◆施しをするときには
6:1 「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。
さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。
6:2 だから、あなたは施しをするときには、
偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、
自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。
はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている。
6:3 施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。
6:4 あなたの施しを人目につかせないためである。
そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。」
先回、書きましたように今井館の維持献金にも名簿が記載されていますし、
先般、送られてきた愛農高校女子寮の建設に関しても名簿が記載されていましたが、
いずれもイエスの言われた山上の戒めを日常性の中に生かせず、
これは主イエスの新しい戒めへの違反行為なのです。
その原因は、日本教だからです。
日本の神社に行くと寄進された方が板に書かれて掲げられています。
これも日本教なのですが、それと同類なのです。
ではイエスのいわれる「偽善者」とは何か、
それは自分では良いことだと思ってやっていることが自己主張している
(名簿を記載している)ことなのです。
これは自己主張というクリスチャンがやってはならないことなのです。
それは神を侮辱することなのです。
神だけに向けられる事柄(神への献げもの)が、人に向けられてしまうからです。
そして神を利用していることにほかならいからなのです。
私は今井館も愛農高校も名前を記載してほしくなかったし、
絶対にしてはならないと思っていましたが、
今時、郵便料金も印刷費も高額なのに、
最も高いカラー印刷で送られてきたこと自体がナンセンスで、すごく残念に思いましたので、
これから献金リスト記載を止めるように両方に申し入れをしたいと考えています。
そして3節の意味するところは、信仰は自分で自分を知らない、
クリスチャン同士が互いに確信したり、顧みることは全く必要ないということです。
自分が献金したのにリストに記載していないと事務局にクレームをつけてはならないということです。
クリスチャンの献金はお互いを見る必要も確認する全く必要がありません。
ただひたすらイエスだけを仰ぎみることであり、
他人を意識して献金リストを目を皿のようにしてみていること自体が罪なのです。
山上の説教は、ただひたすらイエス・キリストだけを仰ぎ見ることなので、
「右の手のすることを左の手に知らせてはならない」のです。
そうすれば神はあなたを顧みるのだと約束しておられるのです。
6:1 「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。
さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。
6:2 だから、あなたは施しをするときには、
偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、
自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。
はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている。
6:3 施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。
6:4 あなたの施しを人目につかせないためである。
そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。」
先回、書きましたように今井館の維持献金にも名簿が記載されていますし、
先般、送られてきた愛農高校女子寮の建設に関しても名簿が記載されていましたが、
いずれもイエスの言われた山上の戒めを日常性の中に生かせず、
これは主イエスの新しい戒めへの違反行為なのです。
その原因は、日本教だからです。
日本の神社に行くと寄進された方が板に書かれて掲げられています。
これも日本教なのですが、それと同類なのです。
ではイエスのいわれる「偽善者」とは何か、
それは自分では良いことだと思ってやっていることが自己主張している
(名簿を記載している)ことなのです。
これは自己主張というクリスチャンがやってはならないことなのです。
それは神を侮辱することなのです。
神だけに向けられる事柄(神への献げもの)が、人に向けられてしまうからです。
そして神を利用していることにほかならいからなのです。
私は今井館も愛農高校も名前を記載してほしくなかったし、
絶対にしてはならないと思っていましたが、
今時、郵便料金も印刷費も高額なのに、
最も高いカラー印刷で送られてきたこと自体がナンセンスで、すごく残念に思いましたので、
これから献金リスト記載を止めるように両方に申し入れをしたいと考えています。
そして3節の意味するところは、信仰は自分で自分を知らない、
クリスチャン同士が互いに確信したり、顧みることは全く必要ないということです。
自分が献金したのにリストに記載していないと事務局にクレームをつけてはならないということです。
クリスチャンの献金はお互いを見る必要も確認する全く必要がありません。
ただひたすらイエスだけを仰ぎみることであり、
他人を意識して献金リストを目を皿のようにしてみていること自体が罪なのです。
山上の説教は、ただひたすらイエス・キリストだけを仰ぎ見ることなので、
「右の手のすることを左の手に知らせてはならない」のです。
そうすれば神はあなたを顧みるのだと約束しておられるのです。