パンセ(みたいなものを目指して)

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フルトヴェングラーの音色

2017年01月11日 19時51分27秒 | 音楽

なんの根拠もない、ただそう感じるというだけの話

先日のNHKテレビの「旅するドイツ語」にかつてウィーンの三羽烏
と言われたうちの一人、パウル・バドゥラ・スコダが出演していて
そのインタビューの話の中にフルトヴェングラーの思い出が
語られていた

カラヤンの前のベルリン・フィルの常任指揮者であるフルトヴェングラーは
もはや伝説的な存在となっており、その音楽を聴いた人たちからは
それこそいろんな表現で演奏の強烈な印象の言葉が発せられる

このパウル・バドゥラ・スコダの話もそのうちのひとつで
指揮が始まる前から(音楽が始める前から)すばらしいことが起きる
という予感に満ちて、実際にその音は決して忘れることが出来ない
と述べられていた

フルトヴェングラーの演奏を語る時にいつも取り上げられるのが
テンポの変化、即興的に速くなったり遅くなったり、そして休止の効果
弱音の緊張感とフォルテのものすごい迫力(音量だけではない)

しかし、最近は実は音色も独特なのではないか
と思うようになった
と言っても録音されたレコードやCDで聴いているときの印象や
感想に過ぎないのだが

ウィーン・フィルのときもベルリン・フィルのときも
重心が重いどっしりした音には変わりない
ただそれでも2つのオーケストラの音色は違う
少しウィーンの方が輝きというか明るさというか
そういったものを感じる
ベルリン・フィルの尖ったところのない柔らかな
音色もとても魅力的だ 

録音が違うと言ってしまえばそれまでだが
同じウィーン・フィルやベルリン・フィルでもカラヤンや
ラトルとは随分音が違う
ラトルは時代が違いすぎるから比較にはならないかもしれないが
比較的近い時代のベームの録音でもやはり音は違う

例えばベームのエグモントとフルトヴェングラーのエグモントは
冒頭から音色が全然違う
それは劇的な効果のある音と言うよりは
音色自体がとても特別なものに感じられてしまう

フルトヴェングラーはメンデルスゾーンヴァイオリン協奏曲でも
冒頭の音色はとても魅力的だし
トリスタンとイゾルデの全曲盤もベルリン・フィルではないが
他の人では絶対出せないような音色で濃厚なロマンティシズムを感じさせる

ベートーヴェンのあの第九でも3楽章のファンファーレのあとの寂寥感(1回目)や
荘厳さ(2回目)は 、他の人では感じることの出来ない音楽になっているし
シューベルトのグレイトでも第二楽章の転調するところの微妙さは
ものすごい効果的だが、これらを支えているのが音色のような気がする

昔「フルトヴェングラーかカラヤンか」という本で
テーリヒェンというティンパニ奏者が書いた文章の中に
フルトヴェングラー以外の人が指揮していた音楽の音色が
彼(フルトヴェングラー)の姿がそこに見えるようになっただけで
劇的に変わったというところがあった

やっぱり、人の存在によって音色は変わるんだ
物理的にはスコアの中のどの音を大事に扱うか
と言ったことに収斂されるかもしれないが
それでもここには人間の行うことの不思議さが
当たり前のように存在する 

それにしても、音色は別にしても何かを感じる人は
フルトヴェングラーの演奏を聴いて
何か巨大なもの(体験)がやってくる
との印象を持つようだ

しかし、最近の録音された音楽の音色(の傾向)を思うと
フルトヴェングラーの音色は、あの時代だったから出た
音色だったのだろうかとも思う
時代が音色や音楽の質を求めているとしたら
現代はもはやあのような切実な何かが詰まったような音は
求めることが出来ないのだろうか
いや、そもそも今はそれほどの切実感をもって
音楽を求めたりはしていないのかもしれない
それを思うと、現代は本当に豊かな時代か
と考えてしまう 

 


 

 

 

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