神への関心が起こされるたびに、
自分は霊的に飢え渇いていると思う人もいるようです。
しかし、それはまだ飢えとは呼べません。
神の国に関する本を買うことは良いことですが、
それもまだ飢えとは言えません。
飢えとは、私たちがそれなしでは生きていけなる事であり、
神を求めるために生き方を変えてしまうことです。
飢えの度合いを測る良いバロメーターになるのは、
自分がその飢え渇いているもののために、時間やお金、
安全をどのような優先順位で配分しているかを見ることです。
主はエレミヤを通してこのように語りました。
エレミヤ記
29:12 そのとき、あなたたちがわたしを呼び、
来てわたしに祈り求めるなら、わたしは聞く。
29:13 わたしを尋ね求めるならば見いだし、心を尽くしてわたしを求めるなら、
29:14 わたしに出会うであろう、と主は言われる。
わたしは捕囚の民を帰らせる。
わたしはあなたたちをあらゆる国々の間に、
またあらゆる地域に追いやったが、そこから呼び集め、
かつてそこから捕囚として追い出した元の場所へ連れ戻す、
と主は言われる。
神は純粋で飢えた心をもって求めるのなら、
誰でもご自身を明らかにすると約束されます。
エレミヤは、神が私たちの祈りの言葉を口に
出すことだけを求めているのではないと教えています。
神は私たちの心を見通し、私たちの霊的な空虚さや弱さを
見透かしておられるので、私たちのスピリチュアルな言葉や
大言には動かされません。
多くの西洋の教会は、このことを理解していません。
私たちは毎週、礼拝に出席し、祈り会にも参加するかもしれません。
神に愛していることを伝え、
もっと時間を捧げたいと祈ることもできるかもしれません。
しかし、神はそう祈っている間もずっと、
私たちに生活を変え、関係を深めることを求めておられるのです。
【ブログ編集者から】
この箇所を読むと私たちの信仰がいかに安価な恵みで満足しているかです。
神の求めておられることを全くはき違えているのです。
そしてエレミヤが私たちに問いかけたのは
恐るべき言葉であったことを知ります。
神の求めは、あなたに「私たちに生活を変え、関係を深める」
ことにすべてがあったのです。