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林羅山との論争 01 

2022-05-26 04:00:00 | 日本教から脱出するにはどうするのか
5/7にハビヤンの経歴を書きましたが、ハビヤンはキリスト教信仰を捨てます。

いわゆる棄教です。

それを「排耶蘇」において、1606年にハビヤンを尋ねて来た、林羅山(注・01)、

その弟である信澄と論争したことを書いています。

その後すぐに棄教しています。

1620年にハビヤンが書いた反キリシタン文書「破提宇子」が書かれていますが、

その中に15年前に棄教したと書かれていますので、

この論争の直後に棄教となるわけです。

しかし、「排耶蘇」の記録では、論争といえないような状態あったのです。


林羅山(注・01)
はやし らざん、天正11年(1583年) - 明暦3年1月23日(1657年3月7日))
天正11年(1583年)、京都四条新町において生まれたが、ほどなく伯父のもとに養子に出された。父は加賀国の郷士の末裔で浪人だったと伝わる。幼少の頃から秀才として謳われ、文禄4年(1595年)、京都・建仁寺で仏教を学んだが、僧籍に入ること(出家)は拒否して慶長2年(1597年)、家に戻った。その間、建仁寺大統庵の古澗慈稽および建仁寺十如院の英甫永雄(雄長老)に師事し、雄長老のもとでは文学に長じた松永貞徳から刺激を受けた。家に帰ってからはもっぱら儒書に親しみ、南宋の朱熹(朱子)の章句、集注(四書の注釈)を研究した。独学を進めるうちに、いっそう朱子学(宋学)に熱中していき、慶長9年(1604年)に藤原惺窩と出会う。それにより、精神的、学問的に大きく惺窩の影響を受けることになり、師のもとで儒学ことに朱子学を学んだ。惺窩は、傑出した英才が門下に加わったことを喜び、羅山に儒服を贈った。羅山がそれまでに読んだ書物を整理して目録を作ると四百四十余部に上った。羅山は本を読むのに、「五行倶に下る」といい、一目で5行ずつ読んでいきすべて覚えているという。羅山の英明さに驚いた惺窩は、自身は徳川への仕官を好まなかったので、翌慶長10年(1605年)には羅山を推挙して徳川家康に会わせた。羅山が家康に謁見したのは京都二条城においてであった。家康は、惺窩の勧めもあり、こののち羅山を手元に置いていくこととした。羅山は才を認められ、23歳の若さで家康のブレーンの一人となった。寛永元年(1624年)、3代将軍・徳川家光(秀忠の長男)の侍講となり、さらに幕府政治に深く関与していくことになる。その活躍は、『寛永諸家系図伝』『本朝通鑑』などの伝記・歴史の編纂・校訂、古書・古記録の採集、「武家諸法度」「諸士法度」「御定書百箇条」などの撰定、外交文書の起草、朝鮮通信使の応接など多岐にわたっている。寛永12年(1635年)には武家諸法度を起草し、翌寛永13年(1636年)には伊勢神宮参拝典礼にあたっている。寛永7年(1630年)、将軍・家光から江戸上野忍岡に土地を与えられ、寛永9年(1632年)、羅山は江戸上野忍岡に私塾(学問所)・文庫と孔子廟を建てて「先聖殿」と称した。のちに忍岡聖堂と呼ばれる施設である(これらはのちに神田の昌平坂に移されることとなる)。この私塾からは、多くの門人が輩出し、後世の昌平坂学問所の基礎となった。また、尾張藩初代藩主の徳川義直は、羅山が羅山の私邸の一角において孔子を祀る略式の釈奠を執り行うことについて援助しており、晩年は幕府より910石を給せられた。徳川家の家康・秀忠・家光・家綱の将軍4代に仕えた羅山は、初期の江戸幕府の土台作りに大きく関わり、様々な制度、儀礼などのルールを定めていった。学問上では、儒学・神道以外の全てを排し、朱子学の発展と儒学の官学化に貢献した。博識で、学問書だけでなく紀行書を著すなど文人としての活躍ぶりも多彩である。羅山は幕府に対しては僧侶の資格で仕えながら、仏教批判をおこなっている。
(ウィキから)
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