アルマティの郊外から・・車はあまり走ってないキルギスへの道
キルギスへ
2003年8月21日 はれ20℃ はれ30℃
朝ホテルを8時に出てウズベキスタン大使館へ「ビザ」受け取りに出かける。8時40分到着。すでに待っている人が3人並んでいる。そのうちアメリカ人は申請の時会った夫婦、2年間世界を回っていると話していた。ビザは10時10分受け取った。ホテルに寄って「お世話になりました」「さようなら」「バイバイ」とあいさつして別れる。一路キルギスへ。なんとなくちょっと不安だ。
「プリャマー・プリャマー」と言うけれど・・。きのう300kmと聞いていたが標識には
220kmと出てきた。作物は作れないような高原みたいなところ・・左には低い山があるだけの風景はこれまでのカザフスタンの麦畑とは違ってきた。途中うどんを喰って走る。やっぱり初めてのみちは不安だ。国境に着いたようだ、15時。ホッとする。カザフスタンの出国手続き10分でおしまい。大事な書類?も渡さずにOK.
遠い国だと思っていたキルギスに入国
ついに来たキルギス。アーチ型になっているイミグレ。キルギスここはノー「ビザ」でOKだけれど、すぐに通れるのかと思ったら「なにか」種類が必要とかで階下の狭い部屋に連れていかれた。前の人の書類を20分ぐらいゆっくり数えている。記入する用紙は持っている。用紙を見ながら真似して書き込んだ。ちょっとせかせて「OK」かと思いきや若い係官が「ちょっ・ちょっと」食堂みたいな場所に連れて行く。
そこには年配がいた。まァ職場の先輩と言ったところか。その年配が「酒臭い」。まぁまぁと寝室へ・うん?ワイロ要求か。酒の匂いをぷんぷんさせながら「ろれつ」の回らない言葉で何か言っている。「こんなところ」で「話は出来ない」二階のオフィスで話をしようと怒って外に出た。先ほど書類を作ってくれた二階に上がって若い係官に「下のやつは酒臭いぞ」
それに「バイクのがどうの」とか「おれに文句」を言っていると告げる。あと「何が必要」なんだ。時間ばかりかかって「許さんぞー」と日本語でまくしたてる。しばらくして真面目そうな係官が来て「年配」が「アルコール飲んでいたこと」「キューズミー」みたいなことを言って謝った。これからは頼りになる若い人に任せていた方がこの国はいいなと思いながら気分はむしゃくしゃしながら入国。
キルギスの国境
キルギスに入国してすぐの地元の人たちと。
キルギスのセントラル中央官庁かと思われる場所に着いたが人もあまり歩いていなかった。
国境に入ったすぐの小さい自動車修理工場前で停まって記念写真を撮らせてもらった。いつものように首都ビシュケク・セントロまで走る。あまり高層ビルはない。人通りも少ないがなんとなくここらあたりだろうと停まって「ホテルを聞いた。200m先に「ホテル」はあると教えてもらった。受付の人は一泊10$=1200円。シャワーは水だけ、まぁいいや静かな場所だし泊まることにした。
夕食をすませて近くを散歩8時だけれどまだ太陽はある。中央広場はロシア・ソビエト時代の白い建物、クレーン車が二台停まっている。もしかしたらレーニン像を取りはらったあとなのかもしれない。それともテレビで倒したのを見たのはここのビシュケクのものだったのだろうか。写真を売っているおみやげ売店で見るとやっぱりレーニン像が建っていたのだ。
今はなきレーニン像、複雑な気持ちでいるキルギスの人もいるのではないだろうか。わたしも同じ思いである。自分と家族を養う以上のものを作ることができる、したがって人間は「働けば働くほど豊かになる」たったこれだけの教育「モラル」が行き渡らないままソビエトは沈んだのではないかと。マルクス・レーニンの考えそのものは間違ってはいなかったとわたしは今でも思う。
表舞台から「レーニン像」はクレーン車で裏の庭に移されていた。写真を撮りに行ったときレーニン像はブルーシートを掛けられていた。地元の人は「マネーマネー」と指を丸くしながら話してくれた。どこかの国から経済援助を口実に・・目立たない場所に移されたのではないかと推測した。
ここらあたりの冬はどんな光景になるのでしょうか
ニューイヤーはどうむかえるんでしょうか?
今年もよろしくね!
楠田ポスターは今朝から貼りだします。
暮れの高校駅伝・・正月1,2,3日も駅伝TV観戦?
毎週、2月までは楽しみな、駅伝、マラソンが続きますね
さて、自分としては早く日記の転載を終わらせたいです。
鬼が笑う来年は海外を走ってみようと体力を丈夫にしていきます。
きれいにする別所沼公園・・楽しくてしょうがないですね。「すこしづつ・あきらめない・なげださない地球の旅人」より