少々高雅の書簡が長くなりました。まだまだ備中宮内に残されている歴史的な記録はたくさんありますが、余り長ったらしいのもどうかと思い、このあたりで打ち切らしていただきます。
母や紀一郎への手紙が、まだまだ、あります。
それらをまとめてみますと、高雅は尊王攘夷を推進したのですが、紀淡海峡などに暗礁を作り、イギリス等の西欧の列国の京大坂への侵入を防ぐためにはどうしても自分が立てた計画を実現しなくてはならないという使命感みたいなものを感じながら、この計画を推し進めていたのです。
そなためには莫大な経費か必要でそれらの調達にも日々苦労をしていたようです。そのためには徳川幕府等の反攘夷派からの資金も利用しなくては到底出来るものではありません。
当時幕府の老中を務めていたのが、あの備中松山藩主板倉勝静です。
その勝静と、文久3年4月15日に、京都板倉屋敷で合っています。かれ高雅の従前より持っていた海防策、即ち、明石、紀淡海峡に於ける暗礁築造の件を陳述しております。もちろんその仲介の労を取ったのが山田方谷です。
紀一郎に宛てた書簡に
「・・・これも板倉家へ内談いたし山田安五郎とも申談示候事に御座候、・・・」とありますが、この山田安五郎こと、山田方谷です。しかし、幕府の財政も逼迫していて、勝静もこの高雅の案を採用するには至らなかったようです。
母や紀一郎への手紙が、まだまだ、あります。
それらをまとめてみますと、高雅は尊王攘夷を推進したのですが、紀淡海峡などに暗礁を作り、イギリス等の西欧の列国の京大坂への侵入を防ぐためにはどうしても自分が立てた計画を実現しなくてはならないという使命感みたいなものを感じながら、この計画を推し進めていたのです。
そなためには莫大な経費か必要でそれらの調達にも日々苦労をしていたようです。そのためには徳川幕府等の反攘夷派からの資金も利用しなくては到底出来るものではありません。
当時幕府の老中を務めていたのが、あの備中松山藩主板倉勝静です。
その勝静と、文久3年4月15日に、京都板倉屋敷で合っています。かれ高雅の従前より持っていた海防策、即ち、明石、紀淡海峡に於ける暗礁築造の件を陳述しております。もちろんその仲介の労を取ったのが山田方谷です。
紀一郎に宛てた書簡に
「・・・これも板倉家へ内談いたし山田安五郎とも申談示候事に御座候、・・・」とありますが、この山田安五郎こと、山田方谷です。しかし、幕府の財政も逼迫していて、勝静もこの高雅の案を採用するには至らなかったようです。
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