聖書は、人間が自分の知恵や能力、または外見的な成功で誇るのではなく、主イエス・キリストを誇るべきだという教えを説いています。人間が誇るべきは、神の恵みの中で賜った信仰であり、キリストの愛です。
詳細:
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「誇る者は主を誇れ」(コリントの信徒への手紙一 1章31節):この言葉は、神は人間が誇るような能力や知恵、地位ではなく、むしろ無力な者、無学な者を選ばれることを示唆しています。
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エレミヤ書9章24節との関連:エレミヤ書では、「誇る者は、主を知ることを誇れ」と言われていますが、パウロはそれを「誇る者は主を誇れ」と要約しています。
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主イエス・キリストを誇る:主イエス・キリストは、神の知恵、義、聖、贖いであり、私たちも主イエス・キリストに結ばれることで、主を誇ることができるのです。
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自己の弱さを受け入れる:コリントの信徒への手紙二 12章9節は、「私の弱さを喜んで誇りましょう。なぜなら私が弱い時にこそ、私は強いからです」と述べています。
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神の恵みを受け取る:神は、私たちに力と恵みを与えてくださり、その中で私たちは主を誇ることができます。エレミヤ書 9章。12 知恵があって、これを悟ることのできる人はだれか。主の口の言葉をうけて、それを示す人はだれか。この地が滅ぼされて荒野のようになり、通り過ぎる人もなくなったのはどういうわけか。コリント信徒への手紙 1章。18 十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救にあずかるわたしたちには、神の力である。
19 すなわち、聖書に、/「わたしは知者の知恵を滅ぼし、/賢い者の賢さをむなしいものにする」/と書いてある。
20 知者はどこにいるか。学者はどこにいるか。この世の論者はどこにいるか。神はこの世の知恵を、愚かにされたではないか。
21 この世は、自分の知恵によって神を認めるに至らなかった。それは、神の知恵にかなっている。そこで神は、宣教の愚かさによって、信じる者を救うこととされたのである。ヨハネによる福音書 1章。6 ここにひとりの人があって、神からつかわされていた。その名をヨハネと言った。
7 この人はあかしのためにきた。光についてあかしをし、彼によってすべての人が信じるためである。
8 彼は光ではなく、ただ、光についてあかしをするためにきたのである。
9 すべての人を照すまことの光があって、世にきた。
10 彼は世にいた。そして、世は彼によってできたのであるが、世は彼を知らずにいた。
11 彼は自分のところにきたのに、自分の民は彼を受けいれなかった。
12 しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。
13 それらの人は、血すじによらず、肉の欲によらず、また、人の欲にもよらず、ただ神によって生れたのである。*誇るなら主を誇れを深堀りしたい。イエスキリストが地上に聖霊であるヨハネを遣わした。これをキリストからの贈り物として「愛」と表現されている。聖霊による信仰を得て神の城まで入れた者は、誰を誇るべきなのか?キリストであると書かれている。聖霊を遣わした者はキリストだからだという事。すなわち、聖書に、/「わたしは知者の知恵を滅ぼし、/賢い者の賢さをむなしいものにする」/と書いてある。*神ヤハウェは聖霊が誰なのか?どういう存在なのか?何なのか?という事を全人類の思考を抑制し考えられなくした。こうすれば神の城に入る条件が全人類に無くなるのである。12 知恵があって、これを悟ることのできる人はだれか。主の口の言葉をうけて、それを示す人はだれか。この地が滅ぼされて荒野のようになり、通り過ぎる人もなくなったのはどういうわけか。*地が滅ぼされて荒野になり人がいなくなったのはどういうわけか?と書かれている。聖書教える者(聖霊がいない場合の話)がいないので滅び失せたというわけだ。神は、私たちに力と恵みを与えてくださり、その中で私たちは主を誇ることができます。*前回書いたが俺の言い分では聖霊を誇ってほしいが、イエスキリストの方が上なのでイエスキリストをまず誇った方いいだろう。


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