Biting Angle

アニメ・マンガ・ホビーのゆるい話題と、SFとか美術のすこしマジメな感想など。

この世界の片隅に(このセカ)探検隊3 ~中島本町編~

2014年08月08日 | この世界の片隅に
7月27日に広島の中島本町で開催された「この世界の片隅に」探検隊3に参加してきました。

こうの史代先生のマンガ『この世界の片隅に』で幼少期のすずさんが海苔を届けに来て迷子になった場所、
そして周作さんと初めて会った場所であり、物語の最後に再び訪れる場所が、この中島本町です。
当時の広島では有数の繁華街であったこの町も、広島への原爆投下によって一瞬のうちに全てが失われました。
現在は広島平和記念公園として知られている場所に、かつては映画や喫茶店といった娯楽施設が軒を並べ、
夜はモダンなすずらん灯に明るく照らされた通りを多くの人が行き来していたのです。

今回はヒロシマ・フィールドワーク実行委員会とのコラボレーションにより、かつて中島本町に在住し、
原爆投下時は現地を離れていたため難を逃れた3名の方から当時のお話を聞いた後に、平和記念公園で
当時の町なみをたどりながら片渕須直監督に解説をしていただく…という2部形式で開催されました。

講演前に、広島平和記念資料館の東館地下1階で「この世界の片隅に」アニメーション版複製原画展を見学。






会場には約40枚の複製レイアウトが2枚1組となって展示され、それぞれのパネルに日本語と英語で
どんな場所を描いた物であるかのキャプションが添えられていました。
緻密に描き込まれた町のレイアウトは見応え十分。添えられたキャプションも絵を理解する助けになります。

なお、展示会場の先を曲がった通路には、原爆投下前と投下後の中島本町を建物屋上から撮影した比較写真の
大きなパネルが置かれています。
これを見ると現地の徹底した破壊のありさまがよくわかるので、『この世界の片隅に』の舞台を知る上でも
レイアウト展とあわせて必見だと思います。

レイアウトの展示を見終わった後に、第1部の講演会場へ移動しました。
100人くらい入る部屋はほぼ満員で、全体的に年配の方が多い感じ。
特に探検隊に参加しない全体の半分は、60~70代以上の方が8割くらいを占めているようでした。

まずは中島本町出身の3名の方から、お話を伺いました。

最初に話されたのは丸二屋商店の緒方さん、昭和3年生まれ。
化粧品や石鹸を扱う丸二屋は大正2年に堀川町(現在の広島三越の裏あたり)で創業し、
昭和5年に中島本町に移ってから、昭和11年まで同地で営業したそうです。
当時は粉ハミガキが主流だったけれど、やがて練りハミガキが発売されたというように、
お店で販売していた商品にまつわるエピソードなども、写真つきで紹介されました。


緒方さんは後に陸軍士官学校に入り、8/6は朝霞駐屯地にいたそうです。
この時、広島の状況を見てきた上官には「広島には何もない。帰る家がないと思え」と言われたとのこと。
東京大空襲も経験された緒方さんは「戦争はいけない。アメリカの責任は大きい。」と語っておられました。

続いて濱井理髪店の濱井さん、高橋写真館の高橋さんからお話を聞かせていただきました。
今回の語り手では最年少の濱井さんは昭和9年生まれ。当時は11歳の遊び盛りだったそうで、
中島本町で過ごした幼少期を懐かしく語ってくれました。

緒方さんと同い年の高橋さんは、実家の店を含めて写真館が4つもあったこと、豆腐売りや花売りの行商、
映画館の壁に穴があいていて人が覗いていた事など、当時の盛り場の雰囲気を生き生きと伝えてくれました。
当時は中島本町を取り巻く川を帆掛け舟が行き来しており、橋をくぐる時は帆をたたんでいたなど、原作で
すずさんが船に乗るエピソードに通じる話も披露されました。

こうしたお話のバックでは、当時の写真や再現地図などの資料が次々と映し出されましたが、これらはすべて
片渕監督が収集したデータを、監督自身が操作して映写していたもの。
事前打ち合わせはあったと思いますが、パソコン内の膨大なフォルダやファイルの中から話者の語りに応じて
次々と関連資料を見せていく監督の手際のよさには驚きました。

イベントで片渕監督が集めた資料の本棚が映し出されると、あまりの分量に観客から驚きの声が上がりますが、
映像を出す前に見えるパソコンの中もほとんど同じか、それよりも分量が多い印象です。
その中のどこに何があるかを覚えている片渕監督は、きっと並外れた記憶力の持ち主なのでしょう。

地元のお三方のお話に続き、片渕監督からは現在製作中の『この世界の片隅に』についてのお話がありました。
書き漏らした部分も多いですが、以下にメモした内容を写しておきます。
(文中カッコ内は聞き手による補足です。その他にも聞き取った範囲で意味が通りやすくなるよう、
 細部で内容を整理しています。発言そのままの記録ではないことをご了承ください。)

 (監督のイメージとしては)「まず世界があって、その片隅に女の子がいる。」
 この女の子のいる片隅を描くには、この世界を知らなくてはならない。

 原作のマンガには(背景等の)全てが描いてあるわけではない。
 よく「人物があって世界がある」というが、実は「背景」というものはないのではないか。
 単に世界のすべてがクローズアップにならないというだけで、(物語の都合上背景となってしまう物事にも)
 すべてに意味がある。

 何年か前までは広島に来たこともなかったが、(この作品のために広島に来るようになって)もっと大きな
 世界の中で、広島がようやくわかってきた。
 (そうしているうちに)中島本町を描くためのレイアウトが、中島本町を囲む場所まで広げて描かざるを
 得なくなってしまった。
 どこまで自分たちが知った気になっても、(物語の舞台を取り巻く世界が)それを許してくれない。

 原作ではヨーヨーが描かれているが、こうの史代さんが当時のヨーヨーブームを知らずに描いたとは
 思えなかったので、ご本人に直接聞いたところ「私は歴史に詳しくないので、最初に年表を作ったら
 ヨーヨーブームが出てきたので描きました。」とさらっと答えが返ってきた。
 (こういう原作を手がけるからには、アニメ化にあたっても相当に調べなくてはいけないということ。)

 いま写している中島本町のレイアウトでは丸二屋が出てくるが、この看板は丸二屋さんに話を聞く前のもの。
 その後に何パターンも修正している。
 (ここで同一のレイアウトで看板を描き直したものが何枚も映し出される。)
 アニメーションを作るのにそこまでする必要はないが、想像しないとその世界がどんなふうなのかが
 わからない。
 世界の形を知るよすがが、建物の形などになる。

 濱井理髪店のレイアウトは、濱井さんに話を聞きながらレイアウト修正をした。
 高橋写真館の向かいの建物は後にカフェ・コンパルになり、これが焼け残ったあとに新しい建物が
 増築されたのではないか。(高橋さんから「そのとおり」との指摘あり。)

 新相生橋は洪水で流された後の修理によって大正と昭和では手すりが違うとわかって、あわてて描き直した。
 すずさんの実家が海苔を作っているので海苔漉きの体験もしてみたが、東京と広島では漉き方や道具が違うと
 わかったので、簀巻きの材料をヨシから竹に変更したこともある。

 マンガの場合、白い部分には無限の可能性があるが、アニメではなにかを描かなくてはいけない。
 では何を描くか。
 たとえば原作の1コマに出てくる奇妙な道具が、広島の西半分だけしか使わない盆燈籠であることは、
 東京の人間にはわからない。
 原作を読むことが知的冒険であり、(その中で世界が)たまたま見えてくると、どこまでも見えてくる。
 その世界は現在までつながっている。

 アニメーションが自分たちの描いた世界をどこまで拡張できるか、これも自分たちの冒険だと思っている。


最後に片渕監督から「11月の広島国際映画祭で機会を与えられたので、その時には中島本町の動く絵を
お見せしたいと思っている。」との最新情報が伝えられ、イベントの第1部が終了しました。

第2部では広島平和記念公園に移動し、公園内に設置された説明板等を巡りながら「原作で少女時代の
すずさんが歩いた道」を、中島本町の入口にあたる本川橋から終点の相生橋までたどりました。

当時の写真パネルを見せながら、原作ですずさんが歩いたと思われる場所について説明する片渕監督。










「ここからは商店とかが続くにぎやかな場所なので、たぶんすずさんはこっちへ入っていって道に迷ったのでは」
といった、原作に出てきたシチュエーションについての考察もありました。

しかし実際に回ってみると、防府や呉の探検隊に参加した時とは決定的な違いを感じてしまいます。
それは、当時を想像させる地形や建物がこの場所には一切残っていないこと。

『マイマイ新子と千年の魔法』の舞台となった防府では、映像に出てきたのと同じ形をした山を眺め、
新子たちが見たのと同じ国衙の石碑の前に立ち、千年前と昭和30年の時空を同時に感じられました。
呉ではすずさんが見下ろした海を同じ角度から見下ろし、すずさんが歩いた道ぞいに建つ蔵の前を歩き、
実在しない人物がいたはずの実在する場所を目の当たりにしてきました。

しかし、中島本町は爆心地から半径500m以内に位置していたため、原爆の投下によって
そこにあった町と人の全てが失われています。
そして戦後、この場所は住民が立ち退かされ、新たに盛られた土の上に平和記念公園が作られて、
かつての町の痕跡は公園内に設置された説明板だけとなりました。

だからここには当時の道もなく、建物もなく、人の生活の痕跡もない。
現地を回って説明を聞いても、その説明がいま見ている風景となかなか結びつかないのです。
すずさんがここを歩いたんだなという感覚が、自分の中に湧き上がってこないというか。

なんだか砂を掴むような、ここにあったはずの人の営みのすべてが拭い去られてしまったあとの
きれいになった場所に立っているような、ちょっと言いあらわせない無常感。
この身を切るようなつらさは、いままでの探検隊では感じたことがありませんでした。

平和記念公園の意義を否定するつもりはまったくありませんが、今回の探検隊で何よりも強く感じたのは、
公園化事業によって失われてしまったものの大きさかもしれません。
ああ、ここは本当に「戦前・戦中」を徹底して葬り去ってしまった場所なんだな…と実感することの痛み。

なお、この平和記念公園でデビューした建築家の丹下健三は、のちに東京オリンピック国立屋内総合競技場
(代々木体育館)や大阪万博会場、新東京都庁などを手がけていきます。
ある意味、この平和記念公園で始まった「戦前・戦中との訣別」が、後の丹下建築、そして高度成長期の
日本の姿を形づくっていったのではないか…そんな思いも浮かびました。

うろ覚えですが、かつて片渕監督は『この世界の片隅に』のアニメ化を手がけるにあたって、
「原作を読むと、戦中の暮らしが戦前とはガラリと変わったわけではないということがわかる。
 戦時中にも人々の変わらぬ営みがあり、変わらぬ喜びや悲しみがあったことを描きたい。」
 という趣旨のお話をされていたように思います。

戦前・戦中の人々の痕跡が失われた中島本町は、今回のアニメ化で最も描くのが困難であると共に、
この作品が挑もうとする「戦前から現在までを貫く人の営みを描く」というテーマを表現するうえで、
最もふさわしい場所でもあると思います。
片渕監督や浦谷さん、松原さんたちの今の苦労が、やがて作品として大きく結実することを信じながら、
こちらもじっくりと腰を据えてアニメの完成を待ちたいと思います。

探検隊の終了後は、完歩証がわりのアイスが配られました。

ちなみにアイスの下に置いてある扇子は、急ごしらえの手製です。
あの日から69年目の中島本町に、どうしてもすずさんを連れてきたかったものですから。

その後はコミケよろしく、急ごしらえの物販コーナーが開店。
片渕監督のサインもいただけるとあって、青葉のポスターやこのセカTシャツ、手ぬぐいなどが
次々と売れていきました。

ポスターが折れ曲がらないようにとバズーカのような図面ケースを背負ってきた猛者も多数。
ここにもファンの熱意を感じました。

次の販売は9/28に阿佐ヶ谷ロフトAで開催されるイベント「ここまで調べた『この世界の片隅に』」を
予定しているそうなので、欲しい方はぜひ同イベントへお越しください。
今回の探検隊についての報告や最新の成果について、片渕監督や松原さんから直接聞けるかもしれませんよ。
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