太った中年

日本男児たるもの

そんなもんや

2011-06-04 | weblog

ハンハイ

先日、花の写真を撮っていたら、平民さんでしょうか?と声をかけられて、そうですそうです、ほうほう、平民さんはペンタックスですか、はい今日はペンタックスとシグマです、いつもはリコーも持ってます、みたいな感じでしばらく立ち話をする事になり、別れ際にじゃあせっかくですから、という事でお互いの記念写真を撮りあった。相手は中判のフィルムカメラを持っていて、撮られている間、やはりデジタルとは時間の流れ方がぜんぜん違うな、というような事を僕は考えていた。雨上がりのやわらかい光の下で僕と撮影者と、三脚に立てられたカメラを結ぶ三点には、ゆったりとした時間が流れている。そしてようやく生み出された一度のシャッター音を聞く間に、僕は連続して九度のシャッターボタンを押していた。このデジタルとフィルムの時間の流れの違いはどちらが優れているとか優れていないとかいう話ではなくって、単に違いが違いとしてここ(僕たちのかまえているカメラとカメラの間)にあるという感じで、とてもおもしろい。さらに大雑把な言い方をするならば、僕たちが違うということはとてもステキなのだった。帰り道、自転車をこぎながら、そういえば酒を飲まなくなってからの自分は、もともと苦手だった人付き合いがさらに苦手になってしまっているような気がずっとしていたのだけど、とりあえず相手のコップと自分のコップになみなみとアルコールを注ぎ、やあやあどうもどうもとか言いながら二つの杯をかち合わせていたあの頃の、人間に対する気易さを、ふと懐かしく思ったりもして、あの気易さ、乾杯の魔法をもう一度手にいれる事が出来たらな、とコンビニの前に自転車を止めながら、思った。店のドアを開け一直線に冷凍庫の前に行き、アイスクリームを選びながら、でもその気易さは何も酒の入ったコップを持たなくっても、自分がいま首からぶら下げているカメラを使ってでも手にする事が可能なんじゃないだろうか?というささやかな予感がこみ上げてきて、そう感じた後で下を向くと無骨なペンタックスがいつもよりたのもしくも見え、僕はレジに向かう。カンパイ、ほんの数年前まで、どこかの誰かと僕との間に確かな感触で響いていたガラスコップの擦過音のようにシャッターをきりたい。乾杯。それから僕はコンビニを出て自転車に鍵をさし、封をあけたジャンボチョコモナカを口にくわえたまま「ハンハイ」と声に出してみる。ハンハイ、西日が射す空の、飛行機雲が伸びて行く方向に僕の部屋があった。クラクション。パチンコ屋の音。学校帰りの高校生たちの笑い声。流れる景色。汚れたペダル。空き缶。煙草の吸い殻。こわれた右のブレーキ。さかりのついた猫。空に舞うビニール袋。ヒナゲシの花。駐車場に止められた軽トラックの割れたテールランプ。まったくクソみたいに重っ苦しい毎日。ハンハイ、タフに生きて行く僕たちと、ひんまがった信号機、のしかかってくる空、ハトの死骸、雨上がりの虹、涙が出そうだよ、汚れたペダル、こわれた右のブレーキ、出会ったすべての物たちと、遠くで暮らす見知らぬ人たち、咲きかけの紫陽花、瓦礫に眠る魂、シャッターのおりた魚屋、ガムのついたペダル、みんなの孤独に。

(以上、平民新聞より転載)

この散文に打ちのめされた。平民新聞は時折信じがたいほど秀逸な写真や文をエントリーする。

それにしても「ハンハイ」って何だろうな、まあいいか。乾杯。平民新聞に。

さて、エントリータイトル「そんなもんや」は関西弁を話すラリーのオッチャンがフィリピン人やフィリピン社会を語るときの口ぐせ。「フィリピンなんてそんなもんやでぇ」、そやさかい「アカンなぁ、諦めい」となる。

つまりフィリピンで暮らすには諦観が必要で、それがないと怖ろしくストレスが溜まるのである。

いや、諦観してもストレスは溜まる。一歩外へ出れば、トライシクルや車の騒音と排気ガス、辺りかまわず鳴らすクラクション。タクシーに乗れば乱暴な割り込み運転、交通渋滞。そして雲助ドライバーから「もっと金よこせ」とタカられる。「そんなもんや」と思ったところでイライラは解消できない、募る一方なのだ。

そんなワケでストレス解消薬サンミゲルライトは欠かせない、つー酒飲みの言い訳をしたかった。

フィリピンは雨期に入った。昼下がり、小雨が降る中飲むサンミゲルライトもまた格別の味わい。

乾杯。フィリピーナから虐げられた日本男児に。

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