「へンくつ日記」

日常や社会全般の時事。
そして個人的思考のアレコレを
笑える話に…なるべく

正月に思う…

2014年01月04日 12時16分31秒 | Weblog

正月に去年を振り返るのは時に適ったことではないが
振り返りたくなるほど、去年は激動の年だった

それまで、幾ら頑張っても巧くいかない日々の連続を
思い起こし、自分では気づかないながらも、根本が
ズレでいたのかもと猛省し、基本から始めた
「体が曲がっているから、影も斜めなのだ」だと気づいたのだ


まず、朝に勝利すべく、早朝に起き、深い決意の祈りとともに
一日を始めた。そして、生活のための望まぬ仕事にも
全力投球を心がけた。様々な苦しい現状も
日々の戦いの中で気にならなくなっていた
そんな時の2月、20年以上も生活を共にし家族同様
の存在だった愛猫モネが、老衰のため亡くなった
妻は泣き崩れ、自分も、男泣きに泣いた
それでも、深き決意の祈りは手から離さなかった

3月…仕事中に追突事故を起こされた
自分の運転する軽自動車の後部が大破した
相手の乗用車のフロントも大きく壊れた
未成年の運転手の余所見運転による追突だった
後で聞いたが、相手は30~40キロのスピードを
出していたらしい。かなりの衝撃だったのも頷ける

「鞭打ち症」「背骨と腰骨の骨折」
一瞬にして様々な心配が脳裏を駆け巡った

幸い、どれも杞憂に終わった
事故の瞬間、無意識に凄まじい力が発揮され
背中と首の筋肉を鋼鉄のように硬くしたのが
骨折もせず鞭打ちにもならなかった要因だろう
と医者に聞かされた

諸天の加護に感謝した
ただ、膝や筋肉のダメージは深かったし
車は廃車となった

事故を起こした青年も、またその家族も不誠実で
一度の謝罪もせず、車のディーラーに全てを任せた
任意保険にも入っていなかったため、通院費などの
補償は、当方の側の保険会社が請け負った
それも、一旦はこちらが立て替えるという
理不尽な思いが拭えない仕組みだった

何もかもが納得のいかない事ばかりだったが
それでも、決意の祈りは手から離さなかった

夏が過ぎて、通院も終了した。
苦しい現状に光明が差し、生活にも少しだけ
余裕が出来てきた
そんなある日、見知らぬ名前から手紙が届いた

手紙には「私は貴方の末の弟です」とあった
自分が6歳の時に両親が離婚し、その際に養子
に出された、当時赤ん坊の三男からだった
三男の手紙には「一月前、実父が亡くなりました。
私が葬儀に立ち会いました」とあった

数十年の間、音信不通で、既に鬼籍の人であろうと
思っていた父が、この夏まで存命だったことに驚
いた。そして、養子に出され、我が家系とは無縁
のはずの三男が、生前の父と関わりがあったこと
に驚いた。更に、その三男が、自分を探し当て
こうして手紙を送ってきたことにも驚いた

早速、手紙にあった連絡先に電話をした
電話の向こうの三男は、抑揚のある懐かしい
北海道弁で、事の次第を聞かせてくれた
父は、函館で一人暮らしをしていた。実父を探し当てた
三男夫妻(10代の娘さんも二人いるとのこと)は、父と対面
その後、何度かやり取りしているに父は入院し、そして
間もなくして訃報が届いたというのだ

動揺は無かったが、深い感慨に沈んだ

三男は、長女と交流があり、連絡はしていないが
次男の住所も知っているという。更に、離婚した後
再婚し、所在が判らなくなっていた母の住所も知っているという
その情報をどう入手したのか、三男の執念に舌を巻いた

ともかく、子供のとき以来会っていない
妹と弟に電話した
妹は、秋田で暮らしていた
弟は結婚して、なんと千葉に住んでいた
「あら、お兄ちゃん。久しぶり」
「アハハ、元気だった?」
二人とも、拍子抜けするほど“普通”だった
安いドラマのように、号泣して「会いたかった」
などという感動のシーンは皆無だった
その電話での再会は、つい1年ほど会っていなかった
兄弟のそれだった
その呆気なさが面白くて、「フフフ」と笑った
幼い頃、何より兄弟たちと離れるのが辛く
張り裂けるように傷む胸を抱え、毎日のように
布団の中で泣いていた自分が、遥かに遠い記憶の
中で、懐かしいものに変わっていた


その後、兄弟たちは頻繁に電話で話している
この数十年、名前以外で呼ばれたことはなかったが
今は「お兄ちゃん」「アニキ」「兄やん」と呼ばれている
父の死がキッカケで、兄弟たちは再び繋がった
不思議な再会を思い、天の計らいを感じた
真剣な決意の祈りは、過去の“不幸”という毒まで
“幸”に変えていったのだと、確信した

さて、その父だが、か細い年金生活のはずだったのに
ちゃんと自分の墓は買っていたのだった
それも、北海道熱田村の「戸田記念墓苑」だ
父もまた、祈りを捨てていなかったのだ
それを知り、安堵が心に広がった


兄弟たちで話し合い、父の納骨は桜の咲く
4月~5月の間でおこなうことに決めた
その時は、秋田にいる妹も含め、兄弟全員が
札幌で揃うことになる
父の満面の笑みが浮かぶ


その前に、男たちだけで会うことになった
三男が、この1月に、出張で上京するのだ
その際に会おうと決めたが、心にひっかかる
問題も、この際解決しておこうと、三男との
話し合いで決めた

母のことだ。母は存命だった
埼玉で再婚相手と暮らしていたのだ


赤ん坊のときに養子に出された三男には
当然ながら、母の記憶が無い
高齢の母ゆえに、この機会を逃せば
永遠に母と会うことはない可能性が高い

兄弟には共通の想いがある
つまり「母に捨てられた」という想いだ
だが、そんな恨みにこだわって
この機会を逃すほど、既に三人は子供ではない

自分と妻、次男と奥さん、そして三男の
5人で、今月中旬に母と会うことになった
その段取りをしたのは自分だが、その間のことは
何れまた…


ともかく、今月、数十年ぶりに兄弟が会い
そして母と再会する
それは果たしてどんなものになるか…
案外、1年ほどしか会っていない家族のように
呆気ないほど、“普通”の再会になるのかも知れない


さてこの、激動の1年
それを呼び起こしたのは
他ならぬ、深い決意の祈りなのだと
一人、確信している


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