fantasia*diapsida

とりとめのないメモの山

do sexaroids dream of electric snake ?

2008-03-08 00:00:00 | essai-?

"Si nos dieux et nos espoirs ne sont que des phénomènes scientifiques...
 alors il en suit que notre amour est scientifique, lui aussi."
「我々の神々も我々の希望も、もはや科學的にしか考えられなくなってしまった以上、
 
どうして我々の戀愛もまた同じく科學的に考へてはならぬでせうか」
                                 (ヴィリエ・ド・リラダン著 『未来のイヴ』)


科学はどこまで実現できるのか クローン犬とセックスロボットから見えるものは(ニュース畑) - goo ニュース


 少なくとも、クローンは全く同一の個体を作ることにはならないということぐらいは最低限理解しておかなければならない。
基本的に、均一なのは基となる遺伝子セットのみと考えると、全くの別個体として成立すると考えるのが現実的だ。
例えば遺伝子の変異や組み換えは各細胞で独立に生じるものであるし、
血管や末梢神経の走行なども発生生物学的に後天的要因によって左右されることが明白であるので、
同一になる方がオカシイといった論理は充分通るだろう。

 もっとより外見的な差異として、例えばペットとして飼っていた三毛猫のクローニングを行なったとする。
遺伝子が同じでも元のネコと同じ毛色になる確率は(1/2)×(1/2)×(1/2)×…数億回
[注1] であるが、
たといそれでも、「貴方は私の○○ちゃんよ。」と元と同じであるよう接せられるのでありましょうか。

 ただ、クローンそのものを悪しと捉えることなど断じて出来まい。
挿し木、接木、株分け、などなど、あれは全部クローニングの一形態だ。
現在我々が一般的に目にする野菜やソメイヨシノの花などの少なからずは
野生種とは全く異なる突然変異体を人工的に固定したものでしかない。
通常の生殖を行なって他個体と遺伝子を混合させるとたちまち野生に戻ってしまうため、上記のような方法で増やすしかないのだ。

 そもそも近年話題となっているES細胞もiPS細胞も、平たくは個体として既に存在したものの遺伝子を取り上げ
新たに組織として培養していく技術なのだが、これは?
どうやら一般的にも、クローンが否定的に見られるのはある程度大型な脊椎動物の個体 だ け のようだが
さて、人工臓器などをクローニングで作って自らサイボーグ化されることには意外と積極的になりがちである。

クローン倫理は現在の一般的な倫理の枠組みで大雑把に捉えることは叶わず、まだまだ議論の必要があるでしょうね。



 前置きが長くなった。
こんな話は今までいくらでもある。問題はセクサロイドの方だ。

いや、俺クローン犬はさすがに酷いかなと思うけれど、セックスロボットならまぁいいんじゃないと思える、
頭では。

 でも哀しいかな、残念ながら私はそっち方面には少々保守的でもあり生物進化的倫理観[注2]  に裏打ちされているもので…
なんでだろ、人型ロボット作ってアトムだドラえもんだ言ってたのに、どうして早速そっち行っちゃうの?
アシモフすら飛び越えて、ピュグマリオンのガラテアや、クラリイに似せたハダリー[注3]  が真っ先に浮かんでくるのか?
という、何処となしの気持ち悪さが鳩尾あたりに渦巻く。
「素晴らしいセックスが24時間週7日楽しめることを想像してみてくれ。人間はロボットに恋さえするかもしれないby. デイビッド・レヴィ博士」とな?
頭では分かる理解した、そのつもりだが、、やっぱり理解できないんだそれ。

 だがこれを全否定してしまうことは容易いかもしれないが、そうしてしまうことはより一層の苦痛を得ることになり得ると思われる。
果たして性介助や南極1号[注4]  まで否定してしまうことにゃなりはしまいか。
だって精神的にも肉体的にもハンディキャップを持った人もいっぱいいるわけじゃないか、
-嫁ぐ日を待つ淑女たち-進化するダッチワイフ事情(2)夕刊フジ特捜班「追跡」とか読んだら、少なくとも否定することなんて出来まい。

ただ、ロボットというところが問題だ。
先に言ったよう、特に我々の文化にとって人型ロボットはアトムでありドラえもん(猫型って突込みはナシ)なのだ。
フィリップ・K・ディックや士郎正宗[注5]  の世界ぐらいまで技術進歩が見られたら、その時は今の倫理観の枠だけで語ることは出来まい。

 いや、ひょっとしてそんなのもうとっくに始まっているんじゃないか。
存在が示されていないだけで、というよりその本質が何かすらも分かっていないだけで、
心とか"ゴースト"ってやつが、既に情報の海のそこかしこに浮かんでるんじゃないか、なんてたまに考えてみたりもする。
気が付けばそういう時代になっていたのだ。
例えば、プログラムされた言語に本当に感情はないのだろうか?
詳細は省くが、ヒトの感情も所詮、分子シグナルのカスケードの末端にある表現系の1つに過ぎない。
ロボットの、限りなく高度化された伝達系の先にある微笑、囁き、全てがプログラムされたものであるにせよ、
外部から見た限りそれはヒトのものと相違ない。
しかも、ヒトの言語機能もまたヒトによって後天的にプログラムされるものではないか。
生まれながらに、あるいはヒトと接せず育って、自発的にニホンゴを喋った例があったか?

心理学者には怒られるかもしれないが、でも例えば愛着の湧いた人形を1個2個と数えたりはしないし、
個人や個体の存在を示すものが、例えば他者との関連性においてのみ成り立つものだとするなら
(例えば"地上"や"天地"の概念がなく砂の間隙=0な砂漠の、砂の一粒を認識することは不可能だ)
人形に心が"ない"と断言することは出来るか?

「膨大な情報やネットの広がり、それら全てが<私>の一部であり、<私>という意識そのものを生み出し、
  そして 同時に<私>をある限界に制約しつづける
[注6]

 robotが作業用の道具を意味する現在においても、
本来のrobotに示された人造人間という概念は、その形状を人型にするというただそれだけでそのまま今に受け継がれる。
チャペックがrobotの着想を得たというユダヤ教伝説の土人形ゴーレム(golem)は、ヘブライ語で『胎児』を意味するという。
命を吹き込みたければ額に"emeth(真理)"と書くが、殺すなら"e"を消して"meth(彼は死せり)"とする
ただそれだけでいい、のである。


 セックスロボットに関して何も否定も反発もしない。だが正直賛同もしかねる。
クローンもそうだが、現時点での倫理観は所詮現時点でのものであり、
本来それは技術の発展・時代の推移と共に、常に更新されなければなるまい。
だが科学が民衆の手を離れ一部の人間の手にするものとなった現在、それは何処から叫ばれるものか。
若輩者である俺がそんなことこんな場で結論なんて出せないけれど、
でも今の閉鎖された"絶対性"を求めたがる科学体制は、
ひょっとしてニーチェのツァラトゥストラのような人に一度死亡宣告[注7]  をしてもらうか、
あるいは…?
と、このニュースを読んで考えたのさ。



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注釈:
今回の記事はちょいと微妙な問題を扱うものであるので、主張がブレないよう本筋と特に係わらない解説は極力省いた。
でも「それだと結構分かりにくい人もいるんじゃないっすか」とのことだったので、注釈にしました。


[注1]三毛猫が同じ模様になるために:
 三毛猫が、天文学的確率で生じる例外を除いて♀ばかりなのは、ネコの毛色決定遺伝子がX染色体に乗っているからだ。
ネコの性決定遺伝子はヒト同じくXX,XY型であり、この順に♀, ♂となる。
♂の場合、毛色決定遺伝子の乗っているXは1つしか持っていないため、安定した単色のネコしか現れないことが殆どだ。
ところが♀の場合はXを2つ持ち、また哺乳類の特徴でこれが各細胞でどちらか片方しか発現しないようになっている。
ために、遺伝的に片方のXに黒色毛or茶色
毛遺伝子、もう一方には白色遺伝子が乗っていた場合、
体の各部で黒/茶と白との片方ずつだけが現れ、結果として三毛猫が生まれてしまう。
モチロン、こうした発現パターンは全身個々の細胞でほぼランダムと言ってよく…つまり、
遺伝子が同じでも元のネコと同じ毛色になる確率は(1/2)×(1/2)×(1/2)×…数億回, 未満なわけだ。
この話は何年か前、東京大学入試の生物の問題に出たね。

[注2]生物進化的倫理観:
 ただの個人的造語。でももっといいネーミングはねぇものかなぁと思うんだが…。
生物において進化であろうと種存続であろうと、中心的役割を果たすのは生殖に他ならないので
生物界においては生殖がある意味至上と考え、神秘性をもって捉えるちょっとした軽い傾向。
それ故に、性の見方は第三者的で淡々としており、例えば"商品化された性"にやたら反発したりもする節がある。
 実際、動物における2大欲求は食欲と性欲であり、前者は個体維持、後者は種の維持に関連するが、
前者を行なわない生物は数多。
後者は生物である以上、例えば単為生殖でもないかぎり存在が否定されることなどない。
生物の形態・行動のどれもが突き詰めれば生殖に関連させることで説明できてしまうものだ、大体。


[注3] ピュグマリオンのガラテアや、クラリーに似せたハダリー:
 どちらも「現実の女なんて失望した!」と嘆く青年が、命を持った彫像なりアンドロイドなりを得る話。
 前者はギリシャ神話。
キプロスの王であったピュグマリオンは理想の女性の描いた像を彫り、それをガラテアと名付け、
人間となることを願った。性愛の女神アフロディーテはこれを聞き入れ、像を人間の女性に変えたという内容。
結構有名で、派生した話はいっぱいあります。
 後者はヴィリエ・ド・リラダン(Auguste Villiers de l'Isle-Adam)による19世紀フランス文学の傑作、『未来のイヴ "L'Ève future"』から。
イギリス人の青年エワルド卿はアリシヤ・クラリーという女性の美貌に惚れ込んだが、その低俗な内面に絶望していた。
友人のエディソン博士に打ち明けたところ、博士は彼女に似せた人造人間ハダリーを作る…という内容。
文庫本1冊程度の小説だが、台詞につけ何につけやたらと哲学的な引用やら考察が多く、展開が遅々(笑)。
テーマは深く、面白いと言えば面白いんだけれども、フランス古典に慣れていないと結構読みにくいかも。
併せて、押井守監督作品、『イノセンス』も観よう。

[注4]南極1号:
 第一次南極観測基地越冬隊のために文部省が依頼して作らせたと言われる、性欲処理用人形。
当時は(今でも)禁忌視されることの多いためか、ほとんど公表はされなかった。
そのため列記とした証拠も残っていないとされ、その存在自体を疑問視する声もある。
だが(これよりwikipediaから転載)、…
 "極地や宇宙空間(宇宙ステーション)といった極限の環境下での長期滞在中に於ける性欲にまつわる諸問題は
一概に軽蔑軽視されるべきものではなく、現在でも研究を行っている者が世界各地に存在している
(また、将来的には火星への有人飛行計画などで、
隔絶された狭い宇宙船内での年単位に及ぶ生活が実際に行われる様になれば、
これが深刻な問題となるのではないかと考えている者もいる)。
また、精神論や倫理観に基づいた禁欲や自制による解決も困難という見方も少なくなく、
解決の手段を模索した本計画は特筆に価すると解する人もいる。
本計画の推進を可能とした背景には、倫理観、社会意識の変容という条件が存在したことは記しておく必要があろう。"
 …と言われている通り、極限状況下での精神状態を考えればむしろ先進的判断であったのかもしれないと私は考える。


[注5]フィリップ・K・ディックや士郎正宗:
 Philip Kindred Dick(1928-1982)は20世紀のアメリカの代表的SF作家。
その世界観や風刺(と言ってもよいか)などが魅力的で、その作風に強く影響を受けたものも現在多く見られる。
近年やたらと作品が映画化されるような気がするが、正直上手くいってねぇなぁと思う。
(『追憶売ります』→『トータル・リコール』や『少数報告』→『マイノリティ・リポート』、『報酬』→『ペイチェック』などが有名か)
しかしその最も有名にして傑作と言えるものは、何と言っても『ブレードランナー"Blade Runner"(1982)』だろう。
原作名の『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?"Do Androids Dream of Electric Sheep?"』も有名だ。
ハーラン・エリスン(Harlan Jay Ellison)作の我が3大愛読書の1つ、
『世界の中心で愛を叫んだけもの"The Beast that shouted Love at The Heart of The World"』(1969)
と並んでやたらとタイトルが色々な所でコピーされる。
内容に関しては、第三次世界大戦後の世界で賞金稼ぎのデッカードが逃亡した8体の人造人間を"処理"する
といったものだが、デッカードはその中で「人間とは何か?人間と人造人間との違いは何か?」という根源的な問題に直面していく。
映画版はシド・ミードの退廃的な美術も魅力。
彼は最近では村田蓮爾や小林誠と一緒に愛知万博で映像作品をデザインしたり、
ゴジラの新作3D映画に参加している?と噂が流れたり、私個人としてはこちらも面白い所です。
 士郎正宗は漫画家にしてイラストレーター。
『攻殻機動隊』『アップルシード』などに代表される作品は、かなり難解にして緻密である。
代表作品の多くがアニメ化しているが、大抵登場人物のキャラも変わり、ストーリーの書き込みや、味わいも大分異なるので、
『攻殻』も『アップルシード』も『イノセンス』も映画で見たよ~という方も原作を読んでみることをお勧めする。

[注6]なんか台詞:
 映画、『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊 (1995)』での、草薙素子の台詞の一部。
作品のテーマをよく表したものとして、引用をちょいちょい見かけることがある。


[注7]ツァラトゥストラに死亡宣告:
 フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ(Friedrich Wilhelm Nietzsche 1844-1900)による
『ツァラトゥストラはかく語りき"Also sprach Zarathustra"』に、「神は死んだ」という有名なフレーズがある。
ここでニーチェが批判したのは当時のキリスト教的道徳観・世界観、
現世を否定し彼岸に救いや絶対的真理を求めようとする精神であり、
同時に絶対的真理を希求する科学をも否定している。
 LOKI:は、一般的民衆の手から離れて"絶対的""万能"と妄信されるきらいのある近代の科学的倫理観を
一度崩してもらわにゃならんかのうとでも思ったか、イキオイに任せてこれを引っ張ってきたようだが、
そんなにニーチェに詳しいわけでもないし、永劫回帰の概念は生命進化的に受け入れ難いし、
よくよく考えれば場違いだったかも。流してください。



表現が今ひとつかなぁ、説明不足かなぁと思しき部分も残り。というより、自分の中であまり考えが収束していない。
あとでちょいちょい内容やらタイトルやらいじるかも。



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2 Comments

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大変 (モンブラン)
2008-03-08 09:11:41
アレな話で申し訳ないのですがw
なんか昔南極的な人形の職人さんが
「風俗にいけない人から喜びの手紙をいただくと
嬉しくてまた頑張らなきゃと思うよね。
中学生の娘には嫌われてるけどさ。」
みたいなことを言ってる記事を読んだのを
思い出しました。
いえいえ (LOKI:(fantasia*diapsida))
2008-03-08 17:03:00
個人的に、まず"風俗に行くor行きたい"って感覚がどうしても理解できないので、
私もどちらかと言えばその娘さんと同じ反応になりがちなんですよね(笑)。
でも本当、なかったらきっと困ることが沢山おきてくるんだろうなとも(頭では)考えられるので、
絶対に否定することは出来ない。

実際に職人さんの仕事ぶりとか精神とか見たら、
例えば一般的に陶芸家や一流シェフに抱くような尊敬の眼差しを
同じように向けるようになるでしょうしね。

評価はされにくいし、
世間の風当たりも厳しいものがあるのだろうけれども
まぁそれを言うなら研究者も似たようなものですし(笑)。
白い目で見られがちな物・人こそが、
実は間接的に重要な役割を果たしているっていうのはよくあることだと思います。

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