ハビヤンはキリスト教の歴史をというより日本に伝えられたカトリックの教え、
ならびにパードレを通して、日本には
「ナツウラの教え」があることを書いています。
これは「現世安隠、後世善所」、いわゆるこの世界には、争乱も、
迫害も殉教も入る余地はないといいます。
ゆえにキリスト教はそのことを何も教えてくれなかったとなります。
ゆえにキリシタンが争乱の原因となるならば、
キリシタンはなくなるのであろうという論法になります。
ハビヤンのこの「ナツウラの教え」は
1・自然法であること
2・愛恩の義務があること
3・血縁への忠誠
なのです。
この教えは、ハビヤン十戒の中核であり、日本教の中核なのです。
ハビヤン十戒の第一戒めは、「主人を崇めよ」でした。
彼はキリスト教国の天国の教えに期待をしていたのです。
なぜなら日本の宗教、神道も仏教も儒教も
長い戦国時代という争乱を支配できなかったからです。
さてハビヤンの平家物語では勝者とは、
「ナツウラの教え」の違法者、敗者も同様です。
そこで源頼朝を高く評価しています。まず、
1・頼朝は人を人と思い
2・決炎関係に忠実であり、
3・愛恩に忠実であった
それゆえに天下を掌握できたのだということになります。
つまり頼朝は
1・現世安隠=平和
2・後世善所=精神的平和
をもたらして生涯を送ったのだと書いています。
しかし、頼朝の最後の生涯も子供たちもそうではありませんでした。
平家の滅亡(注・01)は平宗盛(注・02)の死で
ハビヤンの平家物語は終わっています。
平家の滅亡(注・01)
陸上からの攻撃を予想していなかった平家軍は不意をつかれ海上に逃れました。 熊野別当湛増などの水軍を味方に引き入れた義経は、平家を追い詰めると、3月24日、長門国の壇ノ浦で平家軍を全滅させました。 平宗盛は捕えられ鎌倉へ送られています。
平宗盛(注・02)
宗盛は他の捕虜とともに帰京する。浄衣を着た宗盛は、簾を上げた車に清宗と同車して、大路を渡された。車は武士(土肥実平・伊勢義盛)が厳しく警護し、見物人が群れを成して見送った。5月7日、宗盛・清宗は義経に連行されて鎌倉に向かう。九条兼実は「配流の儀にあらず」[69]と記しており、死罪は決定していたと思われる。宗盛は輿に、清宗は騎馬に乗り[19]、5月16日、鎌倉に入った。6月7日、宗盛は敗軍の将として頼朝の前に引き出される。頼朝は勝者として簾の中から宗盛を眺め、比企能員に自らの言葉を伝えさせた。『吾妻鏡』『平家物語』によれば、宗盛は卑屈な態度に終始して助命を乞い、集まった者から非難・嘲笑されたという。6月9日、宗盛は京都に送還され、21日に義経の命を受けた橘公長の手により、近江国篠原宿で斬首された。享年39。嫡男・清宗、次男・能宗(幼名・副将)、その他男児二人(名前は不明)も順次処刑され、宗盛の男系血統は途絶えた[注 3]。『平家物語』では「父子とも野洲で」、『源平盛衰記』では「6月22日に父子とも勢多で斬られた」とも記されている。宗盛・清宗父子の首は、6月23日に六条河原に持って行かれ、検非違使の平知康らが受け取り、獄門の前の木にかけられたという。(ウィキ)