私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

小雪物語ー松虫のへだて心

2012-06-15 07:17:13 | Weblog
 それから2、3日後の事です。
 「小雪小雪、どけえおるん。はようおりてきんせえ。えらいこっちゃ。大阪屋一代の晴れごとじゃ。小雪が立役に決まったんじゃ。」と、例の天に突きささるような嬉々とした声が家中に響きます。
 小雪は、女将お粂から、岡田屋熊次郎興行の来春の卯月の「総宮内おどり」の立役に、小雪自身に決まったのだという話を聞きました。でも、小雪には女将のいう立役というものが何であるか見当すら立ちません。そして、これが、これから先の小雪の生きる定めにどのように関わって行くのかすらも分かりません。これまで、20年も生きてきて、その自分の身の上に起きた諸々の出来事は、総て、この立役と同じように、先の分からない、まるで雲の中を歩いているような見当もつかないような悲哀に満ちたことばかりで、生きていてよかったと云う気持ちなんて味わったことはないように思える小雪でしす。そして、又、いつもの、「どうなってもしょうおへん」と云う、何時ものあきらめの気持ちが小雪の体の中をぐるぐると駆け巡るのでした。
 そうこうしているうちに、文月のもう終わりごろになっていたでしょうか、それはそれは大変な暑い日でした。「総宮内おどり」の練習が、練習宿に決められた旅篭屋や料亭などに分かれて始まり、小雪は、その総おどりの立役という事で、特別な菊五郎さんの振り付けのお稽古が瀬戸屋の離れを使って始まりました。
 この稽古が始まる前、菊五郎が、特別に小雪の立役としての「心構えを話しておくから」と、瀬戸屋のお座敷に招かれます。
 お庭には、木々の間をうねるように、うずみ樋から流れ出す細谷の水でしょうか、ちょろちょろと心地よい音を立てて流れています。
 菊五郎さまはお床の前に、にこやかにお座りになっていらっしゃいます。宿のお上さんに案内され、小雪は、お座敷の端近くに座り、「どないなお話かしら」と一寸不安。
 「まあ、もそっとこちらへ、そんなに遠くては話もでけん。小雪さんを何も捕って食らおうというのではない。もう知っていると思うが、お前さんに今度の会の立役をお願いすることにした、そのお稽古が始まる前に、少々話しておきたいことがあって呼んでもらったのじゃ。そうそうそこらでよい」
 と、ニコニコ顔で云われます。
 「少々難しいかも知れませんが、まあ聞いてくださいな」と、これも備前の茶のみ茶碗をお取りになり、ご自分のお膝のところに置いてお話になるのでした。
 芸と言うものは、追えば追うほど、あちらこちらと、逃げてしまうもだとか、かといって追わなければ自分のものにはならないとか、自分の心を空っぽにして、自分の心を捨てて、舞の心で踊らなければとかと、次々に、小雪には、今までついぞ聴いたこともない、全く訳も分らないような新しい事ばかりをお話になられました。今から、たった半年という短い間に、おどりの奥義総てを掴みきることは、到底、出来ないが、一つだけ心に留めてもらいたい事がある。これだけは、半年の間に作り上げて欲しいと、小雪の目をじっと見つめながらお話になられます。
 「京女であるお前さんは聞いたことはあると思うが、源氏物語と言う本があるのだ。・・・その中の鈴虫の段という所で、主人公の光源氏は、鈴虫を『心やすく、今めいたるこそろらうたけれ』と、また、松虫を『いとへだて心ある虫になむありける』と言っています。そして、『らうたけれ』という鈴虫より『へだて心』の松虫の方が優れているとその光源氏が云っています。」

小雪物語―扇をかざす

2012-06-13 20:12:34 | Weblog
 「そんなに体を堅くしていては話も出来ん。もっと楽にせえ。・・・きくえがお前の名を上げたもんで、とにかく、菊五郎さんも是非、その小雪さんとやらに会って見たいと言われたので、お粂さんに無理をゆうて来てもろうたんじゃ」
 この街道筋きっての『岡田屋熊治郎』大親分さんの名前からは、到底、想像もつかないようなやさしさのあるお言葉が小雪の下げた頭の上を通り過ぎて行きました。
 「このお人が菊五郎、いや、今お江戸で、名女形と皆からはやされておいでの、沢村菊五郎さんです。来春の鳴竈会で、遠路お出ましいただく全国の親分さん達のお出迎えに、この宮内の女どもを総動員した何か、出し物というか総踊りのような物をして歓迎してはどうだろうかと思うてのう。その出し物の総てを、この菊五郎さんにお任せし、仕切ってもらうことにしたのだ。今、その中心となるおなごを色々と捜しているのじゃ。あれではどうか、これではどうかと、いろいろ探して貰っているのじゃが、どうもこの菊五郎さんのお目に留まるようなええおなごがおらんのでのう。是非この女をと言うのがのうて困まっとるんじゃ。・・・・何処でどう聞いたのか知らないが、うちのきくえがのう、どうして知っていたのかは知らんのじゃが、お粂さんところの小雪ならどうかと、あんたの名前が出たんでのう。ええか、わりいかは、この菊五郎さんに見てもらわんとわからんけえな。そんなことで来てもろうたんじゃ」
 「ご苦労さんですねえ。あなたが小雪さんですか、体に力をあまし入れないで、ゆっくり、私の注文を聞いてくださいな。そんなに難しい事はありませんからね」
 女形の江戸の花形役者さんです。言葉にも、その立ち振る舞いにも、お役者さんらしい優雅な奥ゆかしいものが、伝わってきます。力を入れないでと言われても、その江戸の女形言葉をお聞きするだけで、自然に体全体が堅くなっていくように小雪には思えました。
 そんなことになるなんて初めて知った小雪です。「うちなんてそんながらではおへん」と鄭重にお断りしたのですが、「まあ、折角あんたの名前が出て、ここまで来てもろうたんだ。一寸見てもらええ」
 有無を言わさない親分の威厳でしょうか、小雪は、ただただその場に小さくうずくまります。
 「まあ、そんなに緊張しなくてもいいのですよ。小雪さん。・・・・一寸あなたのたち振る舞いを見るだけです。そんなに難しい事は云いません。私の云う通りの仕草を見せていただければ結構なのです。・・・まず、お立ち願えないでしょうか。もうちょっと、こちらへよってくださいな。・・そう、そこで始めましょう。まず始に、左へ回って、右の手を頭にかざして、そうそう、もう一度左に回ってくださいな。ええ、ここに舞い扇があります、これを開いて右手に持って、いっぱいに伸ばし、今度は右に回って。右足を横に・・・」
 菊五郎さんはじっと小雪の動きを見つめています、まぶしいような目の輝きです。
 「小雪さんは、聞くところによるとあなたは京女だそうですね。どなたかに京舞をお習いでしたか」
 「いえ、いえ、・・でも、家でお稽古しているおっかはんの踊りは、ちっちゃなときどしたが、時々見たことがおました・・・」
 胸が大きく動悸打ち、それだけ云うのが精一杯でした。きゅんと又あの痛みが走ります。
 「どうも、お疲れさんでした。もう2人か3人のお人の舞を見ます。ありがとうさん」
 菊五郎さんは、優しく小雪に微笑みかけながら、そう言いいます。
 「お茶でも飲んで行け」という熊治郎大親分の優しげな言葉を背中で聞きながら「おおきに」と、小さく頭を下げただけで、駆ける様にして熊次郎親分のお屋敷を後にしました。
 

小雪物語―岡田家の九条藤

2012-06-12 10:22:18 | Weblog
 万五郎親分に引きずられるようにして、小雪は初めて岡田家の敷居をくぐりました。その軒場いっぱいに紫の懸け幕が張り巡らされ、京の九条家のご紋「九条藤」が、左右に一対、大きく白く浮き立っています。これも、又、仰々しく九条家の下がり藤の紋が黒々と入った吊提灯が軒下に数個下げられており、その提灯が後ろの懸け幕の紫に映えて如何にも神々しさを物語るかのように生え映っておりました。
 京の九条家といえば、摂家で近衛家に次ぐお家柄であり、庶民の生活とは関わりない特別の天上人であり随分と近づきがたいお公家さんであるという事は小雪でも知っています。でも、どうして、あの京の九条家のご紋が、こんな備中宮内みたいな鄙の場所に掲げてあるのだろうかと何となく不思議に思いながら一歩、一歩と歩を進めていきました。
 「どうぞこちらへ」という乾児さんの案内で岡田家の玄関を上がります。自分が天井か何かに押しつぶされてしまうのではないかという、そんな緊張した気分になって、じっと下を向いたまま、親分さんの後を、ただ付いて、槫縁(くれえん)の一直線に伸びた板に沿って、恰も、その板から一歩も自分の足を踏み外さないかのように真直ぐに歩いていきます。
「親分、連れめえりました」
「ああ、へえりな」
 熊五郎大親分らしいお方の、流石と思わせるようなそこら中を圧倒するような低い、これがどすがきいているというのかしらと思えるような声が静かな部屋の中じゅうに流れます。その声に圧倒されるように、小雪は小さくなった体を余計に小さくしながら、万五郎親分の後ろに従います。
 あの堀家家を尋ねて以来の緊張で、何か胸のあたりが急にきりきりと舞いあがるほとの痛みを覚えながら、それでも静々と、ただ、万五郎親分の後に添い、敷居をそっと一,二歩跨たぎ、その場にきちんと正座して、
 「よろしくおたのみもうします」
 と、慣れないお江戸言葉で、やっとこれだけの声が小さく響きます。ただ後は、遊び女という引け目に今日も又苛まれながら、深々と畳に擦り付けるよう頭を下げておりました。周りの様子など一切小雪の目には入りません。

小雪物語―小雪の舞い

2012-06-10 13:45:13 | Weblog
 来春、癸丑、春の吉備津様のお祭りの前、卯月の吉日、二日から三日の間、この「宮内大鳴竈会」と銘打って、全国津々浦々の百数十人の大親分さん方をお招きして、賭博の会をお開きになるということです。乾児さん方の数を合せると数百人のお人が、この宮内にお集まりになり、それを見学する近郷近在のお人達を合わせると、元禄の頃、この宮内に大石内蔵助という赤穂のお武家さん行一行がお泊りになって以来の大変たくさんのお人がお集まりになると言う事です。また、賭博をこれほど大々的に開くと言うのも、それはそれはとても大きな前代未聞のことになるということです。
 それだけ、いっきにお話になると、お粂さんの差し出されますお銚子を大きな茶飲み茶碗にお受けになって、一息に飲み干されます。
 「働くなといっておいたのに、林さまに顔向けできん」とかなんか言われていましたが、小雪はお粂はんの部屋からそっと抜け出すように出て行きました。

 それから二,三日後です、「小雪、小雪」と、喉がつぶれたような親分さんの大声。
 「また、お叱かられ。今度はなんどすかしら」
 親分のお前に小さくなって座りました。突然に親分さん。
 「小雪、お前、舞が上手だとな。本当か」
 「いえ。・・・・ずっと前、ほんのちっちゃな時分に、母さんに、一寸振り付けてもらうたことがあるぐらいどす」
 「でもどえれえ評判だぞ。まあそれはどうでもええ。今度の会にお招きした親分さん方に当座の余興として、この宮内の踊りを披露して、皆さんに見ていただくことにしたのだ。
 丁度、お江戸の役者の沢村菊之助さんが、宝暦の頃作ってくれた浪速の役者、三枡大五郎さんが振り付けた宮内おどりを基にして、より華やかに作り直して、指導してくださるという事だ。この街にいる百数十人すべての技芸娼婦を動員して、京の都おどりに向こうを張って、「総宮内おどり」を披露する事にしたのだ。その立役に誰を使うかという事になり、その場で小雪の名前が一寸出たのだ。結局、菊之助さんが選ぶのだが、熊五郎親分さんの娘さんのきくえさんが、どうしてだか知らないが、小雪を随分推していたようだ。その小雪に是非合いたいと、菊之助さんが言われてな。すぐ俺と一緒に、親分さんのところに行ってもらわなくてはならなくなったのだ。」
 と、小雪の考えなど到底聞き入れてはくださらないといった雰囲気です。仕方なく身の回りを一寸こぎれいにしただけで、親分さんの後について岡田家のお屋敷に向かいます。
 「あまり心配しなくてもいいよ。この人がついているもの。でも、どうして小雪さんが。大丈夫かなあ」
 と、心配顔のお粂さんが励ましてくれます。
 

九条家の家紋「下がり藤」

2012-06-09 12:30:39 | Weblog
 九条家とは藤原鎌足を祖とする、所謂、ご摂家のひとつです。御摂家というのは、近衛殿、九条殿、鷹司殿、二条殿、一条殿の五家をいいます。江戸期を通じて公家の勢力は家康による統制(禁中並びに公家諸法度)によってその力は弱められてはいましたが、その格式は天皇家に次ぐものでした。そなん九条家の支配家に置かれた岡田屋です。しかも、其の九条家の家紋を堂々と暖簾に設え、賭博場の入り口に掲げたのである。その暖簾を見て、幕府も賭博という違法行為で、当然御法度になることは確かですが、手足も出せなかったのではないかと想像できます。
 それについて、何処に手をまわして、九条家の家紋の使用が出来るようになったのかは不明ですが、これも推量の域を得ないのですがもしやと云う気がしますので書いてみます。

 それは吉備津神社と大いに関わっているのではないかと思われます。藤井高尚の「松の落ち葉」によると“おのが家藤井氏なることは世々つたえきたる家の書どもにもみえさだかなり。・・・・・かばねを宿弥とかき又大中臣ノ藤井よもかくよしは・・・・。大中臣ノ藤井というはことにてかしこけれどおのが家も天の児屋ノ命を疎神とぞ申べき。”

 と書かれてあります。そして九条家の祖神をたどれば、やはりこの藤井家の祖神と同じ天の児屋根命とあり、その辺りを吹聴することによって此の熊次郎は、何ら藤井家とは縁もゆかりもないのですが九条けに取り入ったのではと想像していますが。お笑いください。

なお、熊次郎が許可を受けて使用した「家紋・下がり藤」です。それとその系図をご覧ください。

        

小雪物語―大鳴竈会

2012-06-08 17:53:19 | Weblog
青さを一層に引き立たせたお山に、郭公がけたたましく鳴き渡っていき、長雨は細々とお山を濡らしています。林さまから日差しのお山の七化を教えて貰って以来、宮内を取り巻く周りのお山にも、それぞれの季節に従って、あの夕焼け時から漆黒の間に繰り広げられる『お山の七化け』と同じように、七化けがあるようで、小雪は、あれ以来、思えるようになっておりました。お気をはってお山を眺めています。萌葱、黄緑、緑、青と時々にその移ろう人の心にも似た色を見つけては、その都度、それを心の中で、新之助に報告するのでした。
 そんなお山を見ていますと、その青さの中にうすぼんやりと霞立つお山の中に、お喜智さま、新之助さま、林さま、高雅さま、私のお話しに流れるお涙を拭おうともせずにじっとお聞きくださった真木さま、お須香さま、それからおいでおいでをしているような母の姿までがそこに現れ出て来て小雪を驚かすのです。 
         みやうちのなつのおやまにふるあめを
                    ひとをおもいてながめくらしつ
 そんな言葉が自然と浮かび上がってくるのでした。「これってあの歌?・・・一度お喜智様にでもと思いながら、あの日は、林さまから言われた『歌でも習って見ないか』と言う言葉を思い出し、『まさか私が』とかぶりを2、3回小さく振る小雪でした。
 
 そんな梅雨の季節もあっという間に移ろい、夕凪の瀬戸内の夏がやってきました。その年は、何年ぶりとかの日照り続きとかで百姓たちを随分と悩ませています。その影響でしょう、この宮内でも、あちらこちらの井戸が涸れ、飲み水の確保にも随分と苦労をしているようです。今年の秋が思いやられると、この遊興地宮内でも、大変な騒ぎになりました。
 「この分なら、この辺りのお米も不出来で、それによって景気も悪くなり、あの明和の再来か」
 と人々を悩ませておりました。
 でも、人々が心配していた日照りも、夏の終わりの野分の影響で、思っていたより軽くて済み、皆、安堵の胸を掻く下ろします。

 そんな神無月の終わろうとしていた時分です。ひょっこりと、小雪の急難を救った片島屋万五郎が、久しぶりに、お粂さんの宮内に帰って来きました。
 万五郎の話によると、今、この山陽道随一を誇る遊興地宮内の大親分岡田屋熊次郎大は、全国津々浦々の大親分方を、この宮内に呼んで、「吉備津神社勧進興行宮内大鳴竈会」を、大々的に開こうと、もう2年越しになるのですが、その準備をしていると云う。そのために、熊次郎親分は、彼の四天王と呼ばれていた片島屋万五郎、柏屋彦四郎、櫛屋佐五郎、菊屋久造達を、日本各地の博徒の大親分に、その参加を呼びかけるために、全国に派遣していたのです。その途中で、たまたま立ち寄った京で、万五郎は、偶然に、大藤高雅と新之介殺害の場面に出くわし、この小雪を救いだし、忙しい最中を、はるばるこの宮内までわざわざ連れてきたのです。
 そんなこともあって、一年近い歳月を費やして、今、ようやく「大鳴竈会」の催しが、備中宮内で現実のものとなって、開かれようとしているのです。
 当時でも、博打はご禁制で、勝手には賭場を開くことはできず、若し違反でもしようものなら重い罰則が科せられていたのです。しかし、そんな中で、江戸末期、文久の頃のことですが、この宮内では、堂々と賭博場が開かれ、自由に賭博が出来ていたのです。全国でも例を見ない江戸幕府が直接に関与できなかった特別な博打場だったのです。それには、宮内の大親分岡田屋熊次郎の力によるところが大きかったのだと言われています。この岡田屋熊次郎が目を付けたのが、当時の尊王思想です。
 この文久という時代は、皇女和宮の将軍家茂に降嫁が行われ、江戸幕府の勢力が一段と衰退し、京都の天皇家を中心とした尊王思想が大手を振って独り歩きをしだした時代です。そこに目を付けたのかどうか分からないのですが、熊次郎は、これ又、どんな経緯があったのかもその辺りの事情は定かではないのですが、公家である京の九条家と深く関わり、その力をバックに、幕府の力の及ばないない特別な治外法権的な力をとりつけることに成功したのです。宮家の支配下ともなれば、まして九条家です。衰退してしまった幕府は、此の九条家の息のかかった岡田屋熊次郎の開設した博打場の取り締まることができなかったのです。だから、この宮内にある熊次郎の博打場は誰はばかることなく賭博が出来たのです。その力を誇示するかのように、当時、宮内にあった岡田屋熊次郎の支配下にあったすべての建物の入口には、京の九条家の家紋である「下がり藤」の暖簾が掛けられていたのです。なお、この時開設された宮内の大賭博場は「五四六」とよばれ、町内三か所にも作られたのだそうです。


 

小雪物語ー青蛙の腹を膨らませて遊んだこと

2012-06-05 13:42:44 | Weblog
 そんな新之助の小さい時のお話が、次々と続きます。お城の御堀から続いている運河に飛び込んで泳いて、父親から大目玉を食らった話、犬飼松窓と言う先生の塾へ通う子供と足守川でよく喧嘩した話、
 「そうそう、新之助さまは真顔でこんな事もお話してくださりました」
 と、息を弾ませるように一気におしゃべりを続ける小雪でした。
 「『これはあんまりお行儀のよい話ではないが』と、お断りになって、庭瀬辺りでは少年は誰でも平気でやっていたことで、丁度、梅雨に入る頃になると、そこら辺りの小川でよく見かけた青蛙をつかまえては、そのお尻へ麦の茎を差し込んで、息を吹きいれ腹を膨らして遊んだお話も、それから、熟れかけた麦の実をすごいて、口の中に入れてしばらくかんでいたら何かねばねばとして心地よいお餅みたいなものが出来たとか、次から次へとお話はいくらでも出てくるのでした。わては胸を弾ませながら何時までも何時までも新之介様のお話が続いて欲しいと思いながら聞いていました。」
 「あれは3回目にお会いした時の事だと思います。河内屋のお上さんが、高雅様がどうも近頃お命を狙われているようで物騒だと、今夜のお宿を泉屋さんにお願いしたと言われ、その日は皆さんがお会いなさる場所が変わりました。
 その泉屋さんでも、高雅様のお心だったと後で知ったのですが、新之介様とお二人だけの、3度目のお話をさせてもらいました。そこでも、2回目の時にもお聞きしたように思えたのですが、高雅様の心温かな気性やお人柄、また、天子様、公方さま、更に、方谷さま、洪庵さまなどについて色々とお話になられました。中でも、『神様は、人の下には人をおつくりにはなられていない』という言葉をお聞きした時は、本当にびっくりしました。私は、いつも一番下の下の罪多い穢れた女どす。それが誰でも同じだなんて、とても信じられませんでした。でも、お喜智さまが、これと同じこといわれたのにはびっくりしました。誰か偉いお人が言われはったそうどすが、こんな世の中が、もう少ししたらきっと来るのだと、新之介様は熱心にお話してくれはりました。
 いつも、きちんと正座したまま、私をあそびめではなく、普通の女として扱ってくれはりました。『こんな男の人が世の中にいらはるの』と、何か愛しいお人のようにおもえてしかたありまへんどした。それから、これは、あの夜、新之介様が初めてお話になったのですが、自分はこれからの世の中で、海の向こうのどこか余所のお国と大きな蒸気船か何かで、商売がしたい。そして、横浜かどこかに大きなお家を立てて、母を楽にしてやるのだと言わはりました。そして、お嫁さんをもらってと、やや赤らんだ顔をしていわはりました。
 まあ無口だなんて、よくおしゃべりされる事と、心の内で楽しくお聞きしていました。それが私のお聞きした新之介様の最後のお言葉でした。
 その泉屋を出ですぐ闇の中に一筋の光が光ったと思った途端に、今でも信じがたいのですが、あのようなむごい事が私の目の前で起きたのです」

小雪物語ー立つ所以を患う

2012-06-03 08:47:24 | Weblog
 案内を請うと、かっての仲間も、一寸驚いた様子を見せましたが、先生に知らせたようです。再び、案内されて私宅へと導かれました。
 『ほう、大分、やけになっているようじゃな。道を志して、悪衣悪食を恥ずる者、未だ与に議るに足らずか。まあえ-、お父上も随分とご心痛のようじゃ。どうした。そんなに足軽が嫌いか。お前の剣術の腕前は相当なもんだ、と。わしはおもうておる。そのまま放りぱっなしにしておくわけにもいかん。わしに任さんか。そのお前の身柄を・・・・』
 やや置いて
 『わしが学問は余り知っとらんから詳しくは知らんのじゃが。昔、からの国の偉い先生、孔子様が、あるときこんな事を言われたとお前も知っていると思うが『論語』という本に出ているそうじゃ。・・・『位なきを患えずして、立つ所以を患う』というのがあるそうだ。知とるじゃろう。足軽がどうした、そんなものはつまらんつまらん。勉強せえ、そうすりゃひとりでに自分という者が見えてくるのじゃ。偉くなるとかならないとかはそんなもんはどうでもええことなのじゃ。要は人を磨くと云うことなのじゃ。難しかろうが、今、お前に必要なことは、自分で自分を鍛えることなのじゃあ。・・・この前、お前も一度会ったことがあろうが、笠岡の敬学館の三宅さんも、お前はなかなか見所がある。江戸かどこかで勉強をさせたい、と、言われておった。勉強してみんか。・・・・ちょうどええ。わしがご贔屓にしておる藤井高尚先生のご養子さんで高雅さんというのが宮内にいる。これもなかなか切れもんとわしゃあ見ておる。どうだ、くちうつけたるけえ、行って見んか』
 とても難しい言葉で言われます。新之介様の言われる事を、どうしてだかは分らないのですが、一言一句聞き漏らすまいと、一心にその言われる言葉一つ一つを胸に丁寧に仕舞い込む様に聞いておりました。
 「こんなことは、御新造さん方はもうとっくにお知りになっていると思いますが、それが縁で、新之介様は高雅さまのお弟子というか付き人みたいなお人にならたのだそうでおます。でも、高雅先生の所で学ぶ総ての物が物新しく一つづつ胸の中に刻みつけるように学んだのそうで、それらすべての物が新之介様には自分の未だ経験したことがない未知なものばかりで、面白くて面白くて仕方なかったと目を輝かせなが語られておられました。人と話すのは嫌いだとかなんか言っていらはりましたのどすが、それが本当に嘘みたいにでおした。・・・・そうそう、こんなこともお話になられたことがありました。歌についても高雅先生についてお勉強もされたとか。たった5・7・5・7・7の31文字ですが、なかなか難しいもんだと。・・・・・どんなお歌を詠まれたかはおっしゃいませんでしたが、聞いておけばと、今、後悔しております。このお里のお人さん皆んな、あてらあそび女みたいなお人までお歌を詠んでいるのだぞと、新之介さんは自慢そうにお話されていたのでどすが。」

小雪物語ー足軽の子

2012-06-02 10:09:57 | Weblog
「何時の頃からだったかは分らないのですが、多分生まれた時からではなかったかと思うのですが、あまり人と話をするのが好きではなかったのです。物心ついた7,8歳の頃だったと思いますが、それまで仲良しの友達から、突然、『お前は足軽の子だ。もう一緒には遊ばん、付き合うのはやめる』といわれたのです。どうして、どうしてと、自分に問うてみたのですが、どうしてもその意味が分りません。母に尋ねても『あの子はご重役様のお子様だ。家柄が違うのだ』と、取り合ってくれません。剣術も、字だって私のほうは沢山知っているし、誰よりも物知りだと、いつも先生にほめられていました。それなのに、どうして、足軽と言う事だけで、家柄が違うという事だけで人をのけ者にするのか、考えても考えても分りません。それから、特に人と話をするのが嫌いになったように思います。」
 私も、こんな世界にいる女として、あそびめとしてしか見られない暮らしに慣れているものですから、この新之助さまのお心がよく分るように思えました。
 「それ以来、友達を極端に私の方から避けるようになったのです。いつも一人で書物を読んおるか、剣術の練習をするか、足守川で釣りをするかしていました。
 剣術は、人を差別はしません。誰もが同じ場所で同じように練習することができます。練習次第でご重役のお子様でも打ち負かすことができます。だから、余計励みました。同じぐらいの若者には誰にも負けない自信がありました。でも、私が無口になればなるほど、私の周りから上役の子供達だけでなく、同輩の友達までもどんどん離れていきます。それを、決して寂しいとも辛いとも、思ったことは一度もありませんでした。寧ろ、それのほうが何か私には都合がいいように、段々一人でいることに慣れ切ってしまったのか、かえってそれの方が楽しい様にさえと思えたのです。・・・・・・・・あれは、15歳の時でした。私の家のすぐ隣に小さい時から何時もよく遊んでいた、ちょと可愛らしい女の子がいました。好きだとか嫌いだとかそんな気は、私にはなかったのですが。足守川で、例の通り釣りをしていました。ふと気がつくと向こうの葦の茂みの方でなにやら人の気配がします。一人ではなく、どうも気配からすると二人組らしいのです。何事かと、その方に近づいていきました。そこに見たものは、かって私を「足軽とは遊ばん」と言った重役の息子と私の隣の家の女の子とが互いにきつく顔をくっつけるようにして抱き合っていました。何か一瞬悪い事を見てしもうたな、と思ったのですが、そのまま竿も篭も釣った鮒もそこに放り投げて走り帰って来ました。それからは何をする意欲も体から抜けてしまったように、これを「腑抜け」というのでしょうか、一日じゅう何処へも出ずにじっと部屋の中にこもりきりでした。母親が随分と心配してくれていたようですが、生憎く、うちは8人兄弟です。1人や2人のために関わっている時間はありません。結局、放っておかれたのではないかと思います。それから半月ぐらい経った時でしょうか、関といわれる道場の剣道の師範から「話がある。すぐ出て来い」と伝言があり、髪の毛もぼうぼうに伸びほうだいの自分の姿を見て、仲間達がどう言うかと、少々心配でもあったのですが、そこにじっとしていても明日は決して来ないと思い、渋々ですが、『えい面倒だ。どうにでもなれ』と、そのままの姿で、道場に出向いたのです。この己が姿を見たら、先生はどう言うかなと、一瞬、そんな思いが心を横切ります。そして、久しぶりに重い腰を上げます。
 

小雪物語―あなたと話すのが怖い

2012-06-01 09:59:30 | Weblog
 母がなくなり、否応なしに、この苦界に身を投げ込まなくなって半年も過ぎた頃でしょうか。あの林さまに、母の縁から、お世話頂くようになってから間もない時だったと思います。時は、丁度、秋たけなわ、もみじがとっても綺麗に京のお山やお里を飾りつけたてていた頃でした。林さまは、同郷のお人とお話があるとかで、私の京のお店「河内屋」でお会いなされました。大藤さま、それとお連れの若い新之介様と連れ立ってお越しくださいました。私がお聞きしていても分らないような、大変に難しいお話のようでした。遠い遠いお国の真っ黒いお船だとか、天子様だとか、将軍様だとかでした。
 その途中、急に、林さまが、何か大藤さまとお二人だけで話さなければならないことがあるとかで、新之助さまと私を、廊下の向こう側の小部屋にお人払いなさいました。新之助さまとたった二人だけで閉じ込められるようにして、その小部屋で、お二人のお話が終わるまで待っておりました。
 今まで、私は、こんな身ですから、多くの男の人にお相手させてもらいました。いつも、その男の人たちは、誰も彼もが皆同じように、私と二人だけになると、その目は自分の色欲でしょうか、私の胸や腰やその辺りに注ぎ、すぐに抱き寄せて己の欲望だけをひたすら求められるのです。
 でも、新之介さまは、私がお側にいることすらお忘れかのように両腕をお組になったままじっといつまでも、おみ足を崩されずに正座しておられます。
 「お茶でもいかがどす」
 「いや何も構わんでください。わたしは女の人と話しをするのは慣れてないのであなたとお話しするのが怖くて。・・ごめんよ・・・・・・」
 「怖いだなんて、あなたってかわったおかたどすな」
 新之介さまは、お部屋の床のお掛け軸でしょうか、じっと眺めてお出ででした。
 それからしばらく二人とも黙って座っていました。風がふゅうと吹いて。新之介様がみておいでた床の軸がガシャとかいう音を立ててわずかに揺れ動いたように思えました。それがきっかけとなって、怖いとおっしゃっていたお人が、私なんか、とんと無視された様に、お独り言のようでもありましたが、次々に堰を切ったように話されだしました。