DALAI_KUMA

いかに楽しく人生を過ごすか、これが生きるうえで、もっとも大切なことです。ただし、人に迷惑をかけないこと。

夢(5)

2014-01-06 16:19:28 | ButsuButsu


琵琶湖総合開発と水位調節(2)

1970年代に都市から地方へ、開発の比重を移していくことの象徴の一つとして琵琶湖総合開発は位置づけられた。

措置法の第一条(目的)には、「この法律は、琵琶湖の自然環境の保全と汚濁した水質の回復を図りつつ、その水資源の利用と関係住民の福祉とをあわせ増進するため、琵琶湖総合開発計画を策定し、その実施を推進する等特別の措置を講ずることにより、近畿圏の健全な発展に寄与することを目的とする。」と書かれている。

1972年から1981年にかけての10年間で4266 億円の事業費で始まった開発事業だったが、1982年に事業変更と10年間の期間延長がなされ、1992年にはさらに5年間延長され、実に25年間で総事業費約1兆9000億円を費やして1997年に終了した。

事業としては、基準水位プラス30 センチメートル、利用最低水位マイナス1.5メートル、計画最高水位プラス1.4メートルとして、最大毎秒40 立方メ―トルの水供給を可能にした。

また、流域・公共下水道の整備、土地改良の実施、湖周道路の建設、洪水対策などを実施した。

この間、1973年と1979年に石油ショックがあり社会システムが変わったため、都市域における工業用淡水補給量が減少するようになってきた。

さらに、琵琶湖の環境保全を求めて、1976年には琵琶湖総合開発計画工事差止請求訴訟(びわ湖訴訟)が提出された。

関連した訴訟は6件に及んだが、1989年には被告側(水資源公団、国、滋賀県、大阪府)の全面勝訴で結審している。

図に示したように、1971年から2000年までの総流出量(瀬田川、宇治発電、京都疏水の総和)は、年間60億トンから30億トンの間で変化している。

この間の最低水位は彦根で1974年にマイナス1.23メートルに達した。

この年は、彦根における年降水量が1137mmと極端に少なかったことが原因であるが、この結果琵琶湖北湖の透明度が高くなり、大量の水草が発生することになった。

その後、流れ藻となって南湖に漂着したため、現在ではほぼ全域にわたって水草が優占する状況になっている。

このことはアオコを形成する植物プランクトンやユスリカの減少をもたらしたが、一方で漁業や船舶の航行に支障をもたらし、また腐敗した水草が悪臭問題を引き起こしている。

琵琶湖の水位は、平成3年までは出水時ゼロ水位付近に保つようにしていたが、平成4年以降、5月中旬には水位がマイナス0.2~0,3メートルとなるように変更された。

しかし、この時期にコイやフナが産卵することから卵の干出死を避けるために、国土交通省は下げすぎないような水位調節を試行している。

このような操作が現実的にどの程度効果的かは不明であるが、琵琶湖の漁獲量は1980年代後半から劇的に減少しているので、別の構造的な問題があるように思われる。

例えば、この時期に急激に起こった水温上昇について十分な考察が必要である。

いずれにしても琵琶湖を取り巻く環境は、長期的なトレンドをもって変化しているので、それを無視した対策は無駄かもしれない。
コメント
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