マタイによる福音書
6:27 あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、
寿命をわずかでも延ばすことができようか。
6:28 なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、
注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。
6:29 しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、
この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。
6:30 今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、
神はこのように装ってくださる。
まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。
6:31 だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、
思い悩むな。
6:32 それはみな、異邦人が切に求めているものだ。
あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことを
ご存じである。
6:33 何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。
そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。
6:34 だから、明日のことまで思い悩むな。
明日のことは明日自らが思い悩む。
その日の苦労は、その日だけで十分である。」
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さて、33節はかなり強い言葉ですが、「何よりもまず」とあり、
これは選択の余地がない絶対的な言葉です。
神の側につくことは富とは比べうることとなどできない、絶対的なものです。
しかし、富に目をくらませるとその比較もできず、
神につくことすら忘却するという愚かさを露呈します。
私たちが何よりも求めなければならないのは「神の国と神の義」であり、
神の支配を求めていくことよりも地上の栄華、
富を求めるほど愚かなことはありません。
神の義も現わされるのは終わりの日ですが、それは究極のことであり、
まずイエスにあって現在に現わされるのが「神の国と神の義」です。
それゆえにキリスト教会が主イエスのからだとして与えられているのです。
その教会の礼拝や奉仕、伝道、賛美などにキリストの体として
機能して働くように神は恵みを増す加えられておられるのです。
ですからイエスに従うとは、まずキリスト教会につながることです。
私は聖霊体験、つまり神体験してから30年になりますが、
主日礼拝は一度も休んだことがありません。
それはイエスへの服従を第一とするからです。
富に使えて、神を二番手にしていた
愚かな結末(妻の急死)を体験したからです。