京大植物園TODAY

京都市左京区の京都大学北部キャンパス内にひっそり佇む現代の杜、京都大学理学研究科附属植物園の日々の風景を紹介します。

百舌の巣立ち(滋賀・比叡平)。

2006年05月29日 13時13分58秒 | Weblog
滋賀県・比叡平在住の京大植物園ファンより、巣立ちモズ(Lanius bucephalus; LANIIDAE)の写真を送って頂きましたので、お手紙の内容とともに紹介します。

『庭にモズの子が落ちてきました。拾ってバケツに入れました。鳥の専門家さんに連絡。留守だったので、京都市動物園に電話しました。「場所はどちらです か。比叡平なら滋賀県の管轄です」。。。。

待っていた専門家さんから連絡がありました。「怪我をしていなかったら、恐ら く巣立ちの最中だろう。カゴに入れて少し高いところに置いて親が来るかどうか様子をみて、一時間以上来なかったら次の手を考えましょう」

しばらくすると、近くで親の鳴き声が。その声につられて、自分で木の枝に移 動。それを親がそばで見守っていました。』

百舌の親啼いて仔を呼ぶ薄暑かな      カッパ

『池苑』(三橋節子画、昭和41年)

2006年05月29日 02時20分05秒 | Weblog
「池苑」(画・三橋節子)。これも、京大植物園の池とその周辺がモデルになっていると考えられる画です。描かれている草が、どの草かわかりますか?

(以下「湖の伝説―画家・三橋節子の愛と死―」(梅原猛著、昭和52年、新潮社、260pp.)第二章、「雑草と虫の画家」より引用。)

『…私は、彼女が自己の画境を発見したのは、昭和四十一年に、新制作秋季展に入選した「池畔」「池苑」の二作を描いた頃ではないかと思う。この画は、池のまわりに数種類の野草が生えている画であるが、作者の野草への愛情がにじみ出ている画である。優美というより、もっと素朴な情感がある。』(同書58頁。)

『…彼女は、ここに来て、はじめて繊細に自然をかくことができた。池のほとりに、多くの日本の草花が咲いている。ただそれだけの風景であるが、いかにも、さわやかな画である。彼女がこの池のほとりの草花に夢中になり、一本一本の草に、深い愛情をそそいでいることが、見る人にじかに伝わってくる。日本画家は、千年の昔から、あくことなく日本の自然をえがき続けてきた。同じ自然がどうしてそんな絵になるのか。私は思う。自然は無限に深く無限に豊かな美を、その内面に宿している。そしてその美は、どんなすぐれた芸術家が、どんなに長い間描き続けたとしても、容易に、描き尽くされるものではない。いってみれば、たった千年や二千年の間の、芸術家の力で、描き尽くされるほど、日本の自然の美は、浅く貧しいものではない。もし画家にして、日本の自然の美は、すでに多くの画家たちによって描き尽くされたと考えたとすれば、それは、その画家自身の自然を見る眼の浅さと貧しさを語るものに外ならないであろう。』(同書59頁。)

『もしも、日本画家の仕事の一つが、新しい自然美の発見であるとすれば、節子もまた、ここに彼女ながらに一つの新しい自然美を発見したといえよう。それは、一口にいえば、雑草の美の発見である。彼女はけっして、多くのひとびとの眼を引き、今まで多くの画家たちによってかかれてきた多くの花、梅だの、桜だの、牡丹だの、バラだのの花を、けっしてかかない。彼女が、好んでかくのは、ほとんど、名も知れない雑草ばかりである。…中略…彼女にかかれて見ると、なるほど、雑草には雑草の美しさがある。ある人が彼女の画の雑草の美しさにおどろいて、その美しい草は何かとたずねたら、彼女は笑って答えなかった。しばらくして、彼女はそれをその人の家にとどけてくれたので、よく見たら、その草は、その人の家の庭に一ぱい生えていた草であったという。』(同書60頁。)

『この話ははなはだ面白い。われわれは自然を見ているようで、裸の眼で自然を見ているわけではない。予め梅や桜は美しく雑草はみにくいと思って見るのである。そして、彼女によって、このように雑草が美しくかかれると、その草が、われわれの庭にあり、われわれが日常見ている草とは思わない。これは芸術家によって、自然が発見されるという一つの例なのである。三橋節子は、このように雑草の画家として画壇に登場したわけである。』(同書60-61頁。)