fantasia*diapsida

とりとめのないメモの山

see the wood for the trees:

2009-01-20 00:00:00 | essai-?

「日本の美術館やと、人ばっかりやし
 しかもそれがみんな横一線に並んでじ~っと顔近づけて見るから、絵ー見たくても見られへん。」なんて
古き良き友人と話しているとこんな話題になった。

これにはほぼ全面的に同意してしまう。
限らず、少なくともmuseumに関しては、基本的に日本より欧米のスタイルの方が望ましいのぅと思ってしまうものである。
以前博物館学のレポートに散々書き連ねたけれども。

まぁ仕方ないっちゃ仕方ないんですよ?
メトロポリタンとかスミソニアンとか色々行ったけれど、どこも敷地面積からしてデカイんだもん。
明るい展示室がストーーーーンと遠くまで続いていて、
そこにのんびり歩いている老夫婦がおりーの、模写ってる学生もおりーの…。
そういう一種の憩いの場と言うか、生活の中のアカデミックな場としてのmuseumこそが居心地いいなぁと思うのだけれど…
これは日本だとなかなかない光景だよね、特に都市部。
「さぁ美術館/博物館ですよ、何か学んで帰らなきゃ来たイミありませんよ」みたいな顔して、
ズラリ並んで勉強だ…っていう空気が、少し流れちゃおりませんでしょうか。
最近は大分そういうのも双方の改善により緩和されてきたようにも感じるけれども。
美術品は無論のこと、少なくとも自然史科学も、本来は藝術を語るものとしてmuseumに収蔵されていった。
museumとは本来、文芸と芸術の女神たちミューズ(muse; ムーサΜοῦσα)に捧げ物をする神殿、
ムセイオン(Mouseion; Μουσείον)に由来する。
芸術とは実に相対的で微妙な概念でしかないが、でもそこに一義的に含まれるべきは、
少なくとも、「考えるな、感じろ」※注1、苦学より感動であって欲しいと思う。

そりゃああいうmuseumを日本にそのまま持ち込むには色々ある。
本来持った文化的な側面もそうだし、土地の問題、お金云々…。
でもやっぱりね、絵画に限らずだけれども、でも特に絵画に関しては、
描き手は別段筆致を見て欲しいとかどうのとは思っていないはずで、
そんなもんより総体としての"絵"を見て感じて欲しいと筆を動かしているはず。
だから、作者の意図だの何だのを掴み取ろうという時でさえ、
それは接近するよりはむしろ遠ざかった方が得られるものが格段に多いと思うのです。
だから、例い多少の無理があっても、やっぱり美術館では"絵"を見たい。
コマ送りもまた一興だけれども、それは全体を知って感じ入るものがあった上で初めて行なわれるべき仕業ではない?


と、何となくだが考えたので。
少々短く纏めるのは難しくて乱文状態だけれども、
まぁ一歩引いて巨視的に総体を捉えられる人間になれたらいいな、ということで(なんのこっちゃ)。




※注1:ブルース・リー(李小龍)のお言葉ね、一応。

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