どんな言葉も道具にすぎぬくやしさの梯子まっすぐ天まで掛けよ
初めに断っておくが、永井はクリスチャンではない。歌集を読んでいくと、親が木魚を所有していたような家柄に生まれたことが分かる。
掲出歌は、「どんな言葉も道具にすぎぬ/くやしさの梯子まっすぐ天まで掛けよ」と二句切れに取るか、それとも句切れなしと取るかで、若干意味が変わってこよう。二句切れの場合、〈どんな言葉も道具に過ぎない。だから悔しいことがあったら言葉の表面的なことに囚われずその気持ちをまっすぐ天に届けよう〉といった意味になるだろう。句切れなしと読んだ場合、〈どんな言葉も所詮は道具に過ぎないという悔しさを天にまでぶつけよう〉という風に解せるだろう。永井の言葉に対する鋭敏な感性からして、句切れなしと私は捉えた。永井が言葉に寄せる思いに並々ならぬものがあるのは、歌群のそこかしこから伝わってくる。けれど彼女の怜悧さは、自身を言葉へ埋没させることを頑なに拒んでいる。ゆえに「道具にすぎぬくやしさ」に居た堪れなくなるのは裏腹なのだ。そしてそれは、信じきっているわけではない天にいます存在へと突き上げる思いとなって溢れてくる。
地の底にどこへも行けぬ鬼がいてくやしまぎれに歌う賛美歌 『葦牙』
「梯子(はしご)」と聞いて思い出されるのは、《ヤコブの梯子》である。創世記28章11~12節には、長子の祝福をだまし取ったヤコブが兄エサウから逃れるための道行きの途中、天まで届いた梯子を天使たちが上り下りしている夢を見たと記されている。
天への梯子さがしあぐねしをさな児にひと刷けの藍くれたり雲は 『樟の木のうた』
永井は後年、第三歌集の『樟の木のうた』に上の歌を収めている。第一歌集では悔しさをぶつける対象であった天は、ここではやや趣を変えている。天への梯子を見つけられない幼子に、光が洩れ出づる筋道が見えるようにと雲が立ちこめてきたのだという。奇しくも、この歌を含んだ一連は「泣いた赤鬼」という題が付され、次のような一首もある。
男ゐて「泣いた赤鬼」のものがたりつづけてひすがら地は冷えてゆく 『樟の木のうた』
『葦牙』では意地を張って賛美歌を歌っていた鬼の虚勢は、影をひそめている。時間の経過と共に永井の心境の変化があったのかどうか、当て推量はよそう。しかし神様の側から見れば、確かに永井にも、また私達にも天の梯子は掛けられていたのではないだろうか。
永井陽子『葦牙(あしかび)』
初めに断っておくが、永井はクリスチャンではない。歌集を読んでいくと、親が木魚を所有していたような家柄に生まれたことが分かる。
掲出歌は、「どんな言葉も道具にすぎぬ/くやしさの梯子まっすぐ天まで掛けよ」と二句切れに取るか、それとも句切れなしと取るかで、若干意味が変わってこよう。二句切れの場合、〈どんな言葉も道具に過ぎない。だから悔しいことがあったら言葉の表面的なことに囚われずその気持ちをまっすぐ天に届けよう〉といった意味になるだろう。句切れなしと読んだ場合、〈どんな言葉も所詮は道具に過ぎないという悔しさを天にまでぶつけよう〉という風に解せるだろう。永井の言葉に対する鋭敏な感性からして、句切れなしと私は捉えた。永井が言葉に寄せる思いに並々ならぬものがあるのは、歌群のそこかしこから伝わってくる。けれど彼女の怜悧さは、自身を言葉へ埋没させることを頑なに拒んでいる。ゆえに「道具にすぎぬくやしさ」に居た堪れなくなるのは裏腹なのだ。そしてそれは、信じきっているわけではない天にいます存在へと突き上げる思いとなって溢れてくる。
地の底にどこへも行けぬ鬼がいてくやしまぎれに歌う賛美歌 『葦牙』
「梯子(はしご)」と聞いて思い出されるのは、《ヤコブの梯子》である。創世記28章11~12節には、長子の祝福をだまし取ったヤコブが兄エサウから逃れるための道行きの途中、天まで届いた梯子を天使たちが上り下りしている夢を見たと記されている。
天への梯子さがしあぐねしをさな児にひと刷けの藍くれたり雲は 『樟の木のうた』
永井は後年、第三歌集の『樟の木のうた』に上の歌を収めている。第一歌集では悔しさをぶつける対象であった天は、ここではやや趣を変えている。天への梯子を見つけられない幼子に、光が洩れ出づる筋道が見えるようにと雲が立ちこめてきたのだという。奇しくも、この歌を含んだ一連は「泣いた赤鬼」という題が付され、次のような一首もある。
男ゐて「泣いた赤鬼」のものがたりつづけてひすがら地は冷えてゆく 『樟の木のうた』
『葦牙』では意地を張って賛美歌を歌っていた鬼の虚勢は、影をひそめている。時間の経過と共に永井の心境の変化があったのかどうか、当て推量はよそう。しかし神様の側から見れば、確かに永井にも、また私達にも天の梯子は掛けられていたのではないだろうか。