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バイブルランドin福井

安田由久が驚くべき聖書の世界をご案内します

真のリバイバルとは何か 49 リバイバルはなぜ必要なのか 20 とりなしの祈りなくしてリバイバルはない

2024-11-02 04:00:00 | 正しい霊的復興
ハバクク書
◆主の答え
 2:1 わたしは歩哨の部署につき/砦の上に立って見張り/

神がわたしに何を語り/わたしの訴えに何と答えられるかを見よう。

 2:2 主はわたしに答えて、言われた。

「幻を書き記せ。走りながらでも読めるように/板の上にはっきりと記せ。

 2:3 定められた時のために/もうひとつの幻があるからだ。

それは終わりの時に向かって急ぐ。人を欺くことはない。

たとえ、遅くなっても、待っておれ。それは必ず来る、遅れることはない。

 2:4 見よ、高慢な者を。彼の心は正しくありえない。

しかし、神に従う人は信仰によって生きる。」

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49回目となる「真のリバイバルとは何か」のテキストは、

1953年に発行されたF・オルフォード著「リバイバルの渇望」

(いのちのことば社)です。

私の座右の書は聖書の次に3冊で、その1冊なのです。


1・F・オルフォード著「リバイバルの渇望」

2・神の国の証人ブルームハルト父子(井上義雄著・新教出版社)

3・「カミング・リバイバル」(ビル・ブライト著・パトモス社)


このブログでは、上記1を叩き台にしていますし、

また3は、この本をそのまま連載し、 最近は解説をしています。

さて、F・オルフォード著「リバイバルの渇望」の核心を

そのまま紹介しましょう。

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神がイエス・キリストの教会を絶望に追いやられるのでなければ

決して私たちの上にリバイバルが起こることはない

と私は確信しています。

キリスト者が、宗教的組織、物質的な富、大衆にこびるような説教、

浅薄な伝道や宣伝に信頼を置くことができるかぎり、

決してリバイバルは起こりません。

しかし、肉の信頼が打ち砕かれ、教会が、

神の前における自分の絶望的な惨めさ、盲目、裸を悟る時

その時、そしてその時だけ、神は入って(突入)来られれます。

そうです。

そこに絶望の時がなければなりません。

しかし、また、「とりなしの時」がなければなりません。

「わたしは歩哨の部署につき/砦の上に立って見張り/

神がわたしに何を語り/わたしの訴えに何と答えられるかを見よう。」

とハバククは、一人、神とともにならない段階に達していたのです。

神が天から、見守り、待つよりほかなかったのです。

おお、神よ、私たちをこのとりなしの段階に至らてくだいますように!

私たちは、とりなしの祈りなしには、

リバイバルについて考えることも、語ることもできません。

まして、リバイバルを経験することなどできないのです。

まことに教会がリバイブされていない理由は、結局のところ

「祈らない罪」にあります。

確かにリバイバルのために祈っている個人がいます。

そしてあわれみとみたもう神は、

彼らが必要とする時に祝福を与えておられます。

しかし、祈りのグループはどこにあるのでしょか。

とりなしの祈りをする人々の仲間は、どこにいるでしょうか。

神が天を裂いて、降り、妨げと罪と不信仰の山を

み前に振るい動かしてくださるように、

一体となる苦悩の叫びをあげている教会の群れは、どこにあるでしょうか。

そうです。

この絶望の時に救い出す手段がただ一つあります。

それが祈りです。

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