Biting Angle

アニメ・マンガ・ホビーのゆるい話題と、SFとか美術のすこしマジメな感想など。

ラース・フォン・トリアー監督『メランコリア』感想

2012年03月10日 | 映画
ラース・フォン・トリアー監督作品『メランコリア』を見てきました。

まずは冒頭8分間に凝縮された、地球滅亡のヴィジョンが圧巻。
ハイスピードカメラ「Phantom HD GOLD」で撮影された俳優たちの動きが、落下する鳥、
ぬかるんだゴルフコース、キルリアン写真のような放電現象、そして2つの月といった
超現実的な光景と組み合わされることによって、まるでシュルレアリスム絵画のように
魅惑的な映像を作り出しています。
それはまさに、破滅の直前にしか見ることのできない甘美な光景とも言えるでしょう。

特に屋敷の前で3人の人物が並び、天にふたつの月がかかる場面は、マグリットの代表作とされる
「光の帝国」を映像化したような美しさ、そして静謐さ。
また、花嫁が草花に囲まれて水に浮かぶ姿は、作中でも出てきたジョン・エヴァレット・ミレイの
「オフィーリア」へのオマージュですね。
(そういえばキルスティンが月光浴する小川も、ミレイの描いた構図とよく似てた気がします。)

一方で宇宙に浮かぶ惑星メランコリアと、それに隠されていく太陽による「宇宙の日の入り」は、
明らかに『2001年宇宙の旅』を意識したもの。

そして、メランコリアとの激突により粉砕される地球と、そこで朗々と鳴り渡るワーグナーの
「トリスタンとイゾルデ」は、人類のあけぼのを描いた『2001年宇宙の旅』に対して、
『メランコリア』が人類の終焉を描いた作品であることを強く印象づけます。

そしてこれだけ大きなスケールの映像をプロローグで見せておきながら、いざ本編が始まると、
狭い車内でべたべたする新郎新婦のカットから入るのには虚を突かれました(笑)。

手持ちカメラでの撮影は映像酔いするとの声も聞かれますが、私はあまり気になりませんでした。
むしろ固定カメラによるフレームの決まった映像と比べ、ドキュメンタリー調の演出を施す上では
かなり効果的だったと思います。

新郎新婦が乗るリムジンの接触事故に始まり、結婚披露パーティでの小さな衝突やヒロインの繰り返す
様々な逸脱行為、そしてカップルの破局という前半の流れを見ると、これらの人間関係そのものが
実はミクロな「宇宙」の寓意であり、やがてそれらを飲み込んで起こる、マクロな「宇宙」での衝突と
対比されていることがわかります。
そして地球とメランコリアによって演じられる「死のダンス」も、宇宙という巨大なパーティの中では、
ほんの小さな一幕に過ぎないのです。

人が通常認識できる「宇宙」の外側には、さらに巨大な「宇宙」があって、それらは人間の意志とは
何の関わりなく進行し、その果てに感慨もなく地球すら消し去ってしまうかもしれない・・・。
その不安感こそ、人間が常に感じながらも目を背け、意識から締め出している「憂鬱」ではないのか。
そして人間が、この「憂鬱」と真正面から向き合わなければならなくなったとき、どのような心理で、
どのように行動するのか。
こういったテーマをストレートに描いたのが、『メランコリア』という映画なんだと思います。

そして劇中、メランコリアが地球から見えない太陽の裏側にあった“惑星”であると説明される部分は、
「人間の認識になかっただけで、以前からそこにあったもの」という点において、人類全体が抱えている
「憂鬱」との共通性を意味するようにも思えるのです。

また、劇中に科学的考察による破壊描写や対抗策の提示がないとはいえ、かつてない悲劇に直面したときに
人間がどのように振る舞い、どのように最期を迎えるかをじっくりと考察したこの映画を、優れたSF作品として
評価しない理由はありません。
むしろ極限状況における人間の内面へと迫る描写は、ブラッドベリやマシスン、あるいはティプトリーといった
名だたるSFの名手たちが書く、優れた小説の味わいを持っていると思います。

私たちはいま、同時多発テロや東日本大震災を経験した後の、かつてない「憂鬱」の時代を
生きているように感じます。
それは戦争や災害といった極限状態とは違う、延々と引き伸ばされた息苦しさに近いもの。
その人類の絶え間ない不安の象徴こそ“メランコリア”という星であるとも解釈できる一方で、
地球の消滅という事態の前には、人類の抱える憂鬱など実に小さなものとも言えるでしょう。

・・・あるいは人間がひとつの星の運命についてあれこれ言うこと自体が、既に傲慢なのかもしれません。
(その愚かさを代表する存在が、キーファー・サザーランドの演じる科学者のジョンではないでしょうか。)

といっても、自然破壊や地球温暖化、そして各種の汚染に我々が何の策も講じなくてよい、と投げやりに
言うつもりは、これっぽっちもないですけどね。(実際に死んでしまうのは、私もイヤですので)

むしろ、自分たちの振る舞いが自らの身にに跳ね返ってきた後に、ようやく環境保護について騒いだ挙句、
それを自戒ではなく地球への愛情にすり変えようとする一部の考え方の中にこそ、人間の根っこにある
どうしようもないご都合主義、もしくは卑しさといった悪意を感じます。
(震災後に起こった様々な問題も、結局はこのご都合主義と卑しさが大きな原因にも思えますし・・・。)

そんな人間の卑小さを露骨なまでに暴きつつ、美しい映像と共に観客へと突きつける「知的な残酷さ」こそ、
この映画の、そしてラース・フォン・トリアーという監督の真価である・・・私はそう思っています。

そして『メランコリア』のクライマックスに訪れる映像は、私にとっては光と轟音の洪水によって
人間の業を洗い流す、一種の“浄化”のようにも感じられました。

トリアー監督は、いまや地球規模のサイズにまで膨らんでしまった人類全体の「憂鬱」に対し、
それより大きな「憂鬱」をぶつけることで、究極の治療を行ったのかもしれません。
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