ハバクク書
◆主の答え
2:1 わたしは歩哨の部署につき/砦の上に立って見張り/
神がわたしに何を語り/わたしの訴えに何と答えられるかを見よう。
2:2 主はわたしに答えて、言われた。
「幻を書き記せ。走りながらでも読めるように/板の上にはっきりと記せ。
2:3 定められた時のために/もうひとつの幻があるからだ。
それは終わりの時に向かって急ぐ。人を欺くことはない。
たとえ、遅くなっても、待っておれ。それは必ず来る、遅れることはない。
2:4 見よ、高慢な者を。彼の心は正しくありえない。
しかし、神に従う人は信仰によって生きる。」
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49回目となる「真のリバイバルとは何か」のテキストは、
1953年に発行されたF・オルフォード著「リバイバルの渇望」
(いのちのことば社)です。
私の座右の書は聖書の次に3冊で、その1冊なのです。
1・F・オルフォード著「リバイバルの渇望」
2・神の国の証人ブルームハルト父子(井上義雄著・新教出版社)
3・「カミング・リバイバル」(ビル・ブライト著・パトモス社)
このブログでは、上記1を叩き台にしていますし、
また3は、この本をそのまま連載し、 最近は解説をしています。
さて、F・オルフォード著「リバイバルの渇望」の核心を
そのまま紹介しましょう。
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神がイエス・キリストの教会を絶望に追いやられるのでなければ、
決して私たちの上にリバイバルが起こることはない、
と私は確信しています。
キリスト者が、宗教的組織、物質的な富、大衆にこびるような説教、
浅薄な伝道や宣伝に信頼を置くことができるかぎり、
決してリバイバルは起こりません。
しかし、肉の信頼が打ち砕かれ、教会が、
神の前における自分の絶望的な惨めさ、盲目、裸を悟る時、
その時、そしてその時だけ、神は入って(突入)来られれます。
そうです。
そこに絶望の時がなければなりません。
しかし、また、「とりなしの時」がなければなりません。
「わたしは歩哨の部署につき/砦の上に立って見張り/
神がわたしに何を語り/わたしの訴えに何と答えられるかを見よう。」
とハバククは、一人、神とともにならない段階に達していたのです。
神が天から、見守り、待つよりほかなかったのです。
おお、神よ、私たちをこのとりなしの段階に至らてくだいますように!
私たちは、とりなしの祈りなしには、
リバイバルについて考えることも、語ることもできません。
まして、リバイバルを経験することなどできないのです。
まことに教会がリバイブされていない理由は、結局のところ
「祈らない罪」にあります。
確かにリバイバルのために祈っている個人がいます。
そしてあわれみとみたもう神は、
彼らが必要とする時に祝福を与えておられます。
しかし、祈りのグループはどこにあるのでしょか。
とりなしの祈りをする人々の仲間は、どこにいるでしょうか。
神が天を裂いて、降り、妨げと罪と不信仰の山を
み前に振るい動かしてくださるように、
一体となる苦悩の叫びをあげている教会の群れは、どこにあるでしょうか。
そうです。
この絶望の時に救い出す手段がただ一つあります。
それが祈りです。
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