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藤原定家の「明月記」に超新星記録 京大博物館で来月19日まで特別展

2014-09-20 14:52:40 | まち歩き

 

藤原定家の「明月記」に超新星記録 京大博物館で来月19日まで特別展

京都大花山天文台の初代台長、山本一清氏が使っていた反射望遠鏡=京都市左京区の京都大総合博物館

図1 京都大花山天文台の初代台長、山本一清氏が使っていた反射望遠鏡=京都市左京区の京都大総合博物館

 鎌倉時代の歌人、藤原定家(1162~1241)の日記「明月記」(国宝)に記された超新星の記録や最新の天文学の研究成果などを紹介する特別展「明月記と最新宇宙像」が、京都大総合博物館(京都市左京区)で開かれており、多くの天文ファンらが訪れている。特別展では、陰陽師の安倍一族によって観測された超新星について記した「明月記」の内容や、日本の天文学の発展に貢献した京都大花山天文台の初代台長、山本一清氏が使った望遠鏡など近年の研究者ゆかりの品々が紹介されている。今月17日から28日までは「明月記」の実物を展示する予定。

藤原定家の日記 『明月記』(ふじわらさだいえのにっき 『めいげつき』)について

日記と云えば三日坊主という言葉がすぐに思い浮ぶほど続けるのは難しい。然し、養老4年(720)に完成した歴史書『日本書紀』はそれ以前に書かれていたいろいろな日記を参考にして作られたといいますから、かなり古くより日記をつけていた人がいたことになります。『日本書紀』より少し早く和銅5年(712)に作られた『古事記』は、稗田阿礼(ひえだのあれ)という人の記憶力に頼って書かれており、文字を書ける人が少なかった時代には日記はやはり一部の人のものであったことは確かなようです。日記がより広く書かれるようになるのは、平安時代になってからのことです。特に熱心だったのは公家(くげ)たちでした。しかし、彼らが毎日つけていた日記は現在のものとはかなり違います。そこには日常生活の細々(こまごま)としたことが書かれることはほとんどありませんでした。彼らが日記に一所懸命書いたのは、朝廷での会議・儀式の詳しい手順だったのです。これは日記を公家が自分たちの子供や孫に残す記録と考えていたためです。朝廷の会議・儀式で恥をかかないように子孫のために彼らは日記をつけていたのです。ですからその日記は最初から人に見られることを承知で書かれていたものということになります。自分の感想や意見を書かなかったのはむろんこのためです。その点で平安時代の特に最初の頃の日記は、一種の会議・儀式に関するマニュアルであったといってもいいかもしれません。日記に自分が思ったことや、感じたことをつけるようになっていくのは、朝廷での会議・儀式が次第に形式化していった平安時代も後半になってからのことです。丁度そのような時代に書かれたのが、藤原定家(1162-1241)の日記です。この日記には『明月記(めいげつき)』という優雅(ゆうが)な名前が付けられています。定家は和歌がたいへん上手で、天皇から命令を受けて『新古今和歌集』『新勅撰和歌集』の和歌集を編集したことでも知られた公家です。また今も正月によく行われるカルタのもとになる『小倉百人一首』を選んだのもこの藤原定家です。定家は10代のときから80歳で死ぬまでほとんど欠かさず日記を書き続けていました。現在、残っているのは19歳から74歳までのものですが、その多くは今も定家の子孫である京都の冷泉(れいぜい)家に大切に保管されています。明月記は定家が38歳の建久(けんきゅう)10年(1199)正月から3月までを収めた一巻です。ちょうどこの年の正月11日には、鎌倉で将軍の源頼朝が死んでおり、そのことも書かれています。京都にいた定家が、頼朝の死を知ったのは正月18日のことですから、この時代いかに鎌倉と京都が遠かったかが、これによってわかりますね。のちの時代になると、定家は歌人から神様のように崇められるようになり、その結果定家の和歌だけでなく筆跡までをもまねることが大流行します。定家の名を取り「定家流」と呼ばれた書風で、日記に見えるかなり変わった筆跡がまさにその原形となるわけです。でも定家自身は、決して自分の字を上手とも思っていなかったようで、「鬼」のような字だと『明月記』に書いています。日記の記事だけでなく、定家の「鬼」のような字を鑑賞できるということでも、『明月記』はたいへん面白い日記といえましょう。

京都国立美術館美術室 下坂

(資料1)

これまで京大総合博物館では、宇宙に関係した企画展として、2008年に「京の宇宙学」、2011年に「はやぶさ帰還カプセル特別公開」、2012年に「日食展」が開催されました。われわれ(附属天文台と宇宙物理学教室のスタッフや院生)は、そのつど全面的に協力してきました。「京の宇宙学」は京大全体の宇宙関係の研究成果を紹介するのが目的、「はやぶさ」は帰還カプセルの公開、「日食展」は京都で282年ぶりの金環日食に合わせて開催、というふうに、色々な理由がありました。しかし、今回のきっかけ(開催理由)はちょっと面白いのです。皆さんご存知のように、藤原定家の日記「明月記」には超新星の記録が残されています。20世紀前半、欧米の天文学者たちは「かに星雲」が膨張していることを発見し、大きさと速度から、千年ほど前に爆発した星の残骸である(らしい)ことを明らかにしたのですが、ヨーロッパの古い文献をいくら探しても、爆発(明るい天体の出現)の記録が見つかりませんでした。それで「かに星雲」の正体は長らく謎のままでした。そういう時代に、日本のアマチュア天文家・射場保昭(Iba Yasuaki)氏が、「明月記」の中に「1054年おうし座付近(「かに星雲」の位置)に木星くらいの明るさの客星出現」という記述がある、ということを、英文で欧米に知らせたのです。1934年のことでした。これがきっかけとなり、(中国や韓国にも独立の記録があったこともあって)、「かに星雲」を作った爆発の正体が、「超新星」であることが確立されたのです(Mayall and Oort 1942, PASP 54, 95)。ここまでは良く知られた話なのですが、「アマチュア天文家・射場保昭」とはいかなる人物か?というのが、全く謎でした。2010年6月に、京大名誉教授の竹本修三先生(地球物理学)が、私に次のようなメールを送って来られました:『明月記を英文で紹介した日本人は誰だろうかということが話題になり、たまたまその頃、「宇宙と生命」の研究会のときに柴田さんから、「それは射場保昭氏である」というお話をお聞きしました。そこで、いろいろ調べてみましたが、射場氏の生年、没年や本職は何をやっておられた方かについては、依然不明です』その後、竹本先生がこの原稿をHPにアップされておられたところ、2012年5月8日、竹本先生より『射場保明氏に関するビッグ・ニュースです。氏の二男(満家氏:76歳)がご健在だということが最近わかりました。』とメールが送られてきました。射場保昭氏の二男の射場満家氏が、インターネットを検索中に竹本先生の原稿を読まれ、『私は射場保昭の二男です、、、』というメールを竹本先生に送って来られたのです。連絡を受けて、私も竹本先生と一緒に満家氏にお会いしました。それで一気に射場保昭氏の顔(添付写真)や生没年(1894~1957)、本職(肥料輸入商)などが明らかになりました。しかも、興味深いことに、射場保昭氏は、京大花山天文台の初代台長である山本一清博士(1889~1959)とも親交があり、山本博士の影響を受けていたことが、山本天文台アーカイブの解析から冨田良雄さんによって明らかにされました。山本博士は、日本人で最初の国際天文学連合の委員会の委員長として国際的に活躍するだけでなく、多くのアマチュア天文家を育てたことで知られています。そのアマチュア天文家育成の結果として、明月記の記録が世界に知られるようになり、最先端の天文学の発展に貢献したのです。何とおもしろいめぐり合わせでしょうか。今回の京大総合博物館での特別展は、こういう京大ならではの、ユニークな宇宙地球科学研究の歴史を明月記とともに展示し、超新星や天体爆発現象に関連した最新宇宙像を紹介します。さらに、かに星雲の解明に貢献した歴史は、現在も天体爆発現象の解明に世界で最も威力を発揮する3.8m望遠鏡の開発という形で、脈々と受け継がれている、というアピールもしたいと思っています。関係の皆様には、ぜひご協力をお願いします

 
射場保昭(いば・やすあき)氏
(1894~1957)(射場満家氏より)

 (資料2)

平安時代の歌人で小倉百人一首の選者としても知られる、藤原定家。彼の残した日記『明月記』には、陰陽師・安倍晴明の子孫の観測した超新星(客星)の記録3 件が記されていました。これは後に、20 世紀前半における世界の天文学の発展に大きく貢献しました。今回の特別展では、『明月記』の超新星の記録がいかにして世界に知られるようになったか、最近明らかになった興味深い歴史と京大の宇宙地球科学者たちとのつながり、さらに関連する宇宙研究についてご紹介します。展示では、国宝『明月記』のうち、超新星(客星)の記録が記載されている箇所を期間限定(9月17日~28日)で現物展示するほか、カルバー46cm赤道儀、ダルメイヤー天体写真儀の主要部分、レボイル・パシュウィッツ型傾斜計などの貴重な資料を展示します。
この機会にぜひご高覧ください。

展示概要

【1章 明月記】
『明月記』に記された超新星の記録について、記された超新星の発見当時と現在の見え方などとあわせて解説。『明月記』の筆者である藤原定家、そして超新星の観測を行った陰陽師・安倍晴明の一族についても紹介します。
また、国宝『明月記』のうち、超新星(客星)の記録が記載されている箇所を期間限定(9月17日~28日)で現物展示します。

【2章 射場保昭-明月記を世界へ】
『明月記』の超新星の記録を世界に知らせたのは、アマチュア天文家・射場保昭(いば・やすあき)でした。
彼が何物かは長く謎のままとなっていましたが、2年前に彼の詳細がついに明らかになりました。肖像写真などの関連資料とともに、その人物像を初公開します。

【3章 山本一清-天文学を市民へ】
射場は京大花山天文台の初代台長だった山本一清と深い親交がありました。
山本は天文学の普及活動を熱心に進め、日本のアマチュア天文学を世界一にするのに大きく貢献しました。この章では、3年前に山本天文台より京大へ寄贈された山本の膨大な資料の一部を紹介します。

【4章 京大宇宙地球科学のパイオニア達】
山本の師・同僚だった20世紀前半の京大の宇宙地球科学者、新城新蔵・志田順・松山基範たちは、当時既に世界的研究成果をあげており、それぞれ宇宙物理学教室、地球物理学教室、地質鉱物学教室の祖となりました。ここでは、これらの先駆者たちの功績を資料とともに紹介します。

【5章 石塚睦-ペルー天文学の父】
戦前の山本たちによるペルー日食観測がきっかけとなり、1957年に単身ペルーにわたった京大院生・石塚睦。彼は30年かけて完成させた太陽コロナ観測所をゲリラに爆破されるという苦難を受けつつも、ペルー天文学の父となりました。ここではその不屈の人生を紹介します。

【6章 最新宇宙像】
『明月記』の記録から明らかにされた超新星とはどんな天体なのか?それは人間や生命の存在とはいかなる関係にあるのか?ここでは、最新観測に基づいた宇宙像を紹介します。京大で建設計画を進めている岡山3.8m望遠鏡が解明を狙う謎の爆発現象(ガンマ線バースト、スーパーフレア)についても解説します。

(資料3)

藤原定家:超新星と陰陽道
太陽より8倍以上の重い星は最後に超新星爆発をおこし、その一生を華々しく終えます。 現在、かに星雲(M1)として知られる星雲はそのような爆発の残骸で、違った年に撮影した写真を比べると今も膨張しているのが分かります。 その超新星の記録が中国、そして日本の藤原定家の日記『明月記』などに残っていて、爆発の起きた年が1054年と特定されています。 一方、現在の膨張する早さから逆算すると爆発したのが1130±20年と推定されていて、この差はガスの膨張が加速しているためと考えられています。 ちなみにメシエは彗星を観測中に、かに星雲と彗星を混同したために星雲・星団のカタログ作りを思い立ったそうです。ところで、定家が生れたのは1162年ですから、超新星が出現してから100年以上も後のことになります。 実はこの超新星は定家が実際に見たわけではなかったのです。 藤原定家といえば『新古今和歌集』の撰者の一人で、百人一首を編んだ和歌の第一人者です。 そんな彼がどうして超新星の記録を残したのか、彼と陰陽道のつながりを中心にお話しします。

NASAのフォト・ギャラリーより、地上の望遠鏡で撮ったかに星雲の合成カラー画像(左)と、ハップル望遠鏡で撮った中心部(右、単色像)。 中心少し上に2個並んでいる星のうち、左側の星がパルサー。 かに星雲までの距離は約7000光年で、大きさは約10光年。 Courtesy of Jeff Hester, Paul Scowen, and NASA

 

 

 

 

定家の生涯

 定家は藤原俊成の子として1162年に生まれ、19才の時から『明月記』の記述がはじまります。 当時の日記は今と違って、儀式の詳細を書きとめ子孫に伝えるためのものでした。 定家が生きたのは、源平の争いから鎌倉幕府の成立、承久の乱と激動の時代でした。 青年期までは裕福でしたが、歌人として活躍し『新古今和歌集』の撰者をしたころは、官位の昇進もなく経済的にも苦しかったようです。 晩年になってやっと官位も上がり余裕のある生活を送れました。 そして『小倉百人一首』を選んだりして余生を過ごし、80才でその生涯を閉じます。

斉藤国治著『定家「明月記」の天文記録』の紹介

この本には『明月記』中の天文記録143例をあげて、検算できるものはパソコンを使って検証しています。143例の内訳は

1. 日・月食 :33例
2. 月・惑星の食犯:27例
3. 客星・彗星:13例
4. 初月・終月(2日月は見えなかった。3日月が見えた。など):48例
5. その他(金星昼見・流星・赤気(オーロラ)・白虹・老人星・奇星など):22例

で、1.は主に暦から、2.と3.は主に司天官(陰陽寮の関係者を定家はこう呼んでいることが多い)から情報を得ていて、4.は自分で見た結果を書きとめたようです。 日食の的中率は40%、月食では70%程度で、日食の場合は月の視差を考えないといけないので、月食の予報より難しかったのです。 実際に食が起きなくても、暦に書いてあれば、そのまま食があったと書き記しています。 月や惑星の食や犯(接近)は、予報はできず実際の観測によっていたので、かえって検算の結果とよく合っています。

客星出現

 かに星雲のもととなった超新星の記録は定家69才の時、寛喜二年(1230年)に出現した客星の所に出てきます。 客星とは、普段見慣れない星のことで、超新星、新星、それから彗星も含みます。 この年の客星は彗星でした。 以下、その時の経過を『定家「明月記」の天文記録』をもとに簡単にまとめます。

 客星の記述が初めて出てくるのは十一月一日(以下、日付は全て旧暦)のことで、十一月四日には定家自身この星を見て、「この星朧々として光薄し。その勢い小にあらず。」と記しています。 続いて「去る二日、泰俊朝臣示送す。」として彼からの報告が書かれていますが、その中に「当時のごとくば、客星の条不審なし(今のような時世では客星が出現しでも不思議ではない)」とあるのは、この年と次の年にかけて起きた記録的な飢饉のことを指すと思われます。

 十一月五日には、「備州来たり、客星の事上下殊に驚き恐るる由、粗々これを語る。」の後に、客星の先例として5例挙げられていますが、このなかにはかに星雲のもととなった超新星はふくまれていません。 これらの客星が出現した年の出来事を調べた結果、1例だけは皇子誕生のみで何事もなかった、つまり残りの4例はやはり不吉なことが起こった、とあります。

 十一月八日の末尾に客星出現例として、かに星雲の記録を含めて8例が挙げてあります。 この中には、1006年のおおかみ座の超新星と、1181年のカシオペア座の超新星も含まれていて、これらは現在電波源やエックス線源と同定されています。 この日の記述については、次節で詳しく紹介します。

かに星雲の記録

 2002年冬に京都文化博物館で「冷泉家展」が開かれ、『明月記』も全巻公開されました。 客星記録の部分も広げられていて、実見する機会に恵まれました。 興味深いことに、客星出現例のある十一月八日条では、一日の記述中に3種類の書体が使われていました。 以下の引用(オリジナルの漢文を読み下したもの)のフォントと文字の大きさの違いは、オリジナルでの違いを表しています。

八日乙未、霜凝(こ)り、天晴る。北山雪白し。客星の事、不審により泰俊朝臣に問う。返事かくのごとし。暁夕東西の条、驚きて余りあり。
客星、一昨日の夜前全く現じ候い了(おわ)んぬ。 出現以後、去る二日、陰雲不見に候う。… 暁夕東西に出現し候うの条、もっての外に候う。
客星出現例

後冷泉院・天喜二年(1054年)四月[五月]中旬以後の丑の時、客星觜(し)・参(しん)の度に出づ。 東方に見(あら)わる。 天関星に孛 (はい)す。 大きさ歳星の如し。

(この後、再び最初の書体に戻る)

 このかに星雲の記録中、丑の時は午前2時ごろ、觜と参は28宿中の星宿名でいずれもオリオン座にあって、客星がこれらの星宿と同じ赤経に出た、天関星はおうし座のゼータ星、歳星(木星)のように輝いた、ということです。 また、四月中旬には超新星は太陽に近い位置にあって見えないはずなので五月と訂正する必要があるそうです(天喜二年五月中旬は、ユリウス暦で6月19-28日に相当します)。 又、歳差(地球の首振り運動)のため、太陽と星座の位置関係は、当時と現在の同じ日では異なっています)。

 又、「觜・参の度」の「度」は、他の記録に「彗星、尾(び:さそり座のしっぽ)の度、貫索(かんさく:かんむり座)に近く見わる」などとあるように、28宿の星座で赤経をおおまかに表わすのに使われたようです。 1054年の超新星の記事の場合、觜(オリオンの頭)と参(三ツ星)の赤経はほとんど変わらないので2つを併記したと思われます。

 右の画像は大阪府枚方市の久修園院(くしゅうおんいん)で保存されている、江戸時代の銅製の天球儀です(画像をクリックすると、拡大画像がご覧になれます)。 画像の中央上に「天関」(実際には、「関」の旧字)の字が見えます。 その左はヒアデス、右は現在のふたご座、下はオリオン座(三つ星は星の鋲が欠けています)です。 天球儀に引かれている経線に相当する線は、28宿のそれぞれの範囲を示していて、それらが西洋の黄道十二宮と違って等分されていないこと、觜宿の範囲が極端に狭い(ほとんど二重線になっている)ことが分かります。

 この十一月八日条の書体の違いについて博物館に問い合わせた所、学芸員の土橋誠さんから丁寧な回答を頂きました。 それによると、この部分は陰陽寮から届いた書状を日記の紙継ぎの部分で挟み込んでいる、つまり、ここは定家が書いたものではなく、陰陽寮の官人が書いたと見られる、とのことでした。 個人的には十一月八日の2番目の書体は安倍泰俊が書いて、3番目の書体は陰陽寮の同僚が書いたのではないかと想像していますが、土橋さんはそこまで踏み込んではいません。
 また、日記の部分と陰陽寮の書状は違和感無くおさまっていましたが、当時の紙のサイズは紙漉きの道具の大きさによって規制され、手紙(書状・消息)は懐紙というサイズがよく使われていた、そして、『明月記』もそのような懐紙を使って貼り継いでいた、とのことです。
 これまでは専門家でも現物を見る機会がほとんどなかったらしく、定家の超新星の記録を紹介した文章でも、定家が自分で書き写したことになっていましたが、これで、定家が記録を残した経緯が、また少し明らかになったと思います。

6. 安倍泰俊について

 過去の客星の情報は、日記に明記されているように安倍泰俊から得たものでしたが、彼と定家とはどのような関係だったのでしょうか?
 『明月記人名辞典』で調べると、安倍泰俊は陰陽寮に属する漏刻博士で、嘉禄元(1225)年(定家64才)から寛喜3年(1231年、定家70才)にかけて、『明月記』に10回以上登場することが分かりました。 養父の安倍泰忠も、建仁3年(1203年、定家42才)から寛喜3年(1231年、定家70才)に亡くなるまで同じくらい出てきて、定家に何度か天変を知らせています。
 泰俊が登場する所をまとめると次のようになります。

  • 天変を知らせる:客星を含めて2回
  • 定家のために陰陽道の祭りをとりおこなう:「鬼気祭」2回、「泰山府君祭」「土公祭」各1回:次に引用する所には、泰忠と泰俊が共に出てきます。
    十三日。天晴る。司天の説、伝え聞く。今月十一日、歳星(木星)と 鎮星(土星)共に相犯す、両度あり。(中略)昨日の奏見泰忠朝臣なり。今晩、家中の 青女夢想あり。よって十五日の晩、泰山府君の祭を修すべき由、泰俊朝臣に示し了んぬ。(嘉禄二年八月)
  • 方違えのアドバイス
  • 定家の新築中の家(一条京極邸)の棟上げの日時を決める
  • 定家の家に来て、その頃頻発していた地震について話す
  • 定家の家の畳をねずみが食い破ったことについて占う。病気と火事に注意せよ、とのこと。
  • 泰忠の病状について話す。泰忠の死去後、定家に遺言状を見せる。(計3回)

     

 このように定家と泰俊はひんぱんにやりとりがあり、その多くが陰陽道にかかわることでした。 マンガや小説で活躍する陰陽師と違って、実際の陰陽師はこのような活動をしていたようです。

7. 超新星と陰陽道

 陰陽道は、中国の陰陽・五行説にもとづいて陰陽と五行(木火土金水)の循環によって森羅万象の変化を説明し、予測する体系です。 そこに、政治が乱れると天変として警告を受けるという考えが加わり、天文とのつながりが生れます。 当時の日本では、陰陽寮が陰陽道に関することをつかさどり、人々は陰陽寮が発行する暦に従って、物忌み(外出をひかえる)や方違え(不吉とされる方角へは行かない)をしていました。 また陰陽寮に属する天文博士たちが天変がないかどうか観測していました。 そして天変が起きると大赦を行ったり、神社や寺でお祈りが捧げられたりしていました。 このように陰陽道は人々の生活を支配していたのです。

 『明月記』にも「客星の事、上下(の人々)殊に驚き恐るる」「甚だ不吉」「今日十三社奉幣(客星御祈り)」などとあり、貴族ばかりでなく広い層の人が天変に注目し、また恐れていたことがわかります。 又、過去の客星出現の年を調べても、何事も無かったのは1例だけだった、とあります(前出4.の十一月五日条)。 陰陽遼では天変が起きると、報告書(天文勘文)を朝廷に出すことになっていて、そこには色々な本に書いてある占いの文章とともに、過去の前例も書かれていました。 そのため、陰陽寮では彗星や客星の出現リストが作られ、興味を持った貴族にも配られていたようです(詳しくは、『明月記』と『一代要記』または、彗星リストと客星リストを参照)。

 定家のような貴族は暦を見るほかに、泰俊のような陰陽道の専門家とつきあっていて色々なアドバイスを受けていました。 貴族と陰陽師との個人的なつながりは、定家に限らず当時はよくあったことで、たとえば藤原道長は、安倍晴明・賀茂光栄・安倍吉平(晴明の子)を個人的に用いていることが、日記の記述から分かっています。 貴族は陰陽道のアドバイスを受け、陰陽師は経済的な援助(米などの現物支給や荘園の管理職など)を受ける、という関係にあったのです。

8. 月と和歌

 以上のように星については天変として恐れることが多かったのに対し、月は非常に愛したようで『明月記』にも「東に月昇る」「月晴明」などとひんぱんに出てきます。 斉藤国治氏の集計によると月の記述は『明月記』中に500回以上出てきて、旧暦の日付(ほぼ月令に相当する)では15日が最も多く、3日が続いています。

定家の和歌にも月は多く登場し、星もわずかながら詠まれています。これは他の歌人にも共通することで、百人一首にも月の歌が12首含まれています。 ここでは、定家の月と星の和歌3首を紹介します。

なにとなく心ぞとまる山の端にことし見初むる三日月のかげ

おおぞらは梅のにほひにかすみつつ曇りもはてぬ春の夜の月
(大空は梅の芳香でかすんで、といってもそのために曇りきってもしまわない春の夜の月よ)

風のうへに星の光は冴えながらわざとも降らぬ霰をぞ聞く
(風の吹く空の上に星の光は冴えていながら、時々思い出したように降る霰(あられ)の音を聞く)

9. 定家の遺産

 『明月記』は応仁の乱などの戦乱時にも子孫によって守られ、現在の冷泉家に伝わり、2000年に国宝に指定された。
 現在の冷泉家邸宅は、寛政二(1790)年に建てられた現存する最古の公家住宅で、重要文化財に指定されている。 普段は公開されていませんが、2005年秋に特別公開された。  『明月記』は今でも、敷地内の蔵で保存されている、とのことでした。

 定家が超新星の記録を残したのは、現代の天文学的な興味を持っていたわけではなく、陰陽道にもとづいて天変を恐れていたためであった。 そして、普段からつきあいのあった陰陽寮の安部泰俊から、客星の出現例を入手して、過去に客星が出現したときに、どんな悪いことが起きたのか知ろうとした。 しかし、動機はどうあれ、日本が世界に誇る超新星の記録を定家が残し、それを定家の子孫が現在まで伝えて来たことに変わりはない。

おまけー 冷泉家の七夕

 冷泉家では旧暦の七月七日に乞巧奠(きっこうでん)が行われる。 芸事が「巧」みになるように星に「乞」い願い、供え物をして祭る(「奠」)という意味である。 朝廷が中国から取り入れた儀式で、後に貴族の間に広まったものです。  その日の夕方、「星の座」に星への手向けの品が置かれ、雅楽が演奏されます。次の「披講(ひこう)の座」では和歌が詠唱されます。 そして「流れの座」になると、天の川に見立てた白い布が敷かれ、その両側に織姫と彦星になった男女が向かい合って座り、即興で和歌を詠み交わします。  この乞巧奠が変化して、今私たちが親しんでいる七夕になった。

*                 *

付録 かに星雲のもととなった1054年の超新星の日本での記録は、『明月記』の他にもう一つ、『一代要記』がありますが、両者の関係については『明月記』と『一代要記』または、彗星リストと客星リストに書きました。

主要参考文献

今川文雄『訓読明月記』
今川文雄『明月記人名辞典』
齋藤国治『定家「明月記」の天文記録』
堀田善衛 『定家明月記私抄(正・続)』
Nugent, R. L. ``New Measurements of the Expansion of the Crab Nebula'' 1998, PASP, 110, 831

( http://homepage3.nifty.com/silver-moon/teika/teika.htmより抜粋)

 


『明月記』と『一代要記』または、彗星リストと客星リスト