太った中年

日本男児たるもの

先軍政治の背景

2012-01-17 | weblog

先軍政治とは金正日の指導理念で「軍隊は人民であり、国家であり、党である」とする軍・軍事を最優先させる統治方式。この先軍政治を継承して金正恩体制がスタートした。先軍政治が金正日による経済政策の失敗から導き出されたことは余り知られていない。

金正日が、父親から後継者として指名されたのは1973年。共産主義体制下での権力世襲という異様な決定が下され、秘密裡にその準備が進められた。公表されたのが1980年。それから金日成は徐々に息子に仕事を移し、80年代末には「外交分野の若干の仕事以外には、みな金正日に任せてある」という状況であった。

息子がなにもかもうまくやっている、と思っていた金日成が愕然としたのが、1990年の秋だった。金正日の放漫な政治で、 農業生産は年々収穫を減らしており、10万人もの餓死者まで出ていた。国連世界食料計画(WFP)から食料援助を受け入れるという外交部(外務省)の提議を金正日が許可した。

WFPの職員がやってきて、餓死者に関する統計資料を求めた。その資料を出して良いか、と聞かれた金日成は、はじめて実態を知って激怒した。

それまでは、金日成が農村に行くときは、事前に農家の米びつにコメをぎっしりつめ、冷蔵庫には肉や卵などであふれさせて、「農民たちが偉大な金日成首領様のおかげでいかに豊かな生活を享受しているか」演出されていたのである。

金日成は自分が騙されていた事を知り、金正日に対して強い失望と怒りを覚えた。

この少し前、金正日を震い上がらせた事件が起こっていた。前年の12月25日、友好国ルーマニアの独裁者チェウシェスクが民衆蜂起の中で処刑されたのである。経済崩壊の危機を迎えていた北朝鮮でも同様に民衆蜂起が起こり、自分たちも家族もろとも虐殺されるかもしれない。金親子は恐れおののいた。

半年前に起きた中国の天安門事件では、民主化を要求する学生たちを中国共産党は戦車で踏みつぶした。金日成は「人民の統制と管理」には軍隊を完全に掌握する必要があると考えた。金日成は1年後の91年12月に、朝鮮人民軍最高司令官のポストを金正日に譲った。しかし金正日には軍事面の経験が皆無だった。

92年4月25日、朝鮮人民軍創建60周年パレードは、金正日の軍最高司令官としてのお披露目の舞台だった。一部の若手将校達が行進する戦車から、金日成、金正日ら壇上の首脳を砲撃し、一挙に葬り去るというクーデター計画を立てたが、秘密が漏れて一網打尽に処刑された。

金正日を最高司令官に据えただけでは、軍は掌握できない。エネルギー危機、食糧危機で人心の動揺は広がる一方である。そこに起死回生の妙案が、金日成の脳裏に閃いた。朝鮮半島に「核危機」を作り出し、あわや第2次朝鮮戦争という状況を作り出す。アメリカが攻めてくると言えば、朝鮮戦争の悲惨さを体験している北朝鮮人民は無条件で団結する。人民軍兵士は兵営に閉じこめて、実家で親たちが餓死に直面している実態を知らせない。

92年5月から行われたIAEA(国際原子力機関)の査察で、核廃棄物貯蔵所との疑いをもたれていた建物を、北朝鮮は通常の軍事施設だと言い張って、立ち入りを拒否した。

93年1月に大統領になったばかりのクリントンは、前ブッシュ大統領が控えていた米韓合同軍事演習を再開するとの決断を下した。軍事的圧力で北朝鮮に査察を受け入れさせ、「外交は素人」という前評判を覆そうとしたのである。金日成は待ってましたとばかり、3月8日に準戦時態勢を発令し、さらに4日後の12日にはNPT(核拡散防止条約)脱退を宣言した。

戦争の危機は、金正日の立場を強化するためにも活用された。小国・北朝鮮が瀬戸際外交によって大国アメリカを思うがま まに振り回し、金正日は官製マスコミによって「無比の胆力」 などと持ち上げられ、軍部の中でも株をあげていった。

93年7月、ジュネーブでの米朝高官協議第2ラウンドにおいて、金正日は腹心の姜錫柱・外務次官に「核開発を中断する代償として、軽水炉型の原子力発電所を2基くれ」と要求した。戦争の瀬戸際まで緊張を高め、そこから譲歩の見返りを要求する、という父親譲りの外交戦術である。

ここまでは金日成・正日親子は一体となって動いていた。両者の食い違いが一気に表面化するのが、94年6月17日、カーター元大統領が平壌を訪れた時である。カーターの調停に応じて、金日成はアメリカとの平和的な話し合いに移ることを約束した。同時にカーターが提案した金永三・韓国大統領との首脳会談をただちに受け入れた。

金日成としては、そろそろ矛の納め時だと考えたのだろう。90年秋に餓死まで発生している事態に驚き、それ以来、農業の立て直しに自ら陣頭指揮をとってきた。今後は、韓国から援助を受けつつ貿易を盛んにし、アメリカからは火力発電所をゆすり取って肥料増産に向かう、という筋書きである。

金正日は父親に韓国との会談をやめてくれ、と何度も懇願した。経済運営に失敗し、瀬戸際外交でようやく地位を保ってきた。ここで平和外交に転じて父親の手で経済再建に成功したら、自分は用済みとなり、後継者の地位は金日成が18年ぶりに復活させた金英柱にさらわれてしまうかもしれない。

やめてくれ、やめない、との押し問答の挙げ句に、金日成は「わたしは朝鮮労働党総書記の権限を行使してでも会議を行う」と最後通牒めいた言葉を吐いた。そして7月5日、6日の韓国との経済協議会で、南北の経済合作と重油発電所の計画を表明したのである。

ジュネーブでの米朝高官協議第3ラウンドは、2日後の8日に開かれることになっていた。すでに北朝鮮側外交代表団はジュネーブ入りしている。ここで金日成が、今まで要求させていた軽水炉を重油発電所に変えるよう指示したら、アメリカ側も即座に合意してしまうだろう。一日の猶予もならない状況に、金正日は追いつめられていた。

そして翌7日の夜金日成が急死した。北朝鮮を脱出した人々の間では、金正日が殺したか、あるいは何らかのショックを与えて死ぬように仕向けたという噂が流れた。

これが事実かどうか分からないが、いずれにしろ、北朝鮮はその後もアメリカに対して軽水炉建設の要求を続け、この年の10月に合意に達した。米国は23億ドルもの軽水炉2基を10年かけて建設してやり、完成までは年間50万トンの重油を提供する。一方、北朝鮮側は現在の原子炉の稼働凍結のみ、という条件だった。これなら、いつでも北朝鮮側は瀬戸際外交を再開できる。金正日の完勝である。「傲慢だった米国は降伏文書に判を押した」と北朝鮮の官製新聞は論評した。

瀬戸際外交で米国を押し切り、国内でも父親がいなくなって、フリーハンドを得た金正日は、食糧危機を逆用して、自らの地位をさらに盤石なものにしようと、新たな政策を始める。チャウシェスク処刑に怯えた金正日の国内敵対階級抹殺政策である。

金正日は苦しんでいる人びとを犠牲にして全軍隊を維持すること、党員幹部が多く住む平壌と他の重要地域の住民に食糧を供給することに断固として固執した。

北朝鮮の東北山間部は戦前、抗日パルチザンが多く、その実績で、戦後ソ連の傀儡として登場した金日成を脅かす力を持っていた。またこの地方には炭坑や鉱山が多く、北朝鮮の10カ所の強制収容所のうち、6カ所がこの地方に集中的に配置されて、反革命分子を強制労働に従事させている。さらに60年代に大挙して帰国した在日朝鮮人も、多くはこの地方に移住させられた。

多くの脱北者はこの地域から出ており、彼らの証言によれば金正日はこの地方への穀物供給を1994年には完全に停止した。他地域に比べ、北東部の死亡率がはるかに高いのはそのためである。金正日はわが身の保身のための先制攻撃として、国内の敵対階級の住む東北地域への食糧供給を絶って、集中的に飢餓を発生させ餓死させた。

管理された飢饉の下、人口2300万人の北朝鮮で300万人以上の餓死者をだした。

飢饉・餓死政策、これが金正日が主導した先軍政治の正体である。ではまた。


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