法から選ばれたとする例は少なくない
ヒトラーはそうだった
不正な選挙があるかも知れないが、プーチンもルカシェンコもとりあえず
選挙で選ばれた
数年前はトランプさんも選挙で選ばれた
こうした例を見るにつけ、人は人を選ぶ能力を持っているのだろうか
とぼ疑問が頭に浮かぶ
そういう大衆(選ぶ能力のない人々)が力を持ってしまう怖さを問うたのが
「大衆の反逆」オルテガで、少し前の時代の分析だが、今も充分な説得力を持つ
選挙は多数決による決定方法の一つだが
多数決は物理現象とか数学的な理解には使われない
物理現象が多数決によって判断されるなどいうことは無い
そこでは精緻な思考と再現性と、、それによる因果関係で決められて
政治のような一種曖昧な多数決が通用する世界ではない
都知事選の時の強く感じたのはこの「人は人を選ぶ能力があるのだろうか」
という点で、あの時は自分たちと似た感じの人とされる人物が
予想外の数字を手に入れた
だが、そもそも自分たちと同じ感じだから選ぶということ自体が
選択判断において良いことなのだろうか?
それなら判断基準は何になるのか?
ということになるが、一般的に言われる政策論争では
ベースとなる複雑に込み入った社会背景の理解が必要だ
それを踏まえた上での政策の理解だが、現実世界はそこまで詳しい人はいない
そんな面倒なことを避けるためにそれらの判断を代わりの人物に依頼する代表制民衆主義
が存在するのだが、こうなると、「鶏が先か卵が先か」
(庶民の意識の高まりが先か、良い代表者の選択が先か)の論争になってしまう
でも、そういうときのために(よい社会には)人に常識というものが備わっている
精緻な考察をしなくても、常識で判断するとこうした方が良いと判断することが
割合妥当な結果を導き出すことは多くないだろうか
だが常識とか印象というのは騙されやすいのも事実だ
よく知っているとまでは行かなくても、よく見聞きするというだけで
シンパシーを感じやすいのは人の常
ということで、とりあえず政治家の選択は「親が云々」だけで選んではならない
と思うのだが、残案ながらこれは選挙区の人には通じないだろうな
いつものように、まとまらない話
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