私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

おせん 81 浮世絵とおせん

2008-07-22 13:10:32 | Weblog
 次の日です。「一度訪ねてきてや」と言った大旦那様からの言葉が今朝から気になっていました。
 「訪ねて行ってもいいのかしら。大旦那様もああおっしゃられていらしたから行かないのもどうか」と思い、昼がちょっと過ぎた頃、勝手口の方からおせんに会いに顔を覗けて見ました。生憎とお店の方にでも出向いているのか、部屋は開け放たれて誰もいません。空っぽです。床には今までには見られなっかた、ようやく秋らしい色を見せている山を描いた掛け軸まで懸けてありました。書院の棚には御所車の置物でしょうか、きちんと置かれてあります。おせんの己の心の痛手を忘れるように懸命に生きようとしている心がそれらの部屋の中の有様から想像がつきます。 「よろしゅうおましたな。おせんさん」
 小さな声に出して誰もいない部屋に呼びかけました。お店に出ておられるのなら又でもいいわと、思いながら、一歩うしろ下がります。
 「あら、お園さん、何時から」
 千代さんです。
 「まあ、随分とお久しぶりどす。こいはんがえろう心配しておられたのどす。ちょっと待っておくれやす。今、呼んで来ますさかい」
 庭に並んでいる踏み石の上を千代は上手に飛ぶように駆けて行きます。
 庭の楓の木々の葉一枚ずつが、今のこの時にしか作り出せない紫の青を庭全体に映し出しています。そして、その青は、また、大地と一体となりながら、晩秋の赤でも、早春の青でもない、もう一つの己の青を誇示しながら、濃紺一色を庭全体に並べ立てるように輝かせています。空に向かって伸びている曲がりくねった幹すら緑に変えています。駆けていく千代の背中がその楓のいっぱいの青に押されているようでもありました。
 やがて、その青を掻き分けるようにしておせんも、又、こちらに早足で近づいて来ます。
 「又、ここにも浮世絵が」、お園が思います。
 「随分のご無沙汰どしたね。お園さん」
 もう涙声です。
 「もういっぺん、ぶそんの水羊羹と思っておったんどす。あれ以来どす。時々平蔵さんに聞いて、お園さんがお元気だと言う事は知っておましたのやが」
 「はい。長いことご無沙汰しておりました。おせんさんも、お元気だ、と聞いてましたので。何やかやと家のこともおまして。でも、お元気そうで、それにこんなにお綺麗ですもの」
 それから楓の間から流れ通る涼風が二人の鬢を揺らしながら、話を醇青に変えてしまうのではないかとすら思えるように花を咲かせます。当然の事ですが、政之輔のことはこれっぽちも出ません。